−4都市空襲直後の報告書を邦訳−
「米軍資料 ルメイの焼夷電撃戦 参謀による分析報告」 |
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−記事の主な内容(朝日新聞 6月14日)−
岡山大空襲を研究する日笠俊男さんは、米軍が東京、名古屋、大阪、神戸の4都市を相次いで空襲した直後に作成したとみられる報告書を米国立公文書館から国立国会図書館が購入したマイクロフィルムの中に見つけ、友人と共に「米軍資料 ルメイの焼夷電撃戦 参謀による分析報告」として邦訳出版した。
報告書によると3月9日以前の日本本土空襲は編隊を組んだB29が高々度から爆撃していたが10日以降低高度から夜間に各機が単独で焼夷弾を投下する攻撃法を導入。東京大空襲では、約41平方キロの市街地が破壊され、約10万人が犠牲になった。12日の名古屋では部隊を2波に分散する攻撃法を試みたが、被害は約5平方キロにとどまった。このため報告書は「短時間で目標に航空機を集中させる必要がある」と指摘。低高度からの爆撃の有効性を協調している。
日笠さんは、「一連の空襲で米軍は、低高度から単独で焼夷弾を投下する攻撃法に自信を深め、終戦まで継続した。岡山大空襲をより理解するうえでも貴重な資料だ」と話している。
(山陽新聞 6月26日にも同報告書を取り上げた記事が掲載されました)
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−略歴−
日笠俊男 1933年韓国ソウル生まれ
1945年6月岡山空襲 国民学校6年生のとき御成町で被災 被災後久米郡大垪和村(現美咲町)に疎開
元公立中学校長 元山陽学園大学国際文化部比較文化学科非常勤講師 岡山空襲資料センター代表
−岡山空襲資料センター「資料館」の展示品から−
日笠さんは朝日高近くの自宅に「岡山空襲資料センター」を設立し、「資料館」を公開しています。展示品の一部を紹介してもらいました。
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日笠さんの著作 |
米軍資料が記録されたマイクロフィルム |
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岡山城天守閣の空襲瓦(数枚が高熱で溶融) |
岡山県初空襲(新庄村)で落とされた爆弾の破片 |
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「焼夷弾」 上は自宅に落ちたもの、下は朝日校横を流れる御成川で発見したもの。右は発見場所に立つ日笠さん。空襲から57年を経た3年前の7月8日、歩いている時偶然発見した。後方に見えるのは朝日校に隣接する「岡山県教育センター」。 |
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甲浦村に墜落したB29のタイヤを「すらし(ブレーキ)」部分(写真右上)に再利用した猫車。ゴムの車輪(写真右下)は日本の練習機「赤トンボ」のタイヤが使われている。まさに「呉越同舟」。 |
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一式陸攻の構造材となったジュラルミン板
(天満屋北館の部品製造工場に残っていたもの) |
庭の防空壕
蓋の上は当時丸太と土で覆ってあった。 |
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