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国内で活躍する同窓生(敬称略) | |
尾上 太一 (昭和54年卒) 岡山県在住 | ||||
写真集『岡山朝日高等学校』制作に至るまでの私の写真遍歴を述べさせていただきます。 小学6年生の時、当時はまだ現役で走っていた蒸気機関車(SL)に夢中になったのが写真を撮るきっかけでした。伯備線でD51・C58を播但線ではC57を撮影しました。SLを求めて石川・島根・山口などにも出かけました。中学2年からは暗室でのプリント作業も行うようになりました。SLを追いかけていたのは中学3年までの短い期間でしたがとても楽しい時間でした。今でもときどき蒸気機関車たちが夢に出てきます。 朝日高校卒業後、近畿大学医学部をへて岡山大学大学院に進みました。大学院修了後は精神科医としての勤務医生活が始まりましたが、ずっと写真を撮り続けていました。写真雑誌の月例コンテストに応募したりしていましたが、いろいろな意味で飽き足らなくなり、大きなテーマに取り組みたくなってきました。そしてたどり着いたのが司馬遼󠄁太郎氏の小説『菜の花の沖』を読んで関心を抱いた「北前船(きたまえぶね)」でした。「北前船」は江戸時代中期から明治時代にかけて、北海道と大阪・瀬戸内を日本海経由で往復し、さまざまな物品を運んだ船です。最大の交易品は北海道の鰊(にしん)でした。鰊は西日本で栽培が盛んだった綿・藍などの肥料として大量に運ばれたのです。私の先祖は、港町として栄えた玉島で昭和10年代まで肥料問屋を営み、かつては北前船交易と深く関わっていました。このことは「北前船」をテーマに選んだ大きな動機でした。「北前船」の寄港地や関連する土地を北海道から日本海沿岸をへて瀬戸内・大阪まで訪ね撮影し、「北前船」の足跡をまとめ写真集を出版したいと考えるようになりました。またこのテーマでは大判カメラ(4×5インチ等の大きいサイズのフィルムを使用するカメラ)での撮影が必要だと思いました。 しかし、当時の私の力では写真集出版という目標を達成するのは無理でした。大判カメラでの撮影および大判ネガフィルムからのモノクロプリントの技術を習得する必要がありました。その他にも写真に関して学ばなくてはならないことがたくさんありました。 40歳を間近に控えた1998年、日本大学大学院芸術学研究科映像芸術専攻に入学しました。原直久教授に師事して3年間研鑽を積みました。大学近くに暮らし、暗室作業(現像・プリント)三昧の日々を送りました。長期の休暇には「北前船」の撮影・取材に出かけました。大学の先生方、第一線で活躍する写真家の方々、大学院の友人たち等々から多くのことを教えていただきました。朝日高校出身(昭和29年卒)のアニメーション映画監督/高畑勳先生の講義を受講し、その後も親しくしていただけたのは嬉しいことでした。 大学院を修了した年の2001年9月、東京銀座のコダックフォトサロンで個展「北前の記憶 日本海ニシンロード」を開催しました。翌2002年には函館・礼文・岡山で巡回展を行いました。ただこの時点では、まだ訪ねたい土地、撮らなければならない写真がたくさんあり、調査すべきことも多く残っていました。その後は医師の仕事をしながら撮影・取材を続け、2010年、「北前船」取材の集大成として写真集『北前船 鰊海道3000キロ』(響文社)を刊行しました。 「北前船」撮影で深い縁ができた礼文島での撮影を2002年から開始し、2011年に桃岩荘ユースホステルをテーマとした写真集『島を愛す 桃岩荘/わが青春のユースホステル』(響文社)を刊行しました。 礼文では島の医療を30年以上守りつづけている升田鉄三医師と出会うことができ、礼文を訪れるたびに礼文の医療や暮らしなどについてお聴かせいただきました。2012年に升田先生を主人公とした写真集を制作するため撮影を開始し2016年、写真集『島医者 礼文町船泊診療所』(響文社)を刊行しました。ちなみに、升田先生は2022年8月27日放送のNHKスペシャル「この島で最期まで〜礼文島・父子でつなぐ医療〜」で診療所の後継者である息子さん升田晃生先生とともに登場されました。 2018年には精神科医の先輩である塚本千秋氏(岡山大学大学院社会文化科学研究科教授)との共著『相談者』(日本評論社)を刊行しました。塚本氏の文章と私の写真で構成された本です。 2024年秋、どのような写真集が出来上がるのか私自身も楽しみです。 |
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