● 朝日高校同窓会関連へのリンクやトピックス ●
二女創立70周年特別企画
二女・二女高年譜
創成期
−優雅でアットホームな時代−
戦中
戦争一色に包まれた時代
戦後
敗戦と教育改革で激動の時代
 

ありがとう 二女で過ごした遠い日々

     昭和25年卒業           大井 順子
 私達の学年は昭和19年の入試で突然一女との総合選抜を経験し、その結果、一女進学を自他共に疑わず、又一女出身の親族に囲まれて「自分も当然一女と思っていたのに」と涙する人達もいました。その上にと言いたいこともお有りと思いますが、兎に角、そのような新入生を迎える事は、二女の比類ない校風をこよなく愛しておられる上級生にとって快いことではなかったのは当然でございましょう。
 私達も戸惑いましたが、担任の田中福子先生が異状なまでに可愛がって下さり、「素晴らしい学校、二女大好き」になるのに時間はかかりませんでした。

 どのように素晴らしいかはすでに書かれていますので、視点を変えて思い出しますのが師範学校の図書室です。重々しい感じなので入るのにドキドキしましたが実に立派な多くの本や専門書を手に取ることが出来ました。ギリシャの古典に夢中になる人、空海の書の上に五本の指を広げて筆使いをまねしながら趣のある写真集を見入る人、みんな時の経つのを忘れました。又師範生が使っておられない時はピアノの個人レッスン室での楽しみなど休み時間や放課後も学校中を探検するかのようにしてよく学びよく遊びました。
 それなのに、掛替えのない旧講堂も図書室も、昭和20年6月29日一夜の空襲で全部焼け落ちてしまいました。焼けただれ乱れて、ビューンと伸びたピアノの弦だけが個室の数と間隔通りに横たわっているのを見た時、心の底から悲しみがこみ上げて泣きました。

 終戦後は六・三・三制を経て一中と合併男女共学の朝日高校一期生になりました。僅かの期間でもあり私達は頑張って藩池だけが頼りの二女の地に留まり、女子校二女の生徒の気分で卒業させて頂きました。

 担任の長瀬英介先生とは年に何回か今も集り参加出来ない人にも先生のお手製の冊子が届きます。その文章はいつも「二女の皆様へ」で始まります。それは先生にとっても私達が総合選抜で入学したとはいえ、又朝日一期生になったとはいえ、私達を実質二女の卒業生として送り出して下さった表れではないでしょうか。

 今先生は体調を大きく崩されています。私達は、次の「二女の皆様へ」の冊子を祈りを込めてお待ちしています。
 二女での遠い日々、心からありがとうございました。

     榎並様 山戸様 と共に記憶を辿らせて頂きました。

オールナイトのクリスマス 3年生(昭和21年) 朝日高校開校式と朝日高校新聞 昭和24年10月

 当時を振り返って 

     昭和26年卒業            藤原 賀津子
昭和20年
 
 岡山一女・二女の総合学区制による入学試験実施。合格校は居住地区選抜方式で決定され、一女300名、二女50名とのことであった。

(4月2日)
 二女の入学式(女子師範の生徒と合同、坂本彦太郎校長は女子師範の校長と兼務)。1クラス54名(4名は補欠合格)で、二階の大講堂で行われた。
 服装は、上着はセーラー服または出身校の制服、下着はモンペであった。 しばらくして、県内で統一された標準服ができた。(上着は黒または紺色、襟はへちま襟、襟上に白襟をつける。上着の共布で作ったベルトを腰で締める。胸には白布で学年、氏名、血液型を標記。防空頭巾、三角巾、救急袋を携行すること)
 校庭の南にある校門(300年の風雪に耐えてきた重厚で由緒ある門)を入る、進むと石造りの半池がありその奥に旧講堂があった。周囲に老松が茂り厳かな感じ。左側の運動場を通り抜けて教室に入る。教室は女子師範の一部であった。

(4月3日)
 最初の朝礼、1・2年生は学徒動員の上級生を見送った。

 先生が新入生を校舎内、教室等案内してくださった。
旧講堂(旧池田藩藩校の講堂で700名収容、現存の和気閑谷校と同形式の建物)、階段教室、お茶室、料理教室、裁縫教室(ミシンが多数)、音楽教室(練習用のピアノ数台以上)、廊下の所々にはオルガンが置かれていた。県下の女学校としては一番設備が整っていると言われた。

 授業は女子師範と同じ1限は90分授業。女子師範の先生と兼務の先生が居られた。体育の時間には薙刀の練習があった。渡辺先生(兼務)は厳しく、掛け声が小さいと叱られた。習字の大原桂南先生(兼務)は法務衣のような上着で下はモンペ風だった。「精神安定安寧統一」と言われ姿勢を正しくして墨をすり書く基本的なことを指導された。国語は秋山先生(二女の一期生)で、授業の終わり頃、生徒の様子をみて昔話をしてくださりほっとした。

-勤労奉仕-
食糧増産のため農家へ何人ずつ分散して麦刈りや田植えの奉仕に出かけた。農家では、ジャガイモの皮ごとの丸茹や白米のおにぎりがでたところもあった。

(6月22日)
 岡山市芳田方面の農家で田植え作業中、倉敷の水島あたりが空襲されているとのことで、近所の神社へ避難し、空襲警報解除後帰途についた。岡山に空襲警報が発令された時には、市内の人は帰宅したが、汽車通組(吉備線数名)は校庭の南西角にあった防空壕に避難し、解除後帰宅したこともあった。

(6月29日)     未明に岡山大空襲。当日は中間試験であった。

(7月初旬)
 2〜3日は危険なため登校不可能だった。その後、大通りの道を歩いて学校に行くと、来ていた人は半数以下であった。市内の殆どが全焼し、所々焼け残っていた。校舎は全焼し、南西角にあった温室だけが残っていた。半池の周りに集まり同級生が空襲でなくなったと聞き、黙とうをした。焼け出された人は、親戚や知人を頼って疎開し、疎開先の学校へ転校した人もいた。
 市内に帰れた人や疎開先から通学できるようになった人で、学校に来れる人が少しずつ増えた。校舎の焼け跡にはまだ不発弾があるかもわからないと言われた。西側の堀の外側には死体にトタン板が掛けてあった。西川には死体が浮かんでいた等、悲惨な状態であった。先生と生徒は焼け跡の整地、整理に励んだ。温室を修理して事務所とした。

(7月中旬)  夏休みに入る。

(8月15日) ラジオ放送で終戦を知った。

(9月初旬)
 二学期の始業式は運動場に並んで行われた。(二女のみ)
 出石の浅井先生、村上先生のお宅を借り、座敷に座って話を聞くという授業を開始。

(10月)
 岡山市西川原にあった学校農園の稲刈り・芋掘り作業に励み、収穫物を北村先生宅の納屋(東川原)まで運んだ。
 入学以来の「頭髪を切らず後ろで束ね」という規則が、パーマ以外は自由になった。制服も元の二女の制服になった。
 岡山市番町にあった教育会館と城北女子商業学校の一部を借りて授業が再開された。教科書はパンフレットのようなものだった。

(10月23日)
 進駐軍(米兵)が岡山に駐屯するため休校となった。前日に先生から「ジロジロ見ない。話しかけないように。」と厳重に注意された。

昭和21年
(1月中旬)
 三学期始業。初めてパンフレットのような教科書で英語を習った。太田先生(女性)からは、ローマ字や発音記号等。アルファベットは歌のようにして教わる。音符は戦時中、ハニホヘトだったので、ドレミに変わり戸惑った人がいた。

(4月)
 野崎校長を迎えた。焼け跡に兵舎を譲り受けた小さい木造平屋建ての校舎が建ち、順次増築、整備された。まだ体育館や特別教室はなかった。

昭和22年
(4月)
 新制中学校の発足に伴い、私たちは、「第二岡山高等女学校併設中学校」の3年生となった。学校の行事や講演会のときは、2教室の間仕切りを取って行われた。
 岡山駅前でグループ別に共同募金に参加したことがあった。当時食糧難だったためか、駅事務所内に置いていた生徒の荷物の中からお弁当が無くなったこともあった。

昭和23年
(4月)
 「岡山県立岡山第二女子高等学校」と改称した。私たちは、高校の1年生となった。二女高として生徒募集により他校からの編入者で1学年2クラスになった。

(10月)
家庭科教室が完成し、料理実習が出来るようになった。調理品を教員室に持参し試食していただいた。午後から映画館へ先生と名画を見に行った。帰って感想会があって楽しい時間があった。

昭和24年
(8月)
 岡山県立岡山朝日高等学校」となった。女子は、全員中山下校舎(旧二女校舎)で授業を受けた。
 秋には、女子だけ京都・奈良方面へ2泊3日の旅行へ行った。

昭和25年
(4月)
 3年生の女子(私達)が内山下校舎(旧一中校舎)に移った。ここで初めて男女共学。当時は一中と二女の教科内容が非常に差があり、勉強の仕方にも差が多かったので、学力差に悩み進学を諦めた人もいた。選択科目によってクラス編成されたため、1クラスに女子3名、5名、10名〜20名と言うクラス別になった。
 校舎は薄暗くお粗末であったが眺めは良かった。男子の殆どが午前中にお弁当を食べ終わるのには驚いた。授業を受けてみて切実に男女の学力差を感じた。
 修学旅行が無い代わりにクラス毎の日帰り旅行があった。体育の時間、男子は自由に、女子はダンス(女性の先生)の練習だった。家庭科の実習は午後になっていたので何クラスか一緒に中山下校舎まで行って実習した。
 思春期になって男女共学になったので、初めのうちは違和感があったが、次第に馴れてきた。

(9月)
 旧六高校舎跡へ3年生のみ移動する。各自椅子を持って相生橋を渡った。化学の授業は男女一緒に学んだ。家庭科の実習は中山下校舎(二女跡地)まで行っていた。文化祭・体育祭は女子だけではできない催しであった。

昭和26年
(3月)
 成績が非常に悪い生徒は卒業できないと言われたようで、女子のPTA会長(日下国立病院院長)が「女子は縁談に支障をきたしては困るので卒業させて欲しい。」と先生方に頼んでくださったので、女子は全員卒業できたと聞いた。女子の中にも頑張って大学・専門学校等へ進学された人があり嬉しく思った。

激動の時代、良い体験と勉強をさせていただき、良い思い出ができました。立派な方と出会えた事を幸せに思います。記述に違う部分があると思いますが、ご容赦ください。

最後に岡山県立第二高等女学校の教育目標・教訓を掲げておきます。

教育目標

1. 純真で明朗 奉仕を喜ぶ性格
2. 科学的知識の愛好とその応用の態度
3. 健康の保持、増進を工夫し励行する態度

校訓

明瞭にして良淑優雅

 

 戦後の音楽あれこれ

     昭和26年卒業            金田 とく
 
 二女の校舎が戦災でなくなってからは、出石の浅井先生・村上先生のご自宅で勉強しました。それからしばらくして、番町の教育会館と城北女子商業学校を間借りして勉強しましたが、音楽の授業はありませんでした。町には「リンゴの歌」が聞こえる程度の音楽的環境でした。

 中山下の焼け跡に仮校舎が建ち、そちらに移ってからはピアノもあり、音楽担当は堤立穂先生(昭和19年5月〜22年1月、22年12月〜25年3月在職)でした。まだ男の先生は国防服といってカーキ色の地に五つの金ボタンがついているような服装の時に、特別ダンディな先生が現れたのです。髪はリーゼントスタイルでダブルの背広に蝶ネクタイをしめ、サッソウと歩かれる姿に目を見張りました。
その頃教えて頂いた曲は名曲ばかりでした。「君よ知るや南の国」「お菓子と娘」「乾杯の歌」「ロンドンデリーの歌」「美しき青きドナウ」「ハレルヤコーラス」などで音楽の時間を大変楽しみにしていたものです。

 また、この頃、ソプラノ歌手の斉田愛子さんが岡山に来られることになり、「僕が伴奏しますから」とおっしゃってましたので、城北女子商業学校へ聴きに行きました。曲目は「からたちの花」「砂山」「赤とんぼ」などだったと思います。

 堤先生と私とは不思議なご縁で、先生は同じ町内に「堤児童館」を開設されました。それで、私の家に来てくださったり、また私がお邪魔したりして当時のことを色々話しました。堤先生にとって、教員生活の中で「二女」は特別懐かしく思っておられ楽しそうに話して下さいました。

 服部武夫先生(昭和22年3月〜25年3月在職)の英語の時間やクラブの時には英語やドイツ語の歌を教えていただきました。

・ My old Kentucky Home   (ケンタッキーの我が家)
・ Silent Night        (聖 夜)
・ Jingle Bells        (ジングルベル)
・ Moon Light Colorado   (コロラドの月)
・ Blue Hawaii        (ブルー ハワイ)
・ Der Lindenbaum      (菩提樹)
  etc.

今は堤先生も服部先生も亡くなられました。慎んでご冥福をお祈りいたします。

 

 母校の想い出

     昭和27年卒業           市川 榮子
 
 昭和21年、旧制最後の岡山県第二岡山高等女学校に入学、教育会館を振り出しに、中山下、そして内山下校舎と移り、男女共学の朝日高校生徒となりました。

 私たちは、小学6年生の時、修学旅行を経験していません。通学に利用していた市電も一律8円(昭和26年)の頃でした。

 二女時代は、第六高等学校の皆さんがいて、表町辺りで、二女のメッチェン等と頭を撫でられた時代でした。

 新制の朝日高校で卒業の時には修学旅行が出来ると思っていましたが、一高の方は無しと言われがっかりしましたが、日帰り旅行をクラス別に行く事になり、四国琴平に初めて団体旅行をし、嬉しくて今でも鮮明にその時のことは楽しく心に残っております。

 そしてもうひとつの想い出は、男子生徒と一緒に今は無き岡山市公会堂にて県下高校演劇コンクールで出場したことです。

 半世紀を生きて、数々の思い出の中、特に心に残っていることだけを綴りました。


岡山朝日高校同窓会公式Webサイト