広島に住まって30年以上が過ぎました。今は両親もこの世になく、岡山に過ごしていたことが夢のような気がします。まして、ここ、広島でも教育熱心な人には「あの!朝日高校」といわれる進学校に通っていた三年間は幻のようです。
現在は2年前から小さな国語専門の塾を開いています。大学時代の先輩の助けを借りて、それぞれ12〜15人の中高生をマンツーマンで教える日々です。こうした塾を開くようになるとは想像していませんでした。全くわからないものです。
思えば高校時代、どの教科もチンプンカンプンな中、現代文の授業だけは一息つけた唯一の教科でした。中川先生にタチンボウにされ、成本先生に板書した解答をダメーと全面的に直されたりしたのも、今となってはいい思い出です。現代文を末安先生にご教授いただいたとき、阿部公房の「赤い繭」という小説に出会いました。「赤い繭」は実存主義とか不条理とかの言葉を引き連れて私の前に現れました。そして、この小説で解釈するということを知ったのです。「君はどう思うか。」という質問に対する稚拙な意見に頷いていただいたこと、「またよい解釈があったら、披露しよう。」と余地を残して次に進んでいったことなど、文章を読んで考えたり、意見を交換したりすることの楽しさを学んだのでした。この時の授業経験が、文学部に進学させ、今の仕事につながったように思います。
非常勤講師の40代を過ごし、もっと、一人一人に国語の面白さや大切さを伝えたいと塾を開くことを思い立ったのは49歳の時でした。それはまさに天命を得た気持ちでした。
最初、主人に国語専門の塾をやってみようかと思うと告げると、需要はあるのか、と心配されました。リサーチも何もしなかったのですが、非常勤講師をしている中で、国語が苦手だという生徒が存外多く、そして、その大半は設問に答えていくセオリーを習得していないことを何となく感じていました。そこで、1年やって需要がなければ撤退しようと決めて、始めてみたのです。広島は中高一貫校が多く、教育熱心な土地柄で、中学受験が普通のことのように受け取られる県です。私自身も3人の息子の中学受験や大学受験を経験し、お母さん方の熱心さを間近で見てきました。最初の生徒は中学受験を控えた小学5年生の男の子でした。これには息子たちで得た経験が大きくものを言いました。そうするうちに、お母さん方の問い合わせが増え、国語を専門で教える塾があまりないことから、生徒は段々と増えていったのです。
いろんな方が問い合わせて来られました。その中には中国の方もおられました。「学力で勝負させたい、鍛えてほしい、スパルタでやってほしい。」というご希望でした。希望やスタンスがすごくはっきりしているところに戸惑いながらも、世界に出ても物怖じしない中国の方の気質を垣間見たような気がしました。おばあ様と一緒にお尋ねになった方もいます。近年高校の卒業式、大学の入学式などに父母と一緒に祖父母も参列することも増えましたから、塾の選定でも同じことはありうるわけです。6ポケットといわれて久しいですが、もうそんなこともさして取り上げるほどのことではなくなったのかもしれません。そして、中高一貫校の生徒がほとんどを占めているというのも、教育熱心さが塾に通わる要素であることを考えれば当たり前のことでした。塾は広島の公立高校では広大附属中・高校を除けば一番の進学率を誇る高校の近くにあるのですが、こうした、公立高校の生徒さんは通っていません。教育にお金をかけるのが当たり前という層は歴然とあると感じ、教育もまた、買うものなのかなという気がしてきます。
私の塾の最年少は小学2年生の男の子でした。まだ、問題を解いたりするのは早過ぎ、読書経験を積む方が先決ですとお伝えしたところ、いっしょに読んでやってほしいといわれ、交互に音読をする授業を続けました。この素朴な授業は読書の効用を改めて感じる授業になりました。『海底二万里』『岩窟王』など、古くから残る物語を読み進めるうちに、当の男の子の読んでいるときの集中力や注意力がどんどん増していったのです。その結果、国語そのものが好きになり、得意科目になったという報告をお母さんから受けた時には、原点に戻っていくことの大切さを噛みしめたものです。
私が五十路を進む片方の車輪は「好きこそ物の」で始めたこの塾の仕事です。その一方を支えるの「下手の横好き」の歌とゴルフです。どちらも楽しみの域を出はしませんが、コースに出てしまえば、目の前のボールを打つことに集中するゴルフも、お腹から声を出し、ほかの人とハーモニーを作っていくことに専念するコーラスも、私が素に戻る楽しい時間です。そうやってオンとオフを切り替えながら、日々を過ごしていけば、いつか耳順、従心の年代が訪れるのでしょう。人生の折り返し地点をとうに過ぎ、生かされていることに感謝しながら五十路を進んでいきます。
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