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メディアに登場したホットな同窓生をご紹介(敬称略)
宮原耕治・田原秀子・菅 滋正 (昭和39年卒)

同 級 生 交 歓


 日本郵船株式会社社長の宮原耕治、文化出版局季刊「銀花」編集者の田原秀子、大阪大学教授大学院基礎工学研究科の菅 滋正に文藝春秋社より「同級生交歓」への登場の打診があったのはH19年10月も押し詰まってのことだった。

東京湾クルーズ 左から田原、菅、宮原 

「文藝春秋」平成20年新年特別号「同級生交歓」より

 昭和20年生まれの私達が39年春に卒業した岡山朝日高校では、旧制六高から受け継いだ広大な敷地の上を自由な校風が吹き渡っていた。
近くの後楽園や操山で皆よく語り、遊んだ。 菅君は既に数学、物理で抜きん出た俊才で、先生達も一目置いていた。総代で卒業、その後放射光研究の世界的権威として、東大・阪大で教鞭を取る。「研究は人なリ」をモットーに国際交流を実践する熱血漢である。

 田原(旧姓岡)さんは、本好きの長身の少女で、赤尾の「豆単」片手に自転車通学をしていた。東京女子大在学中に雑誌の奥深さに目覚め、文化服装学院出版局(現・文化出版局)に勤務。雑誌、季刊「銀花」の編集長を務めた。現在も編集者として同誌に携わる。

 宮原は家が遠く下宿していた。夜になると下宿仲間の部屋に上がり込み、朝まで語り合ったりした。大学時代は寮委員長などして就職は諦めかけたが、幸いにも郵船に拾って貰った。矢張りこれも瀬戸内海の海辺で育った縁かと思う。(宮原) 


卒業から44年。いろいろな中学校から進学し、岡山県立岡山朝日高校で机を並べて学んだ3年間を思い出しながら,39年卒の諸氏が高校生活,部活,大学生活,社会人生活,壮年,熟年の思いなどを自由に語った。

卒業40周年同期会
【我が高校時代のきらめき】
宮原耕治 (日本郵船(株)) 味野中学校卒

 僕は児島市(現 倉敷市)の味野中からの進学だったので、朝日高の近くの国富に下宿した。当時、国富には旧制六高時代からの「下宿屋」さんが何軒かあり、僕の下宿にも朝日・操山合わせて5、6人の高校生が下宿していた。田舎から出て来た悲しさ、友達も少なく,下宿でも一人ぼっちで 当初は元気が出ない。そういう中での楽しみは食事です。歩いて10分位の所に「八仙」と言う学生専門の食堂があって、そこには田舎から出て来た僕らのような高校生が2,30人集まる。毎朝そして毎夕、この「八仙」に通った。朝食が終わると、おばちゃんが一人ずつに弁当を持たせてくれて「行ってらっしゃい」、と。ここのご夫婦には本当にお世話になった。

 段々下宿生活にも慣れてくると、今度はいろいろ悪戯が始まる。夜には近くの同じ下宿仲間のF君やE君の部屋に上がり込み二階の屋根の上で明け方まで話したり、或いは森下町の米屋のK君の部屋で酒盛りをしたり(先生お許しください、もう時効)と活動が拡がった。当時(昭和36−39年)は未だみな純情で、今から思うとウソのようだが、放課後後楽園近くの木蔭で、男女ぐるりと座り“ハンケチ落し”などやって遊んだ。僕が「和船」が漕げるようになったのも旭川です。一時合唱部に入っており,みんなで泳ぎに行った時、同級生のミスKさんが船から旭川に飛び込んだのだが、どういうわけか水着が片方の肩からスポッと脱げて、可愛いおっぱいが見えてしまったのも懐かしい思い出。

 大学ではまるで学校に行かず、朝から晩まで寮に居座り、御蔭で留年はするわ、就職は危ないわで大変だった。でも寮委員長を二度もやり、この時の経験が卒業後の僕の生き方にかなり大きな影響を与えた。

【木苺の熟れる校庭で】
田原(旧姓岡)秀子(文化出版局)岡山大学教育学部附属中学校卒

同期会
(後列・・・福田、菅、石田 前列・・・田原、江尻、宮原)
 広いキャンパスで3年間を過ごしたが、現在と同様に引っ込み思案でおとなしい少女(!)だったので、ずっと静かに読書に明け暮れていた。というのも、中学校までは普通の成績を保っていたが、高校では成績が急降下し劣等感の塊となった。恋の病で勉学が疎かになったわけでもなく、親の代わりに家事をしなければならなくなったわけでもなかったのに。優秀な諸兄諸姉が多く集まられたということなのでしょう。そして「自分なんて……」という暗雲が、以降の学生生活を覆うのである。

 そんなボンヤリオトメは、「不思議の国のアリス」が兎の飛び込んだ穴を探すように、時々一人で校庭の端まで行ってみたものだ。しかし「不思議の国」への入り口は無く、自生の木苺が繁り、季節になると珠のような実が濃い緑の葉影で赤く熟れていた。きらきらと艶やかな粒を口に含むと幽かに酸っぱく甘く、校舎でのざわめきとは異なる世界が、誰もいないその場所に確かにあった。

 ボンヤリオトメの夢見る夢子は、文字が紡ぎ出す世界が好きで、卒業後編集の仕事を選び、取材に歩いては心に響く事柄や人々を、写真と文字で紹介してきた。あの時「不思議の国」への入り口は無かったが、校庭の端には現在の私への入り口があったような気がする。

【次世代よ、世界に翔べ】
菅 滋正 (大阪大学) 丸之内中学校卒 ssmsuga@yahoo.co.jp

裸のつきあい ユートピア三鷹にて 福田、宮原、石田、菅

 私は他中学からの進学者との新鮮な交流を大切にした。高校生活は勉学・部活ともに満喫したと言って良い。部活はESSで2年の秋まで熱心に活動した(同窓会名簿42号H15年836頁)。大学ではロシア語に熱心だった。翻訳のバイトに加えて、後にドイツ留学のためにシベリア鉄道で過ごした10日間には大いに役立った。しかしドイツ語をとらなかったのは大失敗であった。滞独の間に何とか実践勉強してやっと間に合わせたというのが実情である。大学では英会話の機会は少なく、院生時代に研究室来訪のロシアの教授と英語での交流が満足にできなかったのは大ショックであった。即、図書館で英語テープのヒアリングを始めた記憶がある。

 今は大阪大学で学生・院生の国際人化を目指して英語で講義し,多数をドイツに送り実験に参加させている。そして、欧米からも若い研究者を受け入れている。日本の次世代が世界にひけをとらずに、科学者や技術者として国際社会に羽ばたけるのを教育目標の一つとしている。

 昭和20年から平成20年。この間、手紙や電報の時代から、FAXを経て、internetウェブやemailへと時代が様変わりしたが、やはり人と人の顔を合わせた交流あるいはheart-to-heartの交流が一番大切だと確信している。その意味で高校時代に多くの友情を育むことができたことは、我が人生の宝である。

      いま   かお
【中国、現在の貌】
江尻公一((株)リコー、顧問:ソフトウエア研究所(北京)、顧問)総社西中学校卒

若き日の飲み会 両国「瀬戸内」にて 宮原、福田、江尻、石田

 現在、北京に駐在してソフトウエア研究所の運営に当たっている。駐在を始めてから満4年たった。中国の大都市での4年は一世代と言われるくらい変化が激しい、ということは、私もこの地で一世代経過したことになる。いろいろな変化があったが、その中で一番大きな変化は、空気が格段に綺麗になってきたことと、中国人に自信がついてきたことだろうか。4年前の北京では、青空を見ることは稀だった。そして、あるゆるTVチャネルに横暴な日本兵がやっつけられるドラマが氾濫していた(今でも多いが)。しかし、2年ほど前から日本の取材番組が増えるにつれて、中国人の外国、特に、日本に対する知識が豊富になった。

 私は過去2年間、毎朝社員有志に英語教育を行っている。発音やプレゼンテーションの向上が主目的だ。このとき、彼らにとっては東洋が日本を意味することを初めて知った。そこで、中国語と英語を並べて、「東洋―the East、西洋―the Westだけど、ではその境界はどこ?」と聞いたところ、「中国です」との答え。では、「インドは西洋に属するの?」と聞くと途端に困る。更に「中東―the Middle Eastと西洋の境界は?」と聞くと、完全にお手上げとなる。つまり、世界というものの常識が無い。

 なぜ日本が東洋と呼ばれるようになったかを知って、現在の中国知識人の苦悩の一部が理解できた。日本が東洋と呼ばれるようになったのは、アヘン戦争以後という。日本は“東の洋式国家、つまり洋式文明をいち早く取り込み、しかも西欧かぶれした国”、というイメージだ。洋は洋式と表すことがあるように、西欧をも表す。アヘン戦争で西洋に痛めつけられ、その後列強に散々苦しめられた中国は、これに悪乗りして中国を攻めた日本には、特別の感情を抱いている。自分たちの劣等感も含めて。

 毎朝の英語クラスは世界を知る勉強会でもある。教材の英語新聞を読んでも、内容の解説が欠かせないから、これが社会勉強となる訳だ。このような訳で、中国人の外国に対する目が開きつつある実体を体験してきた。彼らにとって新規なことが多い英文記事に、どんどん質問が来る。私にとっても、彼らを理解する最高の機会である。

 最後に、ソフトウエアの分野での中国の進展は目覚しいことを一例でご紹介しよう。私の専門分野である画像処理の論文数では、例えばIEEE(電気電子学会。本部は米国)の雑誌に限っても、数年前から中国は日本の論文数を凌駕している。東京大学の物理学の研究は世界的レベルだと評価されてきたが、北京大学の物理の論文数が東大のそれを上回ったそうである。

 中国が自信をつけるに従って、昔のような反日騒動は影を潜めるだろう。海外旅行が盛んになった現在、日本は人気のある旅行先でもあるのだ。

【思いを遂げた語学留学】
平松博子 桑田中学校卒

朝日同期会
左二人目から平松、福田
朝日高校時代は、当時は屋外競技だったバレーボール部に属し、1年中真っ黒だった。親の「薬学部へ」という勧めを振り切って、”東京の私立のミッション系の女子大の英文科”に憧れて進学。一時、「選択を間違えたかな?」と、思う事もありましたが……。

 結婚後も、家庭教師、学習参考書の編集など、育児、親の介護をしながら家で仕事ができたのも、大学の名前があってのことと思っている。

 夫の両親を見送った後、50歳の時、かねてより念願のイギリスへの1ヶ月半の「主婦の語学留学」を果たした。英語力の成果はさておき、イギリスの一般家庭をのぞくことができたこと、そのあと一人でB&Bに泊まりながら、コッツウォルズ、湖水地方、エジンバラ、そしてランズエンズまで足を延ばしたこと……、いっぱい失敗はしたけれど、貴重な体験となっている。

 イギリスから帰った後、「ポーセリン・ペインティング(白磁への絵付け)」を習い始め、10年になる。いつか作品の展示会を開くのが、次の『夢』である。

福田浩國 (もと住友商事)牛窓中学校卒  kuni_unique@hotmail.com

 いつの間にか、しかもあっという間に、時が経ち、還暦を迎えた。道のり、「Study」24年間、「Work」36年間。Studyの24年間、岡山県の片田舎(牛窓)の海辺の良き家庭で良き母父に育てられ、のんびり通った幼稚園小中学校(牛窓校)と、古都の歴史の雰囲気の中で呑気に過ぎた大学(京都大学)5年間は、私の性格の礎となっており(=α)、豊かな学びと授けられたことの実に多かった岡山市の高校(岡山朝日高校)3年間、なかでも同窓(1C2B3A組)の故旧( 菅、宮原、奥平、江尻、石田、岡、の諸兄)は、以来私の人生の、宝ものであり師であり友となっている(=β)。Workの36年間、総合商社(住友商事)に勤めて、学ぶこと得ることの誠に多彩だった中東駐在生活(クゥェイト、イエメン計6年間)を含めた諸々の海外経験は、私という人物の多くを造り、生き方を彩っている(=γ)。Workの多忙の合間に、結婚して、可愛い子供が3人生まれ、いま私の家族は8人(=σ)。東京の郊外(小金井)に住み、地域の仲間達と週末テニスの付き合いを築いている(=λ)。還暦をtake chanceにWorkをamicablyに卒業できたいま、60年間で得たこれら全て(α、β、γ、σ、λ)を人生のresourcesとして、老いゆき死に到るこれからの人生を出来るかぎり「Enjoy(自適)」してゆきたいと考え、願い、夢見る。URTI(Use your Resources, Take your Initiative.)、海外の友(師)が教えてくれた人生訓を支えに、「Enjoy(自適)」の一燈を提げて暗夜(これからの老いと死 )を歩いて行きたいと思う。


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