創立130周年 ホームカミングデー記念講演 平成16年3月27日(土) | |
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記念講演・校歌大合唱 16:00 〜 16:40 大講堂 | ||||||||||||
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こんにちは。ご苦労さまです。私は今日は欠席のお返事を出しておいたんですが、「出て来い」ということになりました。同窓会のちらしには、何か秘話を語るように書いてありましたが、私はぜんぜん秘話なんかないと思うんであります。 私は昭和22年に一中を出ました。当然、私たちが歌っておったのは一中の校歌で、まず、この校歌から話をさせていただきます。この校歌は、関東大震災のあくる年の、大正13年の創立50周年の記念に作られました。で、岡山一中という名前は、大正10年に二中ができてからで、その3年後に校歌が作られたというわけです。作曲が山田耕筰、これはもう大変な、日本楽壇の最高峰に位する人でありまして、皆さんもよくご存知のことと思います。実はこの方は、多少岡山にご縁がありまして。クリスチャンであったんですが、10歳頃からは、キリスト教関係の印刷所に務めて、活版印刷の工員をやっておられたんですね。その5年間、その印刷所の垣根にカラタチの花が咲いておったという思い出が、「からたちの花」になっておるんですが、その15歳か16と思いますが、岡山へ来られているわけです。この地の第六高等学校の先生をされておりましたガントレットという方に、一番上のお姉さんが嫁がれておりまして、ガントレット恒子と言います。このお姉さんを頼って岡山に出て来られました。 県庁の前に丸の内中学がありましたが、かつてここに養忠中学(後の金川中学)というのがありました。一中や関西中学の生徒とよく喧嘩をしたこと、危ないので懐の中にピストルを持っておった(ただし弾は入れてなかった)こと、それを警察が知るところとなって、えらい騒動になったんだということ、などを書いておられます。だいぶ暴れん坊であったようでございますね。その後、関西学院の中等部へ転校されました。まあ、そういうことが岡山との縁でございます。 さて、歌詞の方でございますが、これは所謂作者不詳ということになってます。恐らく一中の先生方が相談して、複数の先生でお作りなったというのが、私は正しいんではないかと思います。 いろいろの風評がありまして、「つちいばんすい」、普通「どいばんすい」と申しますが、土井晩翠の作品ではないかというような噂が出ています。どこからこういう噂になったか私には分からない。昭和53年の『同窓会名簿』には土井晩翠、山田耕筰と書いてあります。たくさんの名簿の中で、唯この一冊だけでありまして、あとの全ては作者は分からないとなってます。 で、創立50周年記念号の『烏城』を持って参りましたが、ここへ当時の譜面が載っております。作者名はありません。しかも数字譜と言うんでありますが、数字で譜が書いてある。これはもう実に古い表記の仕方で、18世紀のジャン・ジャック・ルソーという人が発明したのですが、もう現在は使われておりません。そういう古い譜面が掲載されている。この『烏城』というのは、大正14年5月15日の発行です。私はですね、この土井晩翠は、その何と申しますか、文化勲章もとった方だし、有名人の方が校歌に箔が付くんではないかというような願望から、そういう風評が立ったんではなかろうかと思うんでありますが、私は一中の先生が汗水流して歌詞を作られたというほうに、感動を覚えておるわけであります。 一中の校歌は、当時岡山では一番大きなホールを持っておった深抵小学校で披露されております。生徒がそのために町にビラ貼りに出掛け、生徒自らが券を売って歩いております。で、この音楽会は、山田耕筰が伴奏をした荻野綾子の独唱会で、一番最後に一中の校歌が披露されているわけですね。生徒に教えて歌わせているわけです。その時に、上野先生という方、あだ名が「リキシャ」と言うんでありますが、その先生が感動して舞台の上にまで上がって行って、山田耕筰と握手をしたという話が残っております。すると、生徒がすぐ校歌の替え歌を作った。二番の歌詞に「歴史は長し五十年、学徒は多し千二百」とある。ここを「力車は高し五十銭、乗り手は多し千二百」と歌ったということであります。 山田耕筰先生の有名な歌というのは、この一中の校歌の後で作られたものが多いんであります。今申した「からたちの花」、或は「この道」、或は「赤とんぼ」ですか、ああいう歌は、この後に作られたんですね。 次に、朝日の校歌でございますが、その前にちょっと。一中って言うのはですね、随分お金あったと思うんですね。山田耕筰、当時の最高峰の方に作曲を依頼して、しかも岡山まで来ていただいて、伴奏までして貰うという、こらまあ、大変お金がなくっちゃできませんわねえ。 私がここへ参りましたのは、昭和28年でございますが、若造でありまして、職員室には恩師の先生が一杯おられます。どちらを向いても頭が上がらない。29年だと思いますが、恐らく春頃ではないかと、ちょっと記憶がぼけてますけれども、岡野先生が私のところへ来られました。岡野先生という方には、私も一中の時に習っておりまして、あだ名がエチオピアの「エチ」。「中山君、すまんが校歌を作ってくれ」と、簡単に言われるんですよ。校歌を作ってくれとね。校歌って大変ですよ、これを作るって。で、私はまだ当時25歳ですからねえ。こりゃえらいことになったって思って、お断りしたんですよ、実は。するとねえ、「歌詞は服部君が作るから、君、曲をつけてくれ。朝日の校歌は一中の先輩で作るんだ」って言われるんですね。何か、話が通っているようで通っていないんですが、よく考えてみると金が無いんだっていうことになる。 そういうことで、作りましたんですが、今考えてみると、曲を作る時に服部先生とは一言も相談した記憶が無いんであります。まあ、曲というのは、絶対に詞に忠実でなければいけませんし、まず、詞ありきでありますね。従って、詞をよく読むということは大切なことです。 服部先生はですね、後日『烏城』に書いておられますが、伝統のある一中の後輩の朝日の校歌であるからして、迫力と、そして重みがほしい、そこで流れるような七五調でなくって、一語一語言葉をはっきりと発音する五七調にしたと、これは非常に古い調子なので、生徒の諸君にはちょっと負担がかかるかも知れないけれども、まあ大きな声で明るく歌ってくれ、ということが書いてあるんですね。私は大分後になって読ましてもらいましたんですが、出来てる歌詞を、私は全くその通りに作ったつもりであります。ですから、何と申しますか、この曲は美しくありません。縞麗に流れるようには作ってありません。それは、不細工な男が作るんですから、そうはいきません。で、曲の頭に書いてあります「荘重に元気よく」というのが、これはこの曲を表現しておると思います。その通りだと思います。 この曲を作りまして、実は私は学校から、4,000円戴いたんであります。このへんが秘話かなあ。当時給料が6,000円か7,000円だったんですから、これは大変なお金ですわね。ところがですね。このことを後神先生に調べて貰ったんですが、昭和25年に既に朝日の校歌を作ろうということが、会議の議題になっていて、校歌の謝礼が10,000円と書いてあるんだそうでありますね。私がもらったのが4,000円。校歌を募集したが、いいのが無いとも書いてあるんですね。27年、28年には校歌の話が出てこなくて、突然、私のところに話が来るわけでありますから、私もその時にはびっくりしたんであります。つまり、上の方だけで相談されて、知っておられたんじゃないかと、思うんでありますね。 それから校歌のテープでありますが、今も鳴っておりましたけど、一中校歌まではいいんでありますが、朝日の校歌のところが、テンポが非常に速いんであります。あれは、私が東京へ行きまして、そういう録音をやってる会社へお願いしたわけです。115周年の時です。録音する時は連絡するというので、埼玉の娘の家で待っておったんですけれども、いくらたっても連絡してこない。が、夜中にかかった時に連絡がまいりまして、夜中の2時から録音するって言うんです。来てくれるかっていうから、こっちは一杯飲んどるしねえ、もう東京のど真ん中まで2時に行くっていうのは、とてもじゃないけど、無理。よろしく頼むということにしとったら、ああいうように、速くなっちゃったんです。でも、これは向こうが悪い、向こうもプロですからね。ちゃんと打ち合わせをしておいて、かくかくのテンポにしてくれって言ってるんですけれども、速くなっちゃった。120のテンポで書いてありますが、あれは114くらいにやっていただきたいですね。皆さん方、テープを使わない時には、少しゆっくりやってください。 最後に応援歌のことですが、これは昭和32年にご卒業になりました石川滄一さんという方が、生徒会の募集に当選されたんでしょうか。生徒会から私へ依頼がありました。ですから、石川さんに私は会ったことはありません。あれは、あの今鳴っておりましたが、あのテープもちょっとテンポが速いんですね。どうもテンポが速いです。まあ、あれはっていったら何ですけれども、あまり力を入れなくって書けた口でありまして、その方がやっぱり自然ですね。明るく青春の賛歌といいますか、ちょっと長いですけれども、そんなに難しくはない、覚えていただければ、歌い易い曲だと思います。 急いでお話しましたが、朝日の校歌は、自分で作ったものですけれども、4,000円というようなことはないと思うんでありまして、今、春の選抜がはじまって、他校の校歌を聞いてありますけれども、朝日の校歌はやっぱりいいんじゃないですかな。 有り難うございました。時間がまいりましたんで、これくらいで失礼させていただきます。 |
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