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メディアに登場したホットな同窓生をご紹介(敬称略)

菅滋正氏の略歴等は 
菅 滋正 (昭和39年卒) ザイボルト賞受賞記念寄稿

 最近国際化の荒波で英会話や英語作文能力の必要性が現実となっています。
ところがわが国では中学から大学教養課程まで8年間の英語教育を受けながらも有用な英会話力や作文力を身に付けられずに社会に出るケースが多くその国家的あるいは個々人としての損失は計り知れません。
そこで国立大学の独立行政法人化を前に私たちの研究科では大学院修士課程(博士前期課程)の講義の約2割を英語で行うことを決定しこの秋から施行します。
さらに英語授業だけで単位が取れる英語特別コースもこの秋から発足させます。大学間で横並びでは無い独自教育を行える訳ですから,まず身近なところから社会にさらに役立つ人材を送り出したいと考えております。
写真1 軟X線ビームライン装置

 既に私は3年前から
講義の一部を英語化。また研究室にドイツ人をはじめとする留学生やポスドクを迎え入れ。研究室の毎週2時間のゼミは一昨年より完全英語化。最初は院生の英語力は悲惨。とくにヒアリング力は絶望的。
しかし1年経ち2年経つと約半数の英語力がめきめきと上達。まさに
教育の効果とはこういうものでしょう。

 研究について言えば,SPring-8を用いた研究を推進中。現在軟X線光電子分光の分野では世界トップの装置(写真1)を完成し,米,独,スイス,韓国等の研究者との国際共同研究。
阪大から参加する院生は英語でのコミュニケーションを取りながら実験。私の研究科はこの7月に物理学の分野での
21世紀COE(中核的研究拠点)に選ばれました。5年間の予算措置がなされます。
昨年までこれに先行するCOEにも5年間選ばれており,国内外でもっとも高く評価されている研究者集団と言えます。

 もう一つ大学教育に要請されるのは社会に出て円満な人間関係を維持する能力を学生に与えることでしょう。そのためには日頃教官や院生の間でのコミュニケーションを常に円満に維持する必要があります。
研究室での合宿(写真2)やコンパ(写真3)がその役を果たします。これらの幹事を順に体験することで院生の
良い対人関係が養成されます。
写真2 研究室での合宿
ともすれば人間関係が不得意といわれる若者にとって,大学では積極的に教官と接し,より多くの友人を作り,積極的に発言して卒業(写真4)していって欲しいと願います。
 
 私が在籍していた頃の朝日高校には5%の全県入学枠があり優秀な生徒が全県から5%枠で入ってきていました。

いまでも朝日高の同期の気の合う仲間五人で毎年と言って良いほど飲み会を東京で開いていますが,写真5の五人中私を除く4人がこの5%生です。向かって右から江尻(リコー研究所長),福田(住商勤務の後ライフコーポレーション取締役),筆者,宮原(日本郵船常務取締役),石田(もとカロリナ専務取締役)。
皆さん豊富な人生経験を財産に,多くの特許の考案,多数の外国語文献の翻訳,世界の隅々まで知り,世界を相手にした商談,新しい技術の開発等々,現役でばりばり活躍中。
若き折,房総の海に繰り出したり伊豆海岸で遊んだり,新宿や池袋で飲んだりの気の置けない仲間です。最近では新橋や築地に拠点を移して飲むことが増えましたが,若き日の原点に戻って意見を言ってくれる
友人は人生の宝です。それぞれの多様な行き方から学ぶことも数多くあります。いつまでも元気で交流を続けたいものです。
 
写真3 研究室でのコンパ

 高校では
ESSの部活に熱心でしたが,英語以上に数学と物理が好きで,Z会の数学は2段。大学で数学科に進むとの予定は,あまりの哲学的要素のために物理系に方針変更。Z会数学3段の東京出身のS君が電気工学科へ行く事も強く影響。
第2外国語は
ロシア語。I先生のロシア語講義,T教授のプリローダゼミなど当時はロシア語が盛ん。2回生からはランダウ・リフシッツのロシア語“物理学教程”を友人数名と原著で輪講。後日ロシア語の技術文献を翻訳することで生活費を稼ぐのに役立つ (第3外国語のドイツ語は3ヶ月で断念。後から考えると残念)。
卒業後の就職を考え工学部の物理工学科に進学。これは正解で,統計学のM教授やA教授,情報のN教授,超伝導のT助教授,偏微分方程式のF教授,などそうそうたる教授陣で勉学意欲増す。卒論は“CdTe半導体の励起子”で,現在米ペンシルバニア大教授のE君と英語で共著。E君は大学院は米国にわたりその後,東大教授への招聘を断りそのまま米国に滞在中。

 私は物理工学専攻で1973年に東大で工学博士の学位を取得,東大の助手職を断り,西ドイツマックスプランク固体研究所に着任。船で横浜からナホトカまで,シベリア鉄道でナホトカからモスクワまで8日間。モスクワで1泊。再び列車で銃を構えた兵士の立っている東ベルリンを通って西ドイツHannoverに到着。ロシア語の有用な旅であった。
Hannover駅informationで英語で列車乗り継ぎを聞くも全く通じず。最大ショック。近くのドイツ人紳士に話し掛ける。全く問題無く通じる。
写真4 卒業生たちと

 この10日間のadventureを経て夕刻辿り着いたStuttgart駅にはドイツ国鉄の列車が遅延したため,予定された迎え無し(日本以外の国では列車が遅れないほうが珍しいとはそれまで無知)。もとより地図など準備無し。研究所に電話。大学院生のM.B.氏が迎えに来てくれた(これが深夜だったらとぞっとした。当時ドイツでも駅やホテルや百貨店では英語は通じなかった。現在の日本はそれ以前かもしれない)。
早速出勤のマックスプランク固体研究所では到着翌々日から超伝導磁石を用いた徹夜実験に参加(当時日本では同様な実験は不可能。装置も無ければ,液体Heを大量に買うお金も無かった)、さっそく素晴らしい結果。半年もたつと日本人理論家のC氏との共同研究も実り論文が続々。
おかげで2年目にはこの分野での国際的な研究の拠点の一つと見られるまでに発展。国際会議の招待講演の依頼もあり,
研究生活を堪能。先のM.B.氏のほか,F.W.氏やP.H.氏あるいはW.D.先生,M.C.先生やH.Q.先生とも親交を深めた2年間であった。
当時は家族(妻,長男)とともにヨーロッパを広く旅した(ドイツでの給料でドイツ流の休暇を取っての生活をした)。2年半で40,000kmをVWカブトムシで走りまわった。2年経ち半導体物理学で成果も蓄積された頃,東京大学物性研究所より招聘があり応募,1976年助教授として帰国。

 
物性研の軌道放射物性研究施設は田無市の東京大学原子核研究所の中にあり,ここに新しい放射光グループが誕生。週1回来られる施設長にかわって実務面のほとんどを担当。
加速器,測定器から全国共同利用まで毎朝9時から平気で連日深夜1時2時まで心血を注いで働いた十数年。当時指導した院生や助手は東大や名大,広大他の国立大の教授として活躍中である。
SOR-RINGと呼ばれるこの放射光施設には世界中から多数の訪問者あり交流。彼らの多くは各国で放射光のリーダー。
写真5 朝日高校同期の仲間

 やがて筑波にフォトンファクトリーが誕生。当時30代後半から40代の若手研究者が集まり日本放射光学会設立を旗上げ。長く幹事を務めた。
西播磨に世界最大の放射光施設
SPring-8の建設が決まったのを機会に,これを推進し新しい研究への展開をはかるために、東大教授へ引止めをお断りして大阪大学に1989年(平成元年)に転任。東大のS.K.教授や当時筑波大のY.F.教授らとSPring-8利用者懇談会を立ち上げ。幹事を歴任。
それまで大型X線光源では考えられもしなかった
軟X線ビームラインをほぼ私の研究室の総力で完成(写真1),世界先端の実験装置も3台製作。この間計3名の院生を1―2年SPring-8に常駐させ私も頻繁に出かけて目標を達成。
その結果世界最高性能の光電子分光装置が完成。今日まで世界中から絶え間無い共同研究の申し出。最近は研究室から年に200人・日程度の人手。
ナノテクノロジーの分野では,1998年から2年間に渡ってこのビームラインの円偏光励起を用いた光電子顕微鏡の日独共同研究を日本学術振興会とドイツ研究協会の支援で推進。トップレベルのデーターを量産。ナノテクが華やかになる以前のことであった。

 振りかえれば基礎工学部が標榜する
科学と技術の融合をまさに地でいくこの14年間であった。
まだ阪大の停年まで5年以上を残しており,さらに新しい研究展開に意欲。終生現役との硬い決意で若い院生を指導しながら楽しく研究生活。
朝日高等学校時代に
良き師に恵まれ良き友にめぐりあったことに感謝。運動会の後,皆で歌った寮歌や青春歌が懐かしく脳裏をかすめる。 (2003年8月1日 大阪豊能郡の山奥にて)


◆阪大菅研究室のホームページ◆

 
岡山朝日高校同窓会公式Webサイト