まず、資料集めとは何かということだが、30年間資料集めをしてもまだ肝心なところは足りない。資料には、生徒の手元に残る資料と、学校にしか残らない資料、教師の手元には残る資料などある。例えば「学校要覧」は外来者に手渡すものなので、教師の手元には残らない。学校に残った資料は空襲で焼け、鉄筋校舎への改築の時に捨ててしまっている。一度捨てられると、もういくら時間をかけてもどうにもならない。
明治の教科書は呼びかけると集まってきたが、それだけでは十分ではない。その頃でも洋書(原書)は学校が貸し出したから、学校が焼けてしまったらもうない。
もっとも、カリキュラムの表は、教科書が集まっても通知表が集まっても再現できない。カリキュラムの表のない校史なんてないのだが・・・
多くの学校では50周年、60周年、100周年には校史を作っている。130年間一度も作っていない学校は本校だけ。一度に作るとなると資料集めを何十年しても難しい。
『生い立ち、戦前篇』を作ったのは、生徒に学校の伝統を語れる人がいなくなったから、生徒に学校の歴史を知ってもらおうと思って書き始めた。しかし途中で気が変わり、専門家にも利用できるものにしたくなった。きちんとした”校史”ができてからダイジェスト版を作るのが普通だが、この本は逆に”校史”ができるまでのつなぎの意味も込めた。生徒には読みにくいが、専門家からは読みにくい本ではなかったという評をもらった。生徒用だけに作ったらよそへは出せないものになったろうね。
“校史”はきちんとした資料集に文章をつけ、専門家の要求に答えられるものでなくてはなるまい。校史編纂を引き受けた時、恩師の山崎尚志先生に「誰も読まない本を作るのか」と笑われたが、教育史の専門家だけは読むと言い返したよ。近代教育史の専門家にとって岡山だけが空白なんだ、朝日高校が出さなかったから。
“校史編纂”の出発点は、専門家にも利用されるものを、というものだった。
だから『生い立ち』でも、出だしは一番問題のあったところ、専門家の意見の違うところなので、きちんと書こうとして難しくなってしまった。
資料集としての”校史”は読んでも面白くない。だから『生い立ち』は別のことをねらった。だが『生い立ち、戦前篇』を単なる物語とはせず、裏が取れるものだけを書いたつもりだ。