校 歌 に つ い て 
朝日高校校歌が制定されたのは昭和29年。作詞者は当時母校の教師として在職されていた服部忠志先生です。
服部先生は後の『烏城』に母校校歌の詞に込めた思いを書かれています。
  『烏城』第百二十五号(昭和四十五年発行)より
岡 山 朝 日 高 校 校 歌
   (昭和三年卒)  服部 忠志
(昭和22・5〜36・3在職)

 岡山一中の校歌、「世の盛衰をよそにして」の歌は、ぼくの在学中に制定せられたもので、大正十二年ごろではなかったか。歌詞は当時の先生方の合作と聞いているが、確かなことは知らない。当時の授業に音楽はなかったが、上野高明先生が音楽がお好きで、音楽に関することは先生が何かとしてをられたように思ふ。担任学科は国語と習字であった。作曲は高名な山田耕作(後の籍作)であった。山田耕作は北原白秋とくんで、白秋の童謡その他を作曲して生彩ある活動をしてをられた。校歌の発表会のとき、上野先生が山田耕作と壇上で得意そうに握手した場面など、今見るやうに思ひ浮ぶのである。「歴史は長し五十年、学徒は多し千二百」と歌ったのであるが、ぼくが朝日高校に在職中に八十周年を祝ひ、今ある講堂もでき、更にその時から十余年が過ぎ去った。往時茫々といふところである。

 敗戦ののち、アメリカ軍の占領、それに伴って学制の改革である。岡山一中と岡山二女の統合といふかたちで、岡山一高となり、現在の岡山朝日高になった。新学制による新しい学校ができたので、新しい校歌を、といふことになったのは、小・中・高にわたっての時の流れであった。さういふ情勢の中で、同窓会の先輩や友人からその作詞をぼくにもとめられた。ぼくは光栄には思ふけれど、もともと短歌を作るもので、歌ふ歌の作詞を専門とする者ではない。ぼくが適任ではないと思ふが、岡山一中を昭和三年に卒業したといふことから言へば考慮しなければならぬ面もある。校歌をそこの卒業生が作らねばならぬといふきまりはないが、できればさうしたいといふ同窓会一部の意見もある。それでは卒業生の中に、適当な作詞者がゐるかといふと、実際に同窓会名簿を繰ってみても中々探すのに困難といふ実状であった。出色の詩人や歌人がゐるはずだが、具体的には思ひ当らない。校歌制定をしたい予定の日は迫る、といふことでぼくは決心をした。

 伝統ある名門、岡山一中にゆかりある朝日高校であるならば、校歌は重みと迫力のあるものがほしい。流れるやうな七五調でなしに、きじるやうな、いはば万葉集の調べともいふべき五七調にしよう。一語一語発音するために、古い国語で歌はうと思った。その結果、やや古調になって、生徒諸君には迷惑をかけてゐることになるかも知れない。しかも、ぼくの困ったのは、男女共学といふ事実である。男らしい調子と女らしい調子といふものがある。小学生なら男女の区別はないと思へばよいが、高校生ともなれば、おのづから男女の性別は分明である。男声と女声とがちがふやうに、世に出て男女の職分がおのづからその生理の条件によって異るやうに、その理想とする希望の歌声はちがふ。しかも高校は大学とちがって、人間形成の面が学校で教育面に強くとらへられねばならない。男声か女声か、その中間にすれば、男でもなく女でもない、この世に存在しない中性の声になる。併し、とにかく、ぼくは作った。

  第一番は、学校のある場所
  第二番は、伝統の回想
  第三番は、現在唯今の決意
とする。口をいっぱいにあけて、気どらず、品を作らず、地声で、素朴に、無邪気に、熱情をこめて、明るく、カいっぱい歌ってもらへたらうれしい。

 一  国土のなからを占めて
    まがねふく吉備の野平
    旭川きよらに流れ
    操山さやけきところ
    いつくしき学び舎建てり
    のぼる日の名に負ふ朝日朝日

 「国土(くにつち)」は国土(こくど)である。日本人の国土はこの日本列島であることは言ふまでもない。「なから」は、半分といふ意味と、中程といふ意味と両方に使用例がある。「更級日記」に出てくる「山のなからばかりの本の下のわづかなる―」の例は後者で、山の中ほどの意である。ここでも、日本列島の中ほどに位置して、と言はうとした。地図をみれば岡山の位置がさうであることは嘘ではない。
「まがねふく」は吉備の枕詞、「まがね」は真金で、金属の中の正真なるものの意で鉄である。木の正真なるものは真木であり、合字すれば槙である。色で分類すれば黄金、黒金、赤金、などとなり、きん、鉄、鋼の意であることは言ふまでもない。鉄の産地の吉備の意がもとだらうが、ここでは吉備を重々しく言はうとした。

 「きよら」は清ら、で本質の美しいこと。「さやけき」は、さやけしの連体形で澄んではっきりしてゐること。澄明である。操山は字面、儒学倫理観のにほひがある。古い地図には三樟山とあり、ぼくは水樟山かも知れないと思ふほどだが、現在は操山であるから、岡山の自然の嘱日である旭川と操山とを澄明の美によって把握して、勉学の場の清浄を記歌しようとした。
「いつくしき」は、いつくしの連体形だが、いつくしは、厳しで、いかめしい、おごそか、.の意で威厳があることになる。学校の尊厳を思ふなどとは古くさい、と思ふ者がゐるかも知れぬが、もの学びの場に、襟を正すといふ精神部面をとらへようとした。「名に負ふ」は、名をそのまま実体の本質とするところの、の意である。名と実体とが一致して一分のすきもないことで、ここでは、朝日高校の名、朝日は東天にのぼる日、いはば昇天の日である。昇天の日を名とする朝日高校の命運はそのまま朝日高校の現在と未来の実体であって、名と実は乖離を許さぬものだと言ひたいのである。そして、これを確認するために繰りかへしの語とした。

 二  はてしらぬ空のまほらに
    高ゆくやあくがれごころ
    としつきのながきながれに
    かがやけるみ名ぞあひっぐ
    ほこらしきわが学び舎よ
    のぼる日の名に負ふ朝日朝日

 「はて知らぬ」は、はて知られぬの意で、国語にはかういふ直叙の仕方はいくらもある。「まほら」は真洞であって、まは接頭語。洞然たる大空、無限の宇宙空間、の意である。「高ゆくや」は、高くゆくことよ、の意。「高ゆく」は一語として熟したことばで、記紀の歌謡にもある成語だ。やは勿論詠嘆。「あくがれ」は、あこがれで憧憬である。憧憬心は青年の理想追求の基盤であって、現在をあきたりないものとして、未来に望みをかけ、低処から高処ヘ目を放って思ひやるこころだと思ヘばよい。
それでは何をあこがれとしたか。岡山尋常中学以来の長い歳月の経過の中に、光彩陸離として偉大な業績をもつ先輩のお名をあこがれとする。しかもその名は一つ二つではなく陸続と相ついでゐる、と言はうとした。「み名」は、おん名、名に敬語をつけた。

 三  こぞりたつあしもとどろに
    いざわれらいざのもろごゑ
    さやかにもはずむこころに
    もの学びちからありなむ
    かぐはしきとはの学び舎
    のぼる日の名に負ふ朝日朝日

「こぞりたつ」はうちこぞるにひとしい。こぞるは挙る、ですべてのものが揃ふこと。朝日高校生全部の足音が揃ふことである。「たつ」は「うち」の接頭語と同じやうに、本来の動詞を接尾語的に使った語で、立つといふ本来の意を失ってゐる。はやりたつ心、といへば、はやる心といふのを強めて言ふ言ひ方である。「とどろに」は、もと擬音から来た形容動詞で、万葉集にも「筑波嶺の岩もとどろに落つるれ」といふふうに使ってゐる。とどろくばかりの足音がうち揃って、の意。「いざ」は相手を誘ふことば。「もろごゑ」は諸声であって、複数の声、みんなの声。さあみんなゆかうぜ、やらうぜの声が揃ふのである。

 「さやか」はまぎれもなく、はっきりの意。「はずむ」は調子づいて元気がでること。「ありなむ」は、あらうと決意することである。「あり」の連用形「あり」に、完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」、それに未来の意志の助動詞「む」が接続した。これは動詞の未然形につづく「なむ」と区別する問題として大学入試の問題にときどき出る。「あらなむ」となれば相手にあつらヘ望む意になる。この歌の場合はさうでなくて、学問に力をこめることを、これから実践しようとして自分で決意しようとするこころである。
 「かぐはしき」は、かぐはしの連体形で、香がよいの意、精神的な芳香を感じてゐる。「とは」は、永久の意。永久にその生命を持続する学校であるとの認識である。

大体の語釈は右のやうであるが、自作のものを注釈するのはしんの疲れることである。わかりやすく口語で大意をたどれば次のやうなことになる。

一、 日本列島の真中、吉備平野、旭川が清く流れ、操山の美しい所にいかめしく学校が建ってゐる。それは昇る日の朝日の名にそむかず、学校そのものも朝日の勢をもつ朝日高校だ、おお朝日高校だ。
二、 無辺際の大空に高くとぶ憧憬のこころよ、そこには幻影として、学校の諸先輩の輝けるおん名が相続いてゐる。誇るにたるわが朝日高校よ。
三、 挙校一致して未来への目標にむかって、進む足音もとどろくばかり、さあお互にやらうよとの相励ます声も揃って、紛れもなくひとすぢに、調子づいた気持で、勉強に力をこめよう。

なるべくなら三番まで歌ってください。

 

校歌を作曲された中山善弘先生による講演「校歌・応援歌作曲秘話」が創立130周年のホームカミングデーで行われました→講演記録はこちら
岡山朝日高校同窓会公式Webサイト