|
高校2年の修学旅行
「屋島」
|
いま思い返すと自分でも驚くのですが、高校時代の私は全くのんびりしていて、将来の設計や進路など、まるで考えずに過ごしていました。朝日高校に在学した昭和二十年代と言えば、終戦からまだ十年未満、「もはや戦後ではない」と経済白書にうたわれたのがようやく昭和三十一年。あれからすでに五〇年が過ぎました。
高等学校二年生の時、岡山市の公会堂で文化講演会が開催されました。文学に興味がありましたし、著名人の顔でも見てみるか、といった軽い気持ちで出かけたのです。ところが、終わってみれば私は講演に圧倒され、彼我の違いに愕然とし、文学への渇仰がいっそう掻き立てられたのです。文字通り魂が揺さぶられる経験で、以後、折りに触れ思い起こすことになりました。
小林秀雄、角川源義、亀井勝一郎、このお三方が講師でした。当時はまだみなさん壮年というべき時期にあって、力のこもった文章を精力的に発表されていました。とりわけ、小林秀雄氏の「もののあはれ論」に感銘を受けた。残念なことに細部は失念したものの、氏はたしかゲーテに言及されたはずです。私がドイツ文学に興味持ったきっかけでした。
この日の経験は、私にある回心を迫りました。単に文学が好き、書くことにも興味がある、という程度では勝負にならない。小林秀雄と同じ土俵に乗ることができなければ、文学を志す甲斐がない。同級生にも将来文章で独り立ちするだろうと思わされる者がいて、「かなわん」と臍を噛んでいた。
それではと思いなおし、作家を世に問う同伴者たろうと考えました。はじめて出版という職業が意識されたわけです。以後その思いを胸中に東京で学生生活を送りましたが、卒業に際して当時の院長、阿部能成先生にご相談すると、岩波書店と昵懇でおられた先生は「ぜひチャレンジしてみなさい。それだけの価値はある」と励ましてくださった。
望外のことで、すこぶる感激したものです。卒業から一年目、たったひとりで出版社を起こしました。母校の名前と、当時格別にお世話になったニーチェ研究で著名な独文の恩師のお名前から「朝日出版社」と命名、神田神保町で創業したのでした。
独文の出身でしたし、恩師のご助言もあって、最初は大学生向けのドイツ語テキストを専らにしました。心細かったのですが、恩師の先生方、ご紹介いただいた諸先生、友人たち――ドイツ語教師の道を選んだ者も大勢おりました――、みなさんにおおいに励まされて、なんとか持ちこたえた。
当時は現在と違って、大学数も学生数も年々増えていく傾向にありましたので、出版内容もドイツ語からフランス語・英語へと手を拡げていきました。大学が一部エリートのものではなくなった開放的な時代の、学習欲や知識欲が、私の背中を押してくれたのでしょう。
学生向けの語学テキストだけでなく、哲学・思想の分野も手がけてみたいと思っていたところ、『エピステーメー』――ギリシャ語で「真なる認識」――なる雑誌を出すことになったのです。「高級・斬新・難解」というレッテルを貼られ、たしかにとっつきにくい思想誌でした。しかし、その無謀な野心を買ってくださったのか、知識人や大学生には浸透し、高い評価をいただいたのです。
|
70歳の私
|
この雑誌の創刊からすでに三十年以上が経ちますが、私が思うに出版で一番重要なことは「だれもやっていないことに挑戦する」ということではないでしょうか。
テーマの選定、執筆下さる先生の説得、造本・宣伝の仕方など――いつも新たな難題に直面しますが、悩んでいるとあるときふっと補助線が引けるようになる。渾沌としていたアイディアが一挙に形になる瞬間です。
しかも、出版が自己満足に終わらず、読者に支持されれば、他に比肩できないほどの喜びが得られます。
この年齢になっても、出版以外にこんな満足が得られる場は見つかるまい、と思うのです。
文化講演会から五十数年、憧れと嗜好を両立できる職業を選べた私は幸せです。いやいや働いているのではない。好きなことをしているのですから、その過程で出会う苦労も失敗も大歓迎です。
著者の先生方、取引先のみなさん、友人たちのお陰で、なんとか四十七年、大過なく会社を運営してこれました。心から感謝しています。
これからは、母校をはじめ、私を支えてくださった社会に何らかの形で恩返しがしたい。何程のことが出来るか心許ないのですが、出版を通じてご縁ができた諸先生のネットワークを活用していただけるのでは、と思っているのです。
卒業年次から名付けた同級会(二九会)のメンバーでは、地元で活躍する佐藤昌信君、木口省吾君、京浜地区では幹事の松田守君たちといまも交遊が続いていますし、要職に就き多忙を極める片山虎之助君とも月に二、三回は憂さ晴らしをする仲です。まだまだ現役、元気に忙しく働ける幸せを実感しています。
|