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国内で活躍する同窓生(敬称略)
八部 順一(昭和41年卒) 東京都江東区在住

橋梁人生40年

最近の私。現職場のみちのく郡山近くの三春瀧桜の前で。
還暦を迎えた年です。

 皆さんこんにちは。昭和41年卒の八部です。月日の経つのは早いもので、昨年の7月に還暦を迎えました。

 この拙文が皆様のお目に触れるころには、41年卒の同窓生はほぼ皆さん全員が還暦を迎えていることとなります。ということで、昨年10月27日、母校近くの「三光莊」で「還暦同窓会」があり、たくさんの懐かしい顔にお会いすることが出来ました。当時とまったく変わっていない方、面影が残っている方、お話をしている内に思い出した方等々、様々でした。

 この同窓会後の二次会で話をしている内にいつの間にか拙文を寄稿する約束となり、筆を取った次第です。

 では、早速ですが本題に移らせていただきます。
 朝日高では理系クラスでご指導をいただきました。その当時は将来に対して具体的にどのような分野に進むのか、しっかりとした考えは持っていなかったのが実情です。ただ、小さい時分より構造物には興味があり、大学受験に際しては第一志望を建築、第二志望を土木としておりました。残念ながら第一志望の建築では不合格となり、第二志望の土木で拾われ、その時より私の土木人生がスタートいたしました。

 土木と言ってもその内容は多様ですが、その中でも橋梁構造を専攻し、40年以上経った今でも橋梁に従事しております。
 土木の中で橋梁を選んだ動機は若干ミーハー的なところもありますが、大学入学当時、天草パールラインの橋梁建設をテーマにした朝の連続テレビドラマ「虹にかける橋」が流行っており、橋梁建設に憧れを持ったことも理由の一つとして上げられます。
 という事で、大学の学部の専門課程、修士課程で橋梁工学を主体に学び、会社も橋梁建設業務に携わることの出来る会社を選びました。

レインボーブリッジ設計当時の私(雑誌のインタビュー記事より抜粋:髪は真っ黒です)

 新入社員の頃の思い出としては、平成7年1月に発生しました神戸震災の影響は受けましたが、現在復旧され供用されています神戸港に架かる「第二麻耶大橋」の建設に従事したことが上げられます。

 この橋梁は建設当時としては同種形式の橋梁としてわが国最大規模のものであり、また、当時世界各地で同種橋梁の事故が頻発していたことから、新人ながら設計、架設に関わるこの種構造の諸検討を徹底的に行う機会に恵まれ、この時の経験が橋梁技術の基礎体力をつけることとなったものと思っています。

 次に思い出に残る橋梁としては、大阪市の「長柄橋」が上げられます。この橋名は平安時代の書籍にも名が記されている由緒あるものです。この橋梁は車が通行する路面を鋼板と2本の鋼桁で支持した鋼床版2主桁橋と呼ばれる形式の橋梁です。単純な形式ではありますが、技術的には奥深いものがあります。

種子島のH-Uロケット射点基地を検討中の模型です。
この先の小島まで橋を架けてそこから打ち上げる計画でした。

 この橋梁を実現するに当っては1/5縮尺の鋼製部分模型を作成し、この構造固有の挙動を把握するための試験を実施いたしました。
 1/5縮尺といいましても、実橋の幅が16.5mもありますので、模型の幅も3.3mと大きなものとなりました。この橋梁では、完成時には高炉スラグを搭載した20tトラック15台を用いた真夜中の載荷試験を実施し、夜間照明で目に見える量の変形、これは計算値と良く合う量ですが、これを肉眼で確認したのも思い出深い記憶となっています。

 この工事が完成した頃、勤務地が関西から関東に移り、その後は現在に至るまで東京をベースとした生活となっております。

 また、結婚もこの時期に致し、現在、一女二男の子宝に恵まれた五人家族と犬一匹の生活を楽しんでおります。

 東京勤務となってからは、主として名古屋以北の橋梁工事を担当いたしましたが、この頃橋梁から少し浮気をし、土木工事を担当する機会を得ました。

 具体的には種子島のロケット射点設備の土木工事です。このきっかけはロケットを搭載した移動式の発射台を打ち上げ点として計画していた小島に渡す橋梁が必要とのことで飛びついたわけですが、それも幻の橋となり、今ではその小島の手前でロケットは打ち上げられています。

最近のレインボーブリッジ。この辺りには犬との散歩がてらに来ます。

 昭和から平成に移る頃、まだ、日本の橋梁業界が元気な頃に担当した思い出深い橋梁としては、東京のお台場に架かる「レインボーブリッジ」が上げられます。

 この橋梁の形式は吊橋と呼ばれるものであり、関西地区では瀬戸内海を中心に数多くの橋梁が架けられていますが、当時、東日本では初めての本格的な吊橋でした。また、この橋梁は、高速道路、一般道路、新交通、歩道を抱えた二層の複合道路であり、また、東京港の表玄関となることなどより景観等にも配慮された重装備な橋梁です。

 このような本格的な吊橋を担当するのは初めてのことであり、本州四国連絡橋の吊橋経験者の方々に種々ご教授いただきながら、吊橋を一から勉強し、無事完成させていただきました。

 今でこそ、レインボーブリッジの周辺は臨海副都心として賑わっていますが、建設当時は土埃のたつ荒野で、今のように発展するとは思いもよらないことでした。

 この工事が終わった頃から、日本の元気が失われる気配が漂い始めた中、次世代の橋梁について考えるようになり、橋梁の原点に立ち戻った研究を始める機会を得ました。このころヨーロッパを中心に橋梁のルネッサンスが始まっておりました。研究に着手する前に先ず、外からわが国の橋梁を見つめ直そうと、駆け足の貧乏調査旅行を行いました。

大阪のUSJに係留されている浮体防災基地です。製作は坂出の
造船ドックで行い、瀬戸内海を現地まで曳航、据え付けました。

 この時の印象から、鋼橋分野にコンクリート、PC(プレストレストコンクリート)技術を取り組んだ橋梁技術の確立が必要であると考え、関連研究を進め、鋼橋の新しい床版として、PC床版、鋼板とコンクリートとを一体化した鋼・コンクリート合成床版の実用化研究を進め、現在では鋼橋の新しい標準床版として定着するようになりました。これは私の予想をはるかに超える速さです。

 また、変わったところでは、大坂のUSJに隣接して係留されている浮体防災基地(震災等の災害時に支援設備として災害地の港湾に計画されているもので、40×80mと大規模なものです)の建設に、この時勉強したPC技術を適用しました。現在、観光船の桟橋として使われています。

 そうしている内に、60歳に手が届くようになった頃、地方の小さいながら元気のある橋梁会社から声がかかり、現在は、みちのくの安達太良山のふもとで、未だに橋造りをやっております。まだ、当分は橋造りから、手が抜けないようです。

 以上、東北からのお便りをとじます。
 皆様のご活躍、ご健勝を祈念しております。
 


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