たった1度だけ仕組まれてお見合いをしたことがある。「じゃ、あとは若い人だけで」といって親戚の人が部屋から出て行ったあと、相手の女性から「わたしの生活信条は〜〜(あまりに立派すぎて忘れてしまった)ですが、森さんの座右の銘は何ですか?」と質問された。そんな大それた考えなど何もなかった24歳の私は、とっさに芳原先生の漢文の授業で印象に残った2つの言葉を思い出した。1つは【無用の用】だったがこれを座右の銘とするには無理がある。そこでやむなくもう一つを選んだ。
【む、む、むしろ鶏頭となるも牛後となるなかれですねぇ】。芳原先生の教えは鶏頭ではなく鶏口であった。気まずい沈黙が過ぎ、つまらない世間話のあとそのお見合いは終了。
|
卒業アルバムから- 写真部 |
我が60年の人生の中では鶏口の時代が57年、牛後の時代が3年あり、朝日高在学中の3年間がまさに【牛後の時代】。屈折し、拗ねながらも表面上は気取ってやせ我慢生活をしていた。そのやせ我慢の反動か最近は体重が100kgに届く勢い。当時の倍である。
でもたった1つだけ良い経験もさせて貰った。それは40歳以上の女性の心を掴む技を習得したこと。あれは・・・1年生二学期の期末試験一週間前。勉強もせず写真部の暗室でエロ写真を焼き増ししていた時のことであった。押し切りで印画紙を切る際、誤って左手の人差し指先端部をほんの少しだけ飛ばしてしまった。たった一人だったため、まずは指を輪ゴムで縛り、エロ写真の証拠隠滅をしたあとで、こそこそと保健室に行った。
そこには川上先生と戸部先生が鎮座されており、川上先生が手当して下さり、戸部先生からは【なんでこの時期に暗室におったん?】との詰問の嵐。しまいには担任の山崎先生まで呼び出され戸部先生から注意されるしまつ。
【これから1ヶ月、毎日包帯を替えに保健室へ来られぇ】との川上先生の言葉に、何故か多少ウキウキした気持ちになったのを覚えている。手ブラで行くのはまずかろうと、コレクションしていた蝉の抜け殻とか、生きた小亀とかを持って保健室に日参した。
ほとんどの貢ぎ物は【捨てられぇ】と一喝されたが、たまに褒められることもあった。しかし何故か一喝された時の方が気分が高揚し、結局はしょうもないものばかり持って行った記憶がある。そのうち両先生とも【今日はどんなくだらないものを持ってくるのか】と、楽しみにして下さっていた・・・ような気もする。
指先の傷も癒え、日参する必要がなくなってからも、お昼休みに保健室を訪問し、両先生と世間話をしたり、たまに戸部先生の手作り弁当をごちそうになることもあった。自分が行くのを【楽しみにしてくれている人がいる】という喜びを感じさせてもらえたのが後の人生に大きな影響を与えたのは確かで、3年生の頃には屈折とはほど遠い、明る(くて軽)い性格に変貌していた。今更ながら両先生には感謝の気持ちでいっぱいである。
写真部の部長をしていた頃には、写真家になるぞ!と公言していたが、操山高校写真部部長の写真を見て凹(へこ)み、3年の時には1年の女子部員の写真に凹まされ【自分には写真の才能が無い】と悟らざるを得ず、やむなく理工学部に行くことにした。
大学時代には勉学【天地真理や五十嵐じゅんの顔を汎用コンピュータの関数を使って描く】(とデート)にいそしみ、卒業と同時に外資系コンピュータ会社に就職。それ以降、牛後になりそうになると転職を繰り返し、入社当時からの夢(上場企業の情報担当取締役:CIOになる)も45歳でかなえた。しかし、鶏口の実績としては【スペース・インベーダーとヘッド・オンで六本木のゲームセンターのハイスコアを全て自分の名前で埋めた事】【ルービック・キューブの出始めに名人として何度も雑誌やTVで取り上げられた事】の方がはるかに上であった。ところがそういうものはすぐに忘れ去られてしまう。
そのころ出会ったのが万年筆を通じての友人達。実は高校生時代から万年筆に興味があり、学生服の内側に中国製万年筆を20本挿していた時期もあった。しばらく治まっていたその病気が1984年、父母に万年筆をプレゼントしようと伊東屋に行った時に再発した。
最初は一人だけで楽しんでいたが、【万年筆倶楽部フェンテ】というものがあると知り参加。同じ趣味の仲間との会話は楽しく、時間の経つのも忘れてしまう。しかし、そこでは鶏口にはなれなかった。世界のコレクターと称される2年先輩がおり、万年筆に対する愛情の深さも、本数も、知識も人脈もとてもかなわない。また2歳年下の会長は【人格】を絵に描いたような人で、仲間からの信頼や慕われ方も今まで会ってきたどんな人よりも上。 ある時、その会長より依頼を受けた。【フェンテは万年筆で書くことを楽しむ人の集まりなので、万年筆そのものが好きで収集している人のニーズを満たし切れておらず、毎年何人かが辞めていく。その受け皿を作ってくれないか?】と。 これはチャンス!鶏口になれるかも?と二つ返事で【Pen
Collectors of Japan】を立ち上げ、すぐに60人ほどの会員組織になったが、柱が年1回の【Pen Trading in
Japan】だけでは、付加価値として少なすぎ、あっという間に有名無実の存在に成り下がった。 そうこうしているうちに、万年筆愛好家の女性が立ち上げた【万年筆談話室】という掲示板に群がった愛好家で【万年筆談話室オフ会】を定期的に開催するようになった。これはこの上なく楽しかった。常にテーブルに万年筆を何本も並べ、交換して書き味を楽しむという悦楽の時間。その後はアルコールを加えて夜が更けるまで、時には朝まで万年筆話を繰り返す。 ただ、そういう濃密すぎる集団は、ちょっとしたことで崩壊する。掲示板上での発言を問題視する懲罰委員会が秘密裏に開かれ、その後、腹を空かせた大食漢3人が銀座の洋食屋で遅い夕食。当然、暗い雰囲気なので酔いの回るのも早い。 そこで私がある失態をしでかした。焼きリンゴをナイフで切断しようとして滑らせ、床に落としてしまった。しかし冷静な私は、それを拾い再び皿の上に置いてから店員さんを呼び、【すみません、リンゴを床に落としてしまったので、水で洗って下さい】と御願いした。店員さんは一瞬意味がわからなかったようだが、恐縮している友人の顔を見て全てを悟り、【かしこまりました】といって焼きリンゴを持って厨房に引っ込み、忘れた頃に新しい焼きリンゴを持って登場した。【そんなにお好きなら新しいのを焼いて差し上げようと料理長が申しまして。遅れて申し訳ございません】 その言葉を聞いてひらめいた。【そうだオフ会なんて責任も付加価値も曖昧な会合ではなく、参加することによってますます万年筆が好きになり、(今回の焼きリンゴのように)期待以上に幸せな気持ちにさせてくれる“場”を作ろう。そして会員に負担をかけないよう、面倒な会の運営を全て自分たちだけでやろう】と決め、他の2人に勇んで話した。 一人は同意してくれ、今でも全国各地で開催する会合に手弁当で全て参加してくれている。もう一人は力なく首を横に振って静かに席を立った。
|
2013年 WAGNER 日程表
(クリックすると大きくなります) |
萬年筆研究会【WAGNER】の創設日をその日2005年12月17日と定め、翌年より本格的活動に入った。当初は会員数20名強、年間活動日数15日ほどであったが、2013年5月15日現在の会員数は515名、2013年に主催する萬年筆関係の会合は47日間、他の団体が開催する会合に参加する日数が6日間、合計53日間の“場”を提供している。
2007年には当時の会員60名強で【ペン!ペン!ペン!ファウンテンペン!】を出版。全頁グラビアという贅沢な作りで値段も三千円と高価だったがまたたくまに四千冊完売。絶版となった現在でも中古本がamazon.co.jpで(プレミアム価格にて)取引されている。
|
WAGNER-PenHood |
2010年には韓国の万年筆愛好団体PenHoodとの交流をはじめ、ソウルの山の頂上から永遠の交流を誓って【恋人同士がお互いの名前を書いた鍵を金網に嵌め鍵を山の斜面に投げる儀式】も行った。写真はその時の鍵。それ以降、毎年日本から数人が“韓国ペンショー”に参加していたが、円安の今年はついにPenHood会員(10人)の御徒町定例会(7月6日)への参加が決定。まさに趣味の世界に国境は無い!
全国各地で行っている萬年筆研究会【WAGNER】の目玉は、私が中心で行う無料修理と書き味調整サービス。写真のように万年筆先端部の硬い金属をサンドペーパーで研いで、持ち主が一番ここちよいと感じる書き味に直す作業。落下してペン先の曲がった万年筆や、オークションで購入したが壊れていて使えない萬年筆が1回の定例会で、20本〜80本ほど運び込まれる。それを私、及び私が認定した調整師が手分けして直していく。
書き味が望み通り・・・というか予想以上になった場合の参加者の【驚きの表情と歓声】が忘れられずこの行脚を続けている。それに加えて、2005年7月26日から一日も欠かさず続けているBlog【万年筆評価の部屋】。ここでは調整方法や蘊蓄、“間違いだらけの万年筆選び”に近い製品批判や製品改善点も提示している。正直、メーカーにとっては耳の痛い話や営業妨害に近い内容も少なくない。しかし、商品やサービスの問題点を隠蔽したまま売っていれば、結果は万年筆そのものの評判に関わってくる。
拙Blogも最近ではヘビーユーザーからのフィードバックとして、メーカー内でも重宝されていると噂で聞くこともあるが、正式に感謝されたことは一度も無い。いずれにせよ、命の続く限り【万年筆を愛する団体の鶏口】でありたいと願いつつ、日々自分の尻(ケツ)を叩きながらBlogのネタ探しに奔走する毎日である。
毎年10月の最終土曜日は岡山朝日高の京浜地区同窓会。ところがそこは【フェンテの集い】と毎年重なり、どうしても参加することが出来なかった。しかし昨年は会長に御願いして初日だけ休ませてもらい【朝日高46年卒還暦同窓会】への参加がかなった。
その時の写真は http://blog.livedoor.jp/keihin_46/ に掲載してあるが、それが縁で京浜地区同窓会の企画仲間に入れて貰い、ひょんな事から麻布十番のショーパブでモノマネを楽しむという企画を立てた。岡山から上京される2人の美女のスケジュールに合わせて企画したため、平日開催となり、参加者は美女7人に男性1人(ワシだけ)となった。
会場でショー出演者から【今のお気持ちは?】とインタビューされたので、当然のごとく【今まで生きてきた中で一番幸せです!】と答えた。考えてみれば、美女同窓生は高校時代の川上先生や戸部先生よりも年上になっている。やっと高校時代に培ったノウハウが生かせる年代に(相手が)なったのぅ・・・と1人で悦に入っている。
松下幸之助さんの残した言葉に、【青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気にみちて、日に新たな活動を続けるかぎり、青春は永遠にその人のものである。】というのがある。とするならば、私にとっては60歳の今こそが青春真っ盛り。まさに【今まで生きてきた中で一番幸せ】な状態が続いているのである。
万年筆評価の部屋:http://pelikan.livedoor.biz/
|