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恩師の中田耕治先生とともに |
一昨年、高校卒業後三十年目にして、初めて出席した京浜同窓会の後の同期会でのことです。
一人ずつ近況報告を兼ねて自己紹介をすることになり、私の順番が回ってきました。私が「今は、森山茂里というペンネームで時代小説を書いています」と話すと、同期の皆さんから、驚きの声が上がりました。
それは当然の反応でした。高校時代は、私自身、将来、小説を書こうとは思ってもみませんでした。
子供の頃から、本を読むことと、絵を描くことは好きでしたが、読書はあくまでも自分にとっては趣味、小説は読むものでした。
実際に、高校時代には美術系の大学への進学を考えていました。美術部に所属し、美術の坂手先生にデッサンの指導も受けていました。独立した平屋の建物の美術教室で、油絵の具と埃の匂いのする中で、美術系の大学を目指す同級生と石膏デッサンをしたのはなつかしい思い出です。
しかし、何が何でも絵を描きたいという根性もなく、結局、大学は無難な文科系に進学しました。
その後、大学院に進んだものの、自分が何をしたいのか掴みかねていました。そんなとき、ふと新聞の広告で目にとまったのが翻訳学校の案内でした。
軽い気持ちで案内のパンフレットを取り寄せたところ、一人の講師の名前に目が釘付けになりました。この方が私にとって、翻訳と文学の恩師となる中田耕治先生です。 不思議な縁ですが、私が中田耕治の著作に初めて接したのは、朝日高校の図書館でした。
当時の朝日高校の図書館は、授業後に自習する生徒が目立ち、のんびり読者を楽しむよりも、勉強する張り詰めた雰囲気が漂っていました。一方、私は図書室で勉強することは少なく、面白い本はないかと書棚を回って本の背表紙を眺めるような生徒でした。
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八王子 浅川 (多摩川の支流のひとつです。時々、散歩にでかけ、
四季折々の風情を楽しみながら、地元の歴史に思いを馳せます) |
高幡不動の骨董市(月に一度、第三日曜日に「ござれ市」という大きな骨
董市が開かれ、広い境内は参拝客や骨董目当ての人たちで賑わいます) |
「ルクレツィア・ボルジア」も、そうやって見つけた本の一冊です。ルネサンス期イタリアのボルジア家の女性の評伝で、単行本で上下二巻の大著でした。当時、著者の「中田耕治」についての知識はありませんでした。ただ、西洋史に興味があったので、その本を手にとったのです。
本に書かれている内容の半分もろくに理解できませんでしたが、書物にはこういう世界があるのだと圧倒されました。それ以来、「中田耕治」という名を意識し、あちこちで書いたものを見つけるようになりました。それらは、ルネサンス評伝の他に、新聞の連載小説や、映画評、ミステリーやハードボイルドの翻訳、時代小説までと多岐にわたり、著者の博学とジャンルの広さに驚嘆しました。
そして、翻訳学校の講師の中にこの名前を見つけたとき、迷わず翻訳の勉強をする決意をしたのです。
翻訳の勉強を始めた当初は、自分の語学力の拙さを痛感するとともに、自分がそれまで小説の上っ面しか読んでいなかったことを思い知らされました。
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上野の不忍池の蓮 (時代小説の舞台となる場所にも時々
でかけます。 不忍池は7月下旬は蓮の花が見事です) |
私は出版翻訳から、時代小説に足を踏み入れました。一見、全く異なったジャンルに思えるかも知れませんが、私にはそれほど違和感はありません。 今、思うのは小説を書くには、どんな経験でも役に立つものだということです。
時代考証や調べものをする能力は、大学院や翻訳の調べもので培ったものです。文章を書く力や、小説を読み込む力は、濫読や翻訳で訓練されました。
また、時代小説を書き始めて、これまで省みることのほとんどなかった日本の文化や、地元の歴史に興味を持つようになりました。近頃では、地元の郷土史の勉強会に出席したり、近くの骨董市に出かける楽しみを覚えました。
昨年の京浜同窓会では、同じ昭和五十三年卒業の池本しおり先生にお会いした折に、私の著作が朝日高校の図書館の卒業生のコーナーに置かれていることを教えていただき、恐縮するとともに、大変光栄に思っています。
私の通っていた小学校と中学校は廃校になり、朝日高校の図書館も新しい建物に替わってしまいましたが、私に読書の喜びを教えてくれた図書室や本は今でも大切な思い出として記憶に残っています。
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