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国内で活躍する同窓生(敬称略)
東 隆司 (昭和 42年卒)    岡山市在住

アラ還の年代となって

2009年1月2日 OB操朝戦朝日校にて

 地元在住の私が「北から南から」に寄稿するのはテーマにそぐわない気がしますがご容赦ください。

 朝日高校在学中は、サッカーに明け暮れていました。サッカーはいまではメジャーなスポーツになっていますが、当時は部員が11名そろわないこともあったりして、試合の時など隣のラグビー部から応援にきてもらったこともありました。

 当時は革を縫い合わせたボールで、雨の時などボールが水を吸って重くなり、特に空気の注入口の部分は革紐で縫い合わせていましたので、その部分をヘディングしたときは痛くて思わずうなったものでした。

 朝日高校サッカー部は強力チームとはいえませんでしたが、いま風にいうとカウンター攻撃で入れた1点を守り抜き、くじ運のよさも手伝って県内ベスト4になったこともありました。

 勉強の方も真面目にしていましたが、ひたすら勉強をするだけでは自分の存在の意味がないように思われて、自分の存在を確かめるためにサッカーに打ち込んでいたのだろうと思っています。

 3年生になって同級生の大半は部活から引退しましたが、悔いを残したくなかったので夏の国体予選まで部活を続けました。成績は下がりましたが、心残りはなかったのでその後は勉強に集中できました。

山陽新聞掲載メランコリック・キッズ

 オジさんといわれる年齢になって、文化系のクラブ活動をしていた友人から、映画、演劇、音楽や女性の同級生との付き合いなどの思い出話を聞くと、硬派を自認していた自分の人間的な幅の狭さに恥じ入ります。 高校生の時代にしか経験のできないことはたくさんあります。将来のためにいまは我慢という美徳にとらわれず、今を充実して生きることが必要だということを心から思います。

 大学時代は東京で過ごしましたが、大学の中は混乱の時代でした。
 何となく会社組織に入るのは自分を失うような気がして司法試験を目指し、単純な正義感から検察官となりました。検察官の時代は、東から西への転勤を何度か繰り返し、当時であればこの原稿もテーマに合った内容になったかも知れません。

 仕事の面でも子育ての面でも充実した時期を過ごすことができましたが、家族にとって転勤が大きな負担になることに気付き、16年間の検察官の生活に終止符を打って岡山に戻り、弁護士事務所を開業しました。

 地元に戻ってから19年目を迎えていますが、この間、旧友との親交を深めることができ、同時にたくさんの素敵な出会いを経験しました。

 平成4年に行われた県知事選挙では、たくさんの箱ものを作るやり方に不安を感じ、当時の現職知事の6選出馬に反対して、弁護士の水谷賢さんを応援して選挙カーに乗りました。

 わが子の通う岡山市内の小学校の制服に疑問を持ち、「岡山の制服を考える会」の会員となって制服問題に取り組んだこともあります。小学校のPTAの委員になり、総会には精勤賞がもらえるくらい出席しました。一人でマイクを独占し、制服とPTA会計のことで質問・意見を長時間繰り返していたのですから、当時のPTA役員には相当嫌がられたと思います。

あかね色の空を見たよポスター

 それでも、子どもが中学校に進学すると中学校のPTA会長に推薦されたので、それなりに私のやり方を評価してくれる人がいたのかと思いました。 岡山市内のPTA連合会の役員を兼任しましたので、他校のPTA会長とも親しくなり、新しく友人を得ることができました。

 現在では中央小学校をはじめとしてかなりの数の小学校で制服が廃止となり、カラフルで着やすい服を身につけて通学している子ども達を見るとうれしく思いますが、いまだに多くの小学校には通学服の制度が残っているようで残念です。

 制服問題に疑問を持ったことがきっかけとなり、弁護士としても子どもの権利の問題に関わるようになりました。
 平成7年5月、わが国が前年に子どもの権利条約を批准したことにちなみ、岡山弁護士会が主催してミュージカル「メランコリックキッズーいまどきの子どもなんていわないで」を上演したときには実行委員会の委員長として関わりました。

 弁護士を含む7歳から50歳代までの55名の出演者を公募し、作曲、演出、演奏などに多くのボランティアスタッフの協力を得て、ミュージカルの上演は大好評のうちに終了することができました。いま風に言うと大人と子どものコラボレイションがお互いを活性化させ、すばらしいミュージカルを作り上げることができたと感動しました。

 「あつい壁」、「ブリキの勲章」などのすぐれた映画を送り出してきた中山節夫監督から、平成10年9月、県内の子どもに関係する個人、団体に対し、堂野博之さんの不登校体験を綴った詩画集「あかね色の空を見たよ」を映画化する企画が持ち込まれました。

 1枚1,000円の協力券を県民一人一人に購入してもらい、製作資金を集めようということになり、弁護士という比較的自由な立場であったことから、私が映画製作委員会の委員長になりました。
 

事務所にて

 旧烏城高校が舞台となったため、朝日高校の校門と体育館が撮影場所となり、バレーボール部員にはエキストラとして参加してもらいました。多くの県民の協力を得てすばらしい映画が完成し、上映運動は大成功に終わりました。

 ボランティアとして製作委員会に参加した人たちが、不登校の子ども達のために「フリースペースあかね」を設立し、上演収入を運営資金に充て、引き続き不登校の子ども達のための活動を続けています。

 卒業後40年の年月が過ぎ、アラ還の時期を迎える当たって、私は二つのライフワークとなる目標を立てました。

 一つは、虐待を受けて家庭に戻ることができない子ども達や、非行を犯し、行き場を失った子ども達が緊急に避難できる子どもシェルターとその後の自立を支援する自立援助ホーム作りに参画すること、もう一つは、朝日高校のサッカー部の後輩の木村正明さんが立ち上げたプロサッカーチーム「ファジアーノ岡山FC」をスポーツを愛する岡山県民の誇りとなるチームに成長させることを応援することです。

 子どもシェルターは、昨年9月27日、弁護士や福祉関係者が中心となりNPO法人「子どもシェルターモモ」を立ち上げ、本年4月から自立援助ホームの運営を開始しました。

 「ファジアーノ岡山FC」は、見事J2昇格を成し遂げました。 この年齢になって再びサッカー(応援)に明け暮れる日々が始まりました。
 

   
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