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世界で活躍する同窓生からのメッセージ(敬称略)
三好雅彦  ( 昭和52年卒)  中国

中国、上海より

オフィスにて

 私が朝日高校に入学したのは昭和49年のこと。何年前か数えるのに手間がかかるほど昔になってしまいました。私は藤田中学校の出身で、そのころ中学校はまだ“村立”でした。

 朝日高校で学んでいたときはなぜか自分に田舎者のレッテルを貼り、コンプレックスに悩まされた3年間でした。陽の当たる明るいものより何となく陰のある暗いものへ愛着を感じるようになったは、そのころだったのかもしれません。

 1年の補習科生活を経て東京の大学へ。「スポーツをやりたいな」という単純な動機から何気なく体育会山岳部の門をたたきました。それが私の人生を大きく変えました。

 「大学は4年で卒業するもの」と考えていた私の前に5年生、6年生という先輩が次々に現れたのです。しごきに近い体質が残っていた山岳部でへろへろになりながらも、「弱いと思われたままでは辞められない」という思いで続け、多少格好がつくようになったころには抜けられる状況ではなくなっていました。

 多くのスキーヤーでにぎわうスキー場のリフト脇を30キロの荷物を背負って登るなど、決して明るいとはいえない活動を続けました。結局、大学生活は7年に及びバブル前の不景気もあって就職活動は難航しました。

残照の上海環球金融中心。中国一高いビルで高さは
492メートル。日本の森ビルが開発し、躍進する中国
経済の象徴的存在となっている。

 昭和60年、私はその年に開局するテレビせとうちの社員として社会人の道を歩み始めました。開局を前に10人を超える大量採用があり、年齢制限もなかったので何とか潜り込めました。本社、東京支社での営業を経て報道、制作の仕事を長く担当し、2004年に19年余りのテレビ局勤務にピリオドを打ちました。

 大学で求人票を見て「岡山・香川で5番目のテレビ局?あの系列しかないな。大変だぞ」と思った通り、テレビ東京系のローカル局はそうそう楽な仕事をさせてはくれませんでした。ただ、その経験が今に生きていることは間違いありません。

 「中国が好きだから中国で仕事をしたい」、それだけの単純な動機でテレビせとうちを退社したものの、仕事は簡単には見つかりませんでした。NHK岡山で契約のディレクターをして何とか食いつないだあと、取材で知り合った岡山の日本語学校の人の紹介で中国江蘇省鎮江市の日本語学校で働くことになりました。

 2005年10月、いまから4年ほど前のことです。初めての中国生活、それも地方都市で、それなりの試練は覚悟の上でしたが…。まずは給料。月4000元(当時のレートで6万円ほど)と日本で働いていたころの5分の1以下に。そして仕事。日本語教師といっても資格や経験があるわけでもなく、手探り状態での授業です。

 中国語を独学した経験から外国語はこうして学ぶものだと勝手思い込んでそれを実践していました。今から考えると冷や汗ものですが、地方都市で競争相手がいなかったことと、日本のテレビ局で働いていたという経歴が物を言ったことで生徒からの不平、不満はほとんどありませんでした。日本人が珍しい土地柄で、酒宴に招かれたり、旅行に誘われたりと楽しい思い出もたくさんあります。

 そして、2006年8月に同じ系列の上海の学校に移りました。上海で教えるの生徒は金持ちの子弟が多く、思いもしないこともありました。 勉強しない生徒が多い。そのくせすぐに成果を求めたがる。甘ったれの一人っ子が多いのです。「こんな若者ばかりじゃ、中国の将来も明るくないな」と何度も思いました。

 上海では日本語学校の競争が激しく、日本人の教師も多い。生徒は年齢の近い若い教師を好み、生徒を楽しませる工夫をあまりしない私の授業は次第に敬遠され始めました。

来年5月1日の開幕に向け着々と工事が進む上海万博の会場。
シンボルとなる中国館も外装工事をほぼ終えた。

 食うのに困るようになり、仕方なくネットで求人を探し、現在働いている日本語フリーペーパー・SUPERCITYの仕事にたどり着きました。経済系の雑誌を担当し、主に上海の日系企業を取材しています。

 昨年9月に始まった世界的な金融危機は世界経済を大混乱に陥れました。中国もその影響を免れることはできませんでしたが、それでも経済成長を続け、昨年のGDPの成長率は9.0パーセント、今年も期を追うごとに回復傾向を強め、政府が目標としている8パーセント成長は達成の可能性が高くなっています。

 中国はいまや世界経済のけん引車の役割を担うようになりました。上海はそんな中国経済の中心地です。取材先の日系企業の多くは日本経済の低迷の影響を受け、聞く話は明るいものばかりではありません。しかし、そんな企業でも「今後の当社の命運は中国での活動にかかっている」と言われることが多く、日本経済はまさに中国頼みの状況といっていいようです。

 今年4月に上海で開かれたモーターショーも取材しました。そこでは世界の主要メーカーの熱の入れようと、入場者の多さに驚きました。10月の東京モーターショーに出展した外国メーカーは2、3社だと聞いています。この差が日中の現状を端的に表しています。世界の目は中国に向いており、日本は軽んじられています。そこを自覚しないと日本は大変なことになります。

万博会場西の老街。狭い路地がここに住む人たちの社交場だ。 取り壊しが進む老街。


 躍進を続ける経済ばかりが注目される上海ですが、庶民の多くはそれとは別次元で暮らしています。私は休みの日に古い街(老街)を訪ねます。上海の所々に残るそうした街では、何十年も前から同じような暮らしが続いています。レンガを積み重ねセメントで塗り固めた家にはトイレもシャワーもない。一般に貧しいとされているそうした老街には、人と人のつながりを大切にした生活があります。狭い路地に小さないすを持ち出し日がな一日おしゃべりをする。トランプやマージャンに興じる。子どもたちは狭い路地を走り回り、時々けんかをして泣き声を上げる。路地裏には人の声が絶えません。

抗議の看板

 こんな街も再開発という名の破壊の波に洗われ急速に少なくなっています。特に来年の上海万博をにらんだ都市整備のため、市中心部にある老街は風前の灯といった状況です。

 万博会場から西に2キロほどのところにあり私が幾度となく通った老街は、最近見る影もなくなってしまいました。家屋の取り壊しが進んでいたころ、残っているおばあさんに話しかけると「身寄りもなく、引っ越し先もないのにどうして追い出されなくちゃいけないの」と悲しげな言葉が返ってきました。

 通り沿いの看板には「働かずにひたすら他人のものを手に入れる。恥ずかしくないのか。いい死に方をしないぞ」などという抗議文がつづられていました。経済発展と昔ながらの庶民の生活、両立は難しいのでしょうか。もうしばらく上海の人たちの暮らしを見守っていきたいと思います。
 


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