● 朝日高校同窓会関連へのリンクやトピックス ●
二女創立70周年特別企画
二女・二女高年譜
創成期
−優雅でアットホームな時代−
戦中
戦争一色に包まれた時代
戦後
敗戦と教育改革で激動の時代
 

 第二高女の4年間

     第6期生(昭和20年4年卒業)      丹上 斉子
 昭和16年4月、あこがれの第二高女に入学した。次第に戦争が厳しくなり、運動靴が手に入らないので冬でも裸足で体操して、小石が足の裏に食い込んで痛いのを我慢して頑張っていた。また、柳川から三野公園まで裸足で重い砂袋を両手に持って往復したこと等、戦争中だからこそ耐えられたと思う。下駄ばき、もんぺ姿、防空頭巾と服装も戦争一色。そして、食糧も乏しくなってきた。農家に行って、田植えの手伝いをしたり、兵器廠で働いたり厳しい毎日だった。

 その中で一番楽しかったのは音楽の時間であった。島崎先生は面白い話やお化けの話をよくして下さった。「野ばら」「通りゃんせ」等の二部合唱、「カッコー」を輪唱したこと、モーツアルト・ベートーベン・シューベルトの名曲の鑑賞など戦争を忘れる時間であった。

 中でも「魔王」の曲は表現力豊かな解説で強く心に残っている。「魔王」の曲を聴いたその日は、帰りの汽車が遅くなり、灯火統制のため真っ暗な道を自転車で帰宅途中であった。右側は暗い林、風で枝が揺れている。昼間聴いた「魔王」の旋律が耳の奥で鳴り出した。真っ暗な森の奥で手招きをしているようだ。「マイファーザー、マイファーザー」と叫ぶ声が聞こえてくる。もう恐ろしくて一目散に自転車を走らせる。後から魔王が追いかけてくる。あの時の恐ろしさは今思い出してもぞっとする。

 大東亜戦争も敗戦色が濃くなり、私達4年生は学徒動員で住友通信に行き電波探知機の部品を作るため、ハンダつけを頑張った。日本にアメリカのB29爆撃機が飛来し、空襲が始まった。戦時特令で私達の学年は4年生で卒業することになった。「海ゆかば水くかばね」を歌って卒業証書を戴いた。友達とゆっくり別れを惜しむ時間もなく辛く淋しい気持ちで私の女学校生活は終わってしまった。友達はばらばらになってしばらくは逢う事ができなかった。

 平和になってから、一年に一度、岡山国際ホテルで「あいざくら会」が開催され、6期生の私達は遠くからも大勢集まって楽しい一時を過ごすことができました。4年間苦楽を共にした友達はとてもすばらしい仲間です。二女を卒業したことは、私の長い人生でいつも誇りに思って生きてきました。


 あの頃の私の通学風景 

     第9期生(昭和23年卒)  辻 和子
 昭和18年4月、岡山県立岡山第二高等女学校へ入学しました。今でこそ岡山市ですが、児島半島の先端、陸の孤島のようなところ甲浦に生まれ育ちました。何故か、中学・女学校・六高・医大への通学者、そして県庁勤務者等が、小さな巡航船に船が沈みそうなぐらい乗って通っていました。入学した頃は戦争色もさほど濃くなかったのですが、そのうち、舟やバスの運行回数も減ってきて部活でもしようものなら、特別仕立ての舟を出してもらわなければならないので、特にお金の用意を忘れませんでした。母は「5時起きして弁当を作らねば女学校へはやれぬ。」としょっちゅうこぼしていました。

 自転車を15分位こぎ、飽浦(あくら)という名の船着場に着きます。冬は桟橋の上が凍っていてよく滑ったりしました。そこから旭川河口の三蟠まで15分ほど舟に乗ります。羅針盤の無い自信たっぷりの船頭による勘ひとつの舵取りですから、穏やかな日は何事もないのですが、早朝でまだ薄暗く春先の海面一杯にもやが立ち込めている時は、エンジン音は聞こえるものの進んでいるかどうなっているのか不安だったことも多々ありましたその中、陽が射す頃になったら、一斉に晴れてエンジンの音けたたましく三蟠港に着きホッとしたことを覚えています。

 船を降りると木炭バスが、車体後ろの筒型の大きな釜から煙をだして待っています。そこ目がけて一目散に走って乗り込みます。シートに座った者が、立っている人達のカバンを山のように膝に積み上げ、中間・期末考査となれば本を開いて勉強していました。旭川の土手を満杯のバスに30分揺られ城下に着きます。遅れた時は城下で証明書をもらって学校へ行くのですが、校門の守衛のおじさんとすっかり顔なじみになり、ちょうど朝礼などの時間だとよく押入れのようなところに匿ってもらったこともありました。

 3年の時は6月末に岡山空襲8月終戦と続き、とうとうバスのダイヤもズタズタになり、あの長いバス路線を下駄を履いて幾度も歩いて通いました。終戦近くの頃歩いていると、アメリカの戦闘機グラマンがこちらにやってくるのです!!機銃掃射されるかと思いあわてて大木の陰に身を隠したことを思い出します。引き返してまたやって来た時は生きた心地がしませんでした。昭和20年8月15日終戦となりました。

 そして、昭和23年春に卒業しました。第二高女第9期生として今現在まかり通っています。苦労して通った道、あの風景が懐かしく思い出されます。

 

 焼け跡の乙女達

     第9期生(昭和23年卒)   桑原 美津子
 昭和20年6月29日未明、B29爆撃機76機が岡山市を中心に来襲、油脂焼夷弾を投下、私たち9期生の3年生の時のことでした。この空襲によって由緒ある岡山藩校、又女子師範、第二高女、女子附属小学校、女子附属幼稚園は灰になってしまいました。この時一級上の赤沢万里子さんが、二女でお一人お亡くなりになりましたのは、今でもつらい思い出です。

  私といえば、現在の津高に、二年生のときに川崎から疎開していまして、一年たった明け方、B29の爆音と飛行機からまかれる焼夷弾のシャーという音で目覚め、半田山のむこうが真昼の様に明るく、焼夷弾のまかれるのが目の奥に焼きついています。それはまるで花火の様でございました。

  次の朝学校に行こうとしますと、今の国道53号線(津山街道)を岡山から大勢の被災者の方々が列をなして歩いていらっしゃいました。皆さん真っ黒なすすけた顔で頭からぬれた毛布をかぶり、又、防空頭巾をかぶり、なぜかヤカンをもった方、鍋を持った方をお見かけしました。これは大変なことが起こったんだと足が震える思いでした。雨が降り、この世のものと思われませんでした。30日か31日、次の日の朝学校は?と思ってまいりました。南方の一部は全然焼けていませんでしたが、柳川に足をふみ入れたとたん、何もない一望の焼けあとでした。学校の周りは殊にひどく何もありません。泮池のみかげ石の欄干が折れて泮池につきささり、布団だの机だのが沢山、池に投げ入れてありました。やはりみかげ石で作られた井戸は、わくが残っていました。明治天皇御幸の碑も黒く焼けて立っていました。師範の方がピアノを練習なさった小さな部屋、私達女学生はマッチ箱と呼んでいましたが、そこのピアノの焼けこげたピアノ線が、お互いにからまり合ってくすぶっていました。

  空襲で命からがら逃げていらっしゃって附属の幼稚園(柳川通りに面していました)の焼けあとで命をおえられた方の死体が、そのまま打ちすてられて、私達はこわごわ遠くから見ていました。次の日には、蛆がわき異臭がただよい、人間の命のはかなさ、こわさが身にしみました。やがてこの方も北方の長泉寺に引きとられ、茶毘にふされたということでした。岡山市の焼死体の方々は、長泉寺に収容されたと言うことでした。その煙の臭いがあのあたり一帯を流れていたということです。

 何も無くなった校庭に立ちますと、近くにあったマリア園礼拝堂の煉瓦の壁が、ヌーと立っていて、黒い影をおとしていました。目を転じると、天満屋がポツンと外側だけで立っていました。地下には防空壕のかわりに大勢の人々が逃げこんで、むし焼きになったなどという噂もございました。内山下の旧日銀の建物(現在はルネスホール)、歴史の時間に後に滋賀大学教授になられた小江先生がそこまで連れていって下さって、「この石の柱の様式をイオニヤ式というんだ」と説明して下さいました、その日銀も、外側だけで内側は真っ黒でございました。

 1ヶ月か2ヶ月か経ち、やっと落ち着いたころ、柳川一帯を耕して、蕎麦をまき、いつの間にか蕎麦の白い花がゆれる秋になっていました。

   ミサの鐘 焼け跡に咲く蕎麦の花

     思わず当時を思い出し口をついて出ました一句です。

 8月、9月、10月、番町にある教育会館、佐藤の裁縫女学校、浅井先生(現中央中、前旭中初代校長)のお宅、国語の村上先生のお宅と、250名の生徒は転々として新しい校舎が出来るまで流浪の民でした。

 数学の先生でいらした浅井先生からは、順列組合せという私にとってはチンプンカンプンな高等数学を教えていただき、内容はさっぱり憶えていませんが、名称だけは焼きついております。 第1期卒業生の武村先生(当時は秋山先生)からは、平家物語をお習いし、"梁上の君子"とは何を言うのですかとお尋ねになり、梁の上だから「ねずみ」かしらと申したこと憶えています。実は盗賊のことでした。秋山先生もご結婚でひかれ、掘立て小屋の様な教室が建ち、22年、第1期卒業生の故近藤登茂子先生(当時は奥山先生)が裃を胸高にしめたお姿で新任のごあいさつがあり、たちまち一同のあこがれの的になられました。

 4年生のこの年は、一中から服部忠志先生、平岡勉先生が、短歌を教えに来て下さいました。その頃、市内の文芸誌を作る動きがあり、一中の方を中心に、旭水という小誌が何回か出されました。  その仲間と岡大で又出会い、岡山文学の短歌の会が出来たのを記憶しています。  服部先生の作詞になる朝日高の校歌の美しい大和言葉に、いつも聞きほれます。

 思い出は尽きずと申しますが、御拝読いただきありがとうございました。かつて、アプレゲールとそしられた若き日の私達も古稀をすぎました。

<二女跡地は現在の岡山中央中学校(旧旭中学校)運動場南の一角にあり、藩校跡地公園となっています。>

岡山朝日高校同窓会公式Webサイト