1 山梨と富士山
○ 年に1・2回、実家に里帰りして顔を合わせる高校時代の仲間たちと会話をすると、現在私が現在はるか「山梨」で仕事をしていることに少し驚かれます。それは単に、岡山から600キロ離れているという物理的な距離に対して、というよりも、「山梨って何があるの?」と言われることが多々あるように、特に岡山県民にとって縁の乏しい、イメージの薄い場所であることによるものであると思います。
○ しかし、日本人なら誰しもが必ずや1度は山梨の風景を間近で目にしたことがあるはずです。日本銀行券の千円札には、逆さ富士が描かれています。このデザインの元となった写真を故・岡田紅陽が撮影した場所は、山梨側にある本栖湖(富士河口湖町・身延町)であるといわれています。そして、朝日高生の皆さんが1年次に参加する「富士登山」もまた、山梨側から頂上を目指して登っていきます。
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本栖湖からの富士(筆者撮影) |
千円札の富士 |
○ 日本の象徴、また現在は世界遺産にも登録された富士山は、山梨では県内至るところから(甲府市からでも、あるいは身延山からでも、清里からでも)その美しい姿を眺めることができます。まさに県民にとっての心象風景であり、県の象徴的な存在と言えます。私は現在、総務省から派遣されて山梨県庁で仕事をしており、一昨年(2013年)から今年3月までは、庁内の「富士山保全推進課」というところで、その本県の宝ともいうべき「富士山」にかかわる仕事をさせていただいていました。
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甲府盆地と富士(提供:やまなし観光推進機構) |
2 富士山を相手にする仕事
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第37回世界遺産委員会
富士山世界遺産登録時の風景
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○ 富士山を「保全する」仕事というと、何となく「ゴミを拾う」、とか「登山道を補修する」、というイメージを持たれるかもしれませんが(確かにそういった面もあることは確かですが)もう少し幅広く、一言でいえば「世界遺産として認められた富士山の価値」を保全するため、スピード感をもってあらゆる課題への対応を行う、というものでした。
○ よく間違われるのですが、富士山は「自然」遺産ではなく、世界「文化」遺産です。一昨年(2014年)6月にカンボジアで開かれた「第37回世界遺産委員会」において、正式に登録が決定されました。
○ ユネスコ(国連教育科学文化機関)が文化遺産としてその価値を認めた理由は、自然物としての美しさはもちろんのこと、千年以上の長い歴史にわたり、日本人にこよなく愛され、そのことから文学(万葉集に竹取物語)や絵画(富嶽三十六景に群青富士)、さらには江戸時代に大流行した富士講など、芸術・信仰面での様々な文化的資産を生み、それらが時には西洋世界にまで影響を与えるような存在感を放ち続けてきたことにあります。
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葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」から「神奈川沖浪裏」
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現代に残る「富士講」の風景(提供:やまなし観光推進機構)
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○ 富士山は今でも十分に美しい山です。しかし、現地に足を運んでみるとよくわかりますが、戦後の成長期以降はレジャー化の波を受けて観光地として度重なる開発が進められた結果、その姿は現在大きく変容してしまいました。また、かつての「聖なる山」としての信仰の歴史や芸術的・歴史的な価値について、一般の観光客に顧みられることが今やほとんどなくなってしまったのも事実です。さらに、年間30万人にのぼる登山者数が引き起こすとされる問題や山麓の開発など、(時折、「世界遺産としては仮免許状態」と言われるほどの)課題を抱えている現状があります。
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登山シーズンの最盛期
山頂付近まで列をなす登山者 山頂には自販機も |
登山道からの落石を防ぐネットだが、自然景観を阻害しているとの声もある
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○ こうした課題に対して地元がどのような取り組みを展開するかについては、ユネスコが高く注目していたこともあり、我々県職員にとっても、状況を少しずつでも良い方向に向かわせるための試行錯誤が続きました。日々15人の課職員の方々とともに何ができるかを平日・休日問わず考え、また国(文化庁・環境省など)や庁内各課、静岡県、地元市町村などとも連携しながら、これまでの2年間で、いくつかの取り組みを進めてきました。
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県内の行政・観光関係者による協議会の風景
話をしているのが筆者
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山梨・静岡両県の行政関係者による協議会
話をされているのは山梨県・後藤知事 |
(取り組みの「事例」)
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富士山保全協力金の徴収風景と協力者に配布される記念バッジ
(提供:やまなし観光推進機構) |
・ 山麓景観の維持に向けた取り組み
(大型開発を制御するための「景観アセスメント条例」の検討、登山道・山小屋の修景検討など)
・ 5合目までのアクセス道路(富士スバルライン)の渋滞緩和・環境対策
(連続53日間に及ぶマイカー規制の実施など)
・ 失われた「信仰の道」にかかる調査をはじめとする、富士山文化に関する研究の更なる推進
(山梨県富士山総合学術調査研究の実施、観光客へ世界遺産の価値を伝える「富士山世界遺産センター」(2016年夏に富士河口湖町にオープンの予定)の整備など)
・ 各種保全策に要する財源の確保
(富士山保全協力金(一人1000円を原則とする、いわゆる「入山料」)制度の開始など)
○ 世界遺産という言葉が国内で広く普及したのはここ20年前後のこと。世界遺産の保全に関する包括的な法律などはまだ確立されていないのが現状です。多岐にわたる課題に対応するためには、県や市町村はもちろんのこと、住民や観光業者といった「地域」が主体となった「1からのルール作り」をしていくことが必要でした。また、国内の世界遺産の中でも、特に富士山は観光地としての側面が大きい分、こうした新たなルールが観光事業者(5合目の売店、登山道周辺の山小屋、富士五湖周辺のホテルなど)に及ぼす影響についても十分留意しなければなりませんでした。
○ 山梨の中でも「富士北麓(ほくろく)」や「郡内(ぐんない)」と言われるこのエリアは、今でこそ河口湖や忍野八海などで有名な観光のメッカです。しかし、火山灰土壌で土地は痩せ、また富士山のために南からの温かい風が遮られ、かつては農業がほとんど成り立たなかったといわれています。いわばやっとの思いで先祖の代から「観光業に生きる道を探した」のがこのエリアの人々ともいえるのです。そんな彼らの意見には、特に耳を傾ける必要がありました。当時の横内正明山梨県知事を筆頭に、そうした方々のところに足を運び、膝を突き合わせながら意見を交わす作業が続きました。
○ 「登山者への安全対策の強化」も大きな課題でした。世界遺産登録当時、若い女性(「山ガール」)など新しい層における登山ブームがあり、また日本語の話せない外国人登山者なども増加傾向をたどっていたことを受け、5合目の登山道沿いに(地元の森林組合の建物を借り)様々な情報を発信する拠点「富士山総合管理センター」の整備を行ったほか、登山道上での安全確保に向けた警備体制の強化などを進めました。(山梨・静岡両県の知事が観光庁や大手旅行業者等に対して「弾丸登山」の自粛を要請し、この言葉が流行したのも登録直後のことでした)。また、昨年起こった長野・御嶽山での噴火事故を受け、万が一に備えた避難ルートマップの整備や山小屋へのヘルメット配備、防災訓練の実施なども進めてきました。
○ こうした「富士山を守る」また「登山者を守る」地元の取り組みの成果については、文化庁などの助言をいただきながら「保全状況報告書」という形でまとめられ、来年(2016年)の2月までにユネスコに提出されることとなっています。また、同じく来年の夏頃には、富士山の麓(富士河口湖町)に、世界遺産としての富士山の魅力を伝える「世界遺産センター」が開館予定です。お近くにお越しの際はぜひ足をお運びください。
○ 私はもともと国家公務員(総務省職員)として社会人生活をスタートしました。「総務省」の職員は、地方自治体と国とを何度も行き来するキャリアを歩むのが特徴で、2008年に就職したのち、(山梨に来る前の)5年間の社会人生活で、大阪府庁財政課、総務省選挙部、内閣官房(※官邸スタッフの政策をサポートする仕事をするところ)など、いくつかの経験を積んできました。
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筆者と富士山 |
しかし、山梨で「富士山」というまったく新しいフィールドの仕事に携わることができたことは、様々な経験や人との出会いを与えてくれました。そして「富士山」が四季折々に見せるその姿の美しさや、今も山麓に息づく伝統行事はじめとする奥深い「富士山文化」に触れ、その魅力に取りつかれました。一生忘れることのできない、かけがえのない期間を過ごすことができました。
3 地域の魅力を発見する仕事
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山梨県庁遠景 |
○ この4月から、私は「市町村課」というところに異動し、各市町村を行財政面で支える仕事に携わっています。本県内には27の市町村があり、それぞれに多くの地域資源(「ぶどう」や「桃」といった農業やワイン、観光…)を抱えています。特に「地方創生」が叫ばれる現在、官・民といった枠組みを超え、地元がそうした自らの資源を見つめなおし、その魅力を高め、地域に活力を生みだすための取り組みが求められるようになっています。(富士山に匹敵するほどのピカピカの資源を見つけるのは容易なことではありませんが)埋もれている「山梨の魅力」をみんなで再発見し、それを富士山同様、世界に発信できるほどのブランドに磨き上げていくことが、目下の本県の課題であると考えています。
そして、いつの日か霞ヶ関に戻ってからも、本県で学んだことを生かし、日本の地方全体が活性化するような「活きた政策」を企画立案できるよう努力していきたいと思います。
○ 高校生の当時、将来の仕事のことはほとんど意識していませんでした。大学に入ってからもしばらくはメディア関係の仕事に興味があり、ラジオ局のアルバイトなどに精を出していました。今のような「堅い」仕事を選ぼうとは、当時、思いもしませんでした。
ただ、いまになってふと思い出すのは、高校時代に地理の先生が、日本や世界各地で自身が旅をして見聞きしたことを楽しく語っていた姿。日本全国を飛び回る現在の仕事を選択するに当たり、私に影響を与えてくれた気がします。
これからも(もちろん、岡山を含め)全国を飛び回り、「地域の宝探し」を続けていきたいと思います。
○ それでは先輩、後輩、同輩の皆様のご健康とご活躍を祈りつつ、筆を置きます。
末尾になりましたが、今回このような場を提供してくださった同窓会関係の皆様に、心より御礼を申し上げたいと思います。
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富士吉田市からの富士(提供:やまなし観光推進機構) |
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