昭和31年 36年 37年卒業者有志 代表 小合洋一(昭和31年卒)
第2次世界大戦の最中、パプアニューギニアや南方海上で捕虜になった日本兵はオーストラリアのカウラ(シドニー西方320キロ)にあった捕虜収容所に集められていました。戦死した仲間、戦いの現場にいる戦友、銃後の家族や国民のことを思うと、収容所の中で比較的丁重な扱いを受けていることに忸怩たる思いであったようです。千人ほどの捕虜は死ぬための脱獄をするかどうか、記名投票を行ったそうです。無記名であったら否決されたのではないかと想像します。
脱獄決行が多数を占め、終戦1年前の1944.8.5未明、戦陣訓「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ 死シテ罪過ノ汚名ヲ残スコト勿レ」を実行に移しました。武器はナイフとフォーク、バット、低い鉄条網に毛布を掛けて討ってでました。南の島で忠義を尽くす男「南忠男」の偽名を持つ豊島一が吹く突撃ラッパを合図に死ぬための戦いが始まりました。驚いたオーストラリア警備兵は機関銃を乱射し、瞬く間に250名ほどが死に、オーストラリア兵も4名が亡くなりました。カウラでは亡くなった日本兵を丁重に葬り、墓地公園に整備し今に至っています。
生存の将兵は戦後罪をとがめず日本へ送還されました。後に南忠男は讃岐の豊島一(はじめ)海軍一等飛行兵と判明し、豊島家には私の父源太郎(朝日高校の柔道師範)の従姉妹が嫁いだ先であったことが判りました。訪豪20回、カウラへ15回も慰霊祭に行ったことは何かに引かれるように感じていましたが、この事が原因であったのかと深い因縁を感じています。
「この度の60周年を契機に最後の慰霊祭にしたい、もりたくさんのイベントを企画している。岡山から多くの参加を希望するし、カウラの日本庭園にある日本家屋の和室の内装を完成させてほしい。」との要望がありました。内山隆義(36卒)、山田南海男(37卒)等の協力を得て5月と今回で仕上げました。襖と障子をはめこみ、炉を切り、炉暖、灰、五徳を設え、炉縁をはめて完成。床框は内山自らノミふるい床柱にあわせ、床畳を張り、電器傘に和紙を貼りすべて終了したのが4日夕刻。見事な出来映えに、大島駐豪大使、カウラ市長、ミスターカウラのドン・キブラーから絶賛されました。
慰霊祭と和室贈呈式に参加すべく呼びかけたところ三一会、36卒,37卒計17名の朝日卒が集まり出掛けました。関空からシドニーへ入り、コアラに対面したあとブルーマウンテンで一泊、雪の中をカウラへ向け山から下りました。現地ではメインゲストの一人に加えられ、茶道のセレモニーの正客をつとめろとか、メインテーブルに座れなどと言われましたが、私の性に合わないのと最後の仕上げに立ち会うために断りました。翌5日は慰霊祭。
オーストラリア兵の慰霊の後、日本兵の慰霊祭が始まりました。七つの宗教者代表がそれぞれ祈りを捧げ、英霊達を鎮めました。最後は黒住教副教主宗道師を祭主に吉備楽、吉備舞を奉納。代表者献花には私も参列し、しのび手を打ちました。最後にご存命の3名の方の紹介があり、代表の山田雅美氏より英霊達に別れの言葉が捧げられました。慰霊祭が終わって日本庭園に移動し和室工事一式贈呈式を行い、目録を渡し、感謝状を受けとりました。小合洋一、高岡建設社長 内山隆義、山田工業社長 山田南海男、山陽放送、岡山東ロータリークラブ、岡山朝日三一会の面々でした。
慰霊祭終了ごキャンベラへ移り、戦争記念館見学、日本大使公邸訪問などこなしてシドニーへ。ハーバークルーズ、ハンターバレーワイナリーなど観光も楽しみ帰国しました。
「カウラブレークアウト」の事はほとんど知られていませんが60周年を契機に岐阜新聞の土屋康夫氏が力作「カウラの風」を執筆されました。歴史を追って生存者や遺族の方からの生の取材と既存の資料からまとめられた素晴らしいものです。お薦めします。 尚、朝日高校図書館には近日中に寄贈致します。
「カウラの風」
著者 土屋康夫
発行所 KTC中央出版
〒460−0008 名古屋市中区栄1−22−16