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国内で活躍する同窓生(敬称略)
山本 裕士(昭和17年卒) 倉敷市在住

趣 味 の 絵 画

絵画を画き始めたきっかけ:

 私の絵を画く様になったきっかけは、旧制中学(岡山一中)1〜2年生の時の絵画教師に絵を褒められた事が頭の片隅にあり、何時か絵を画いてみたいという気はあったものの、我々の通り抜けた学生時代は正に戦争一色の時代、勉学の他、学徒動員で航空機製作所や造船所に狩り出されたり、又旧制高等学校(六高)では学徒出陣で戦場に向かう同級生も出る状態であった。

 更に終戦になると世相の状況も一変、将来目指していた航空関係の職業の目標も失われ、工科系より遅れて再度受験し医科系へ転じ、なお終戦後の混乱期で経済状態悪く同僚とアルバイトしながらの勉学で、漸く医師になり医業に就くようになり、その後は長い間医業に専念していた状態で絵を画くことは忘れていた。

 それが昭和50年1月5日、正月で帰省していた弟家族が名古屋へ帰るのを岡山駅まで見送りに行った家内が、駅で突然クモ膜下出血で倒れ、救急車で病院に運ばれ生死を気遣う中、幸い手術の後、後遺症もなく治癒したものの、若し最悪になっていたならと、人間の儚さを感じ、若し何か事のあった時自分の存在していた証を何らかの形で後に残したい、それが取り敢えず自分で画いた絵画なら上手、下手を問わず後に残るのではないかとフット頭に浮かんだ。
こが最大のきっかけといえる。単なる自己満足であろうが?

絵画の作成:

第66回二科展  早春の大山 (1981)

 実際、絵を画き始めたのは、昭和50年9〜10月頃だろうか?その頃は家内と一緒に自家用車で人に聴いたり又絵の本で見かけた景色の良い所を探してがむしゃらにあちこちスケッチに行ったものである。

 時には一人で家内の作ってくれた弁当を持って出かけ、山村、殊に雪景色を、道を少し離れた所で自動車の中でゆっくり人に見られ邪魔されることなく写生した事、楽しい思い出である。

 その頃絵描き仲間に指導者を紹介され、趣味だけで絵を画いていてはあくまで素人の域を脱し得ない、大きな絵を画いて公募展に出品する様にしたら、やる気が出て一層本気になるとアドバイスされ、それから少しずつ絵の方にのめり込んだ様である。
 
      
第69回二科展  安曇野 (1984)

 その後子供達が成長し長男が仕事を手伝ってくれる様になると土曜、日曜と家を空けることができ、更に現在の様に年を取って来ると一人の運転での遠出は危険という事で、嫁いだ娘が孫達を連れ、時には娘婿の運転で遊びを兼ねて時には景勝地の旅館に泊まる事もあり何が本筋か分からない事もあるが?

 兎も角スケッチの回数は自然に多くなる。ただ苦になる事は回数が多くなり、それを現場の印象が薄れない様に家に帰って、荒書きしてキャンパスに残す為、それがそのままに残され不完成作品が残る。

 又たとい一応完成された作品としても、後になって見ると気に入らない所が見えてきて、絵画とは中々終わり無く完成を何処にするかのけじめ、決定が必要である。
 

洋画展、画集作成:

       
奥入瀬の秋
 さて或る程度数がたまると個展を開いたり、画集を作成したりしてある程度人に観て批評して貰いたくなり、今回の画集作成、個展開催に踏切った。

 しかし何もかも自分での仕事、画集作成には、依頼先の印刷所探し画集に載せる絵の選定、それをどんな風にして載せて貰うかの印刷所との交渉、洋画展では画廊探し、交渉の日時の決定、案内状作成、送付、展示絵画の選択、額縁合わせ等々大変な苦労であったが平成17年10月頃より予約していた倉敷天満屋美術画廊での洋画展が平成18年8月29日〜9月4日の間で、無事終了、しかも開催初日、ローカルテレビではあるが倉敷ケーブルテレビの取材を受けテレビで放映された。
それがCDに残された事、画集の簡単なものも出来た事と兼ねて、ほっとしている今日この頃である。

今後の抱負:

       
待春の大山の里
 現在は趣味の範囲を超え少し深く入り込みすぎた感があり全美術協会委員で公募展に出品を続けており、他にも倉敷美術協会展、旧制六高の美術同好会の六彩会展、倉敷医師会グループ展等々と色々と出品回数が多く、それが、年令を重ねて来ると負担が大分強くなって来る感じは隠せないが、ここまで来ると趣味の域を超えて、楽しさも加わって、今更絵筆が放せない状態にあり、一方まだ画き残しの絵が大分あり、画集U卷の作成もしたく、まだまだ頑張りたいと思う。


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