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国内で活躍する同窓生(敬称略)


加藤 友秋 (昭和 54年卒)    北海道函館市在住

「高校時代の思い出と北の国での教員生活


「青少年のための科学の祭典函館大会」
デモンストレーター(中央筆者)
 朝日高校同窓生の皆様こんにちは、昭和54年卒業の加藤友秋と申します。
 大学進学とともに岡山を離れて40年余り。すっかりご無沙汰していましたが、数年前からSNSを通じて懐かしい仲間との交流が再開し、そのご縁で寄稿させていただくことになりました。私的な内容で申し訳ありませんが、高校時代の思い出と、北海道での生活をご紹介します。



-岡山編-「卓球部の思い出」


 まず、朝日高校の思い出。それは“卓球部”です。当時の卓球部の部室の壁には、「苦しみぬいて青春の思い出を作れ!」という言葉が黒々と書かれていました。“うさぎ跳び”と“ランニング”がトレーニングの基本。部活中は座って休むことも水を飲むことも禁止。掃除より部活が優先。掃除当番をして練習に遅れようものなら“うさぎ跳び”のペナルティが待っていました。


また「声を出す」ことが重視され、特に試合の時は朝から晩まで「ナイスボール!」とか「ドンマイ!」とか叫び続け、夕方にはカスカスの声しか出なくなっていました。「1回戦で負けたら坊主!」も掟でした。当時の朝日高校卓球部のユニホームは、上は紺色、下は灰色と決まっていたので、夏季は紺色のユニホームに塩が白く析出しました。とにかく“根性”至上主義の部活でした。結果、体育祭のマラソン競技の上位を、卓球部が占めていました。私は卓球初心者だったので、卓球はたいしてうまくはなりませんでしたが、体力と粘り強さという財産を得ました。


ところが私は、1年の後半から腰痛を発症し、徐々に悪化して1年生の終りから2年生にかけて入院生活をすることになってしまったのです。友人が何人も見舞いに来てくれました。中でも、1才年上の同級生がとても心配して励ましてくれました。私は病院のベッドで「こんな自分でも、世の中の役に立てるだろうか」と考えるようになりました。


退院後「生物学を極めれば食料増産など、世の中のためになるだろう」と思いつき、大学進学を決意しました。そして1年間補習科に通った後、関東の大学へ進学しました。大学では、数限りない出会いがありいろいろな経験をしましたが、結局、生物学を極める道から教師の道へと方向転換をしました。大学卒業後は、戸田市の小学校で臨時の助教諭を務めた後、妻と生まれたばかりの長男を連れ、あこがれの北海道で高校の理科教師として生活を始めました。



-北海道編-「北の国の教員生活」


 
霧多布湿原 ※
北海道では、新任教員のほとんどが、田舎の小さな学校に配属されます。田舎の学校には若い教員が多く、エネルギーに満ちています。また、小さな学校は何事も全員で取り組まなければならないので、教員として必要な事すべてを学ぶことができるのです。そのため、それらの学校は、「教員の学校」と呼ばれています。


 私の教員生活の振り出しは、道東にある霧多布(町名は浜中町です)という小さな漁村の町立高校でした。僻地と呼ばれる地域です。加工場のような木造平屋建ての校舎が湿原の中に建っていました。父母のほとんどが漁業で生計を立てているため、職員室に時々海産物が届きます。


ある時、ゆでたツブ貝が大きな鍋で差し入れられました。「油をとって食べないと酔っぱらうよ」と言われたのですが、どこが油かもわからず適当に食べていると、2日酔いのようにふらふらになりました。


道東は昆布漁の盛んな地域です。時差のためか夜が明けるのが早く、夜明けとともに昆布漁に出る船のエンジンの音が響いてきます。父親たちが沖に出て採ってきた昆布を、家族総出で干します。


懇親会の席で、ある母親が「先生方の手は、やっこい(やわらかい)手でしょ。」と言って自分の手を差し出してきました。見た目は女の人の手なのですが、指も手のひらもカチカチです。聞くと、昆布を干したり、干した昆布を切ったり束ねたりする作業をしていると、カチカチになるのだそうです。自分の手が赤ん坊の手のように思えました。

涙岩・立岩 ※
漁村の母親はとにかく気丈で明るく、互いに強く結ばれています。漁のできない冬季に男たちが出稼ぎに出るため、女たちだけで村を守らなければならないからだろうと思います。


 働き手である生徒たちは、早朝の漁を終えてから登校します。漁村独特の荒っぽくて人懐っこい生徒たちでした。生徒は、メロンパンのように大きなおにぎりを持ってきます。そのおにぎりをほおばりながら「また筋子か!」とぼやいていた生徒の顔を思い出します。

毎日海産物を食べて育っている生徒達にとって、ごちそうは“肉”です。部活の生徒と、浜辺で度々ジンギスカンをやりました。肉とタレだけ用意すれば、生徒達が流木やトタン板を探してきて火をおこし、ジンギスカンが始まります。日常がサバイバルです。


 
MGロード ※
生徒を連れて、湿原にもよく行きました。学校の近くの湿原で、子育てをするタンチョウの姿を見ることができました。サンショウウオの卵を取ってきて育てました。コケモモの実をたくさん採ってきて、ジャムも作りました。秋になって生徒が「コクワを採りに行きたい」と言うので、湿原を越えて山道に入って行きました。生徒がコクワ採りに夢中になっている間、クマが来ないか(コクワはクマの好物でもあります)見張りをしていると、足元に白いものがあるのに気付きました。エゾジカの角でした。エゾジカの角は毎年生え変わるので、抜け落ちたものがときどき見つかります。


野生動物の縄張りの中に人の暮らしがあるのです。自動車は、シカの飛び出しに気を付けて走らなければ危険です。シカとぶつかって、車をダメにした同僚が何人もいました。幸運なことに、私は、シカとぶつかることはありませんでしたが、山ではクマ、浜ではオットセイに出会いました。


 道東は、夏でも気温が20℃の前半までしが上がりませんが、冬は-20℃近くまで下がります。理科室は、普段、暖房をつけないので、外気と同じ-20℃近くまで冷えます。実験室の水道が凍ると、春まで水が出ません。蒸留水も凍り付いて使えません。ビーカーの水を捨て忘れると、次の日には底が抜けています。


 
霧多布岬 ※
ある時、実験台を雑巾で拭いていると、つるつるした手ごたえとともにロウを薄く削ったようなものがたくさん出てきました。生徒が蝋燭をたらして遊んだのかと思って一生懸命拭いていると、拭けば拭くほど出てきます。なんと、雑巾の水分が拭いた瞬間に薄く凍り、その氷を一生懸命拭きとっていたのでした。教室にはストーブがあるので暖かいのですが、廊下は氷点下です。壁の隙間から雪が入り込み、廊下に積もります。そんな校舎も、鉄筋コンクリートの3階建て校舎に建て替えられ、凍る心配はなくなりました。


 北海道は広いので、転勤には引っ越しがつきものです。教員のバランスの関係で、都市部での勤務年数(10年以上が多い)より、田舎での勤務年数(5年前後)が短くなります。なので、田舎の人は、私たちのように転勤でやってくる教員を、「旅の人」と呼びます。親しみを込めつつ、いつか訪れる別れを惜しんでそう呼ぶのだと思います。だから、うかつに家庭訪問などしようものなら、大変な“もてなし”を受けてしまいます。


保護者の集まる会で自己紹介するときは、「この学校に来て〇年目の〇〇です。」とあいさつします。「3年目」くらいになると、「先生、そろそろだね。」となります。ある父母が、「先生たち、町へ(転勤して)行ったら、戻ってくることないもんね。」と話していたことが忘れられません。50才目前で再び田舎の学校に転勤したときは、「先生、定年まで居ればいいっしょ!」と言われました。田舎の学校を後にする時は、後ろ髪を引かれる思いです。



 都市部では、定時制高校に勤務する機会がありました。私が高校生だった頃、朝日高校に定時制の烏城高校が併設されていたことは知っていましたが、その存在を意識することはほとんどありませんでした。(烏城高校は平成9年に、「県立短期大学跡地に県生涯学習センターとの一体的整備により新築移転」されています。)定時制高校の生徒が、4年の歳月をかけて、さまざまな苦労を乗り越えて卒業していく姿は、感動的なものです。


高校の教員は授業だけでなく、部活動顧問やHR担任として生徒と関わります。私は、朝日高校で卓球部を経験していたので、部活を担当するのには何のためらいもありませんでした。朝日高校では、卓球部の練習に先生が現れることはありませんでしたが、今は何かあると困るので先生はなるべく付いてなければなりません。


最初に担当したのはサッカー部でした。その後も、野球部,バレーボール部,柔道部,ときどき卓球部,なぜだか書道部などを担当しました。もちろん、私が朝日高校の卓球部で経験したような“根性”論は、通用しません。私は、あくまでも応援役に徹します。すると、生徒は私以上に一生懸命日々の練習に取り組むようになり、予選大会を勝ち抜いて大きな大会に出場する機会も何度かありました。部活動で一緒に汗を流した生徒との結びつきは強く、卒業後も訪ねてきてくれたり、結婚式に呼んでくれたりします。大人になった生徒の姿は、本当に頼もしいものです。


 
 
町民ヘルシーウォーキング大会に参加 
同じスポーツや趣味を楽しむ仲間が自由意思で集まるのが部活動ですが、HRはそうではありません。なので、HR担任は、生徒1人1人と関わりながら、クラス全体を盛り上げなければなりません。クラスになじめていない生徒のフォローは、特に大切です。学校祭や体育祭などの行事はHR対抗で行われるので、クラスが一体になる醍醐味があります。


朝日高校の体育祭も、たびたび話題になりますよね。私の朝日高校での最後の体育祭は、例の“マジンガーZ”でした。私は工作が好きだったので、“マジンガーZ”を作ると決まった時、制作する係に名乗り出ました。

しかし優秀な理系の級友達が設計から組み立てまでどんどん進めていて、のんびり屋の私の出番はなく、材料の竹を伐採に行ったり、気の合う級友と教室で材料を削ったり、モンスターの小物を作ったりして仲間に加わろうとしていました。自分の能力を思い知ったほろ苦い思い出です。級友の設計した“マジンガーZ”は、私などの思いもよらない構造の、それはそれは完成度の高いものでした。そんな訳で、知らない間にマジンガーZも、私が入るモンスターも出来上がっていましたが、それはそれで楽しい思い出です。


朝日高校では、マジンガーZを作るのに先生の援助は必要なかったと思いますが、現在では部活動と同じく、学校行事にも先生の助けが必要な場合が多いのです。私は、生徒が進める学校祭の準備に混じって時々助け舟を出したり、クラスの中に私のような生徒を見つけると、何か役割を見つけさせて取り組ませたり、気の合いそうな生徒と一緒に作業するように声をかけたりします。案外とうまくいくものです。



 
卒業担任という大役
4年前、最後の人事異動で、私の定年退職と同時に学校統合のため閉校になることが決っている学校への転勤が決まりました。「それなら、最後の学年の担任を務めて教員生活を締めくくろう!」と決めて赴任しました。翌年、思い通りに1学年担任に任命され、今年の3月、無事に3クラス114人の生徒を送り出すことができました。


統合とはいっても校舎が存続するのは町の反対側にあるもう一方の学校。私の勤める学校の校舎は、高等支援学校として使われます。そのため、最後の2年間は高等学校と高等支援学校が併設された形で学年進行とともに入れかわります。つまり、最後の学年が進級して空いた教室に高等支援学校の生徒が入学してくる。それと同時に、高校の先生が1学年分転出して高等支援学校の先生が転入してくる。それを繰り返して3年目にはすっかり入れかわる、という仕組みです。


最後の1年間は3年生しかいないため生徒も教員も1/3になり、その上新型コロナの影響もあって、思うような部活動・学校行事を行うことはできませんでした。それでも生徒たちはいろいろと工夫をして、楽しい学校祭を企画してくれました。そしてその学校祭を終えた後は、各自の進路実現にまっしぐらで進んでいきました。最後まで残った先生方も、担任・教科担任の垣根を超え、生徒1人1人の進路実現のため親身になって指導してくださいました。いろいろな逆境の中、生徒・教師が1つになった1年間だったと思います。教員生活最後の1年を、生徒と一緒に暮らすことができて、本当に幸せでした。


 現在(令和3年度)は、統合校に再任用教諭として勤務し、数名残った浪人生と連絡を取りながら、教員生活の余韻を楽しんでおります。


※霧多布の写真4枚は、浜中町役場の承諾を得て、同町ホームページから転載しました。
   
岡山朝日高校同窓会公式Webサイト