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ラボアジェの実験室(パリの科学技術博物館)
を再現した部屋での私
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私が岡山朝日高校を卒業したのは昭和35年、今から45年前にもなる。卒業写真を後楽園でとったのも、つい最近のことのように思われるのに、もう私は64歳。40年間、大学や研究所での教育・研究生活を終えて、昨年から科学雑誌の編集という新しい仕事に就いたところである。この歳になっても、高校時代に教わった先生方がまだまだ元気でいらっしゃるのを見たり聞いたりすると、私ももう少しがんばらなくてはと思うこのごろである。
私の勤めていた宇宙航空研究開発機構、宇宙科学研究所での定年は63歳なので、私が研究をこれで止めると言ったら外国の友人たちが、「それは勿体ない。私の国に来て働かないか」と誘ってくれた。アメリカには何年か住んだこともあるし、どうせ長期滞在ならぱヨーロッパがよいなと思っていたので、パリ大学の友人の誘いに応じることにして、2004年夏からパリにある地球惑星物理学研究所の客員教授ということでパリに住むことにした。日本での仕事もあるので、パリ滞在は結局半年あまりにしか過ぎなかったが、パスカル、ラボアジェ、ラグランジェ、フーリエ、ガロア、パスツール、キュリー夫妻、ポアンカレなど科学の礎を築いた偉人の住んでいた街の空気を感じられただけでも収穫だった。
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ソルボンヌ大学、現在は正式名称としてのソルボンヌ大学はなく、かってのソルボンヌ大学はパリ第1大学からパリ第13大学までに分割された。しかし文系の中心となっているパリ大学4が別名としてパリ・ソルボンヌ大学といわれている。在りし日の栄光のソルボンヌ大学を象徴する建物がここにある。
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パリ。デカルト通1番地にある旧エコール・ポリテクニックの建物。この学校が多くの著名な学者を輩出した。
現在はフランス文部省が使っている。
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フランスの科学を支えた人々の系譜を調べていくと、フランスの栄光の原因とその影に気がつく。フランスの科学分野での偉人の多くはグランド・ゼコールの出身者である。このグランド・ゼコールというのが、フランス独特の高等教育制度の大きな特徴のひとつであるが、これは大学と並列して存在する一種の大学院である。先に述べた偉人の多くはこのグランド・ゼコールのうち、パリにある高等師範学校(Ecole normale
superieure)や理工科学校(Ecole polytechnique)の出身者である。この学校に入るには、高校(リセ)を卒業後、バカロレアとよばれる大学入学試験資格試験をパスしたのち、2年間リセの特別クラスで受験勉強をして、はじめてグランド・ゼコールの入学試験を受けることが出来る。この試験にはフランス中の秀才が集まるので、とても難関であることが知られており、古代中国の科挙に相当する競争試験だと言われるぐらいである。
グランド・ゼコールに入ってしまえば、授業料が無料であるばかりか、手当てが支給される。
在学年限は4年で、卒業すれば普通の大学の大学院修士課程を卒業したと同等になる。理系の研究者になるには、さらに大学の大学院博士課程に進んで、博士号をとるのが通例である。
グランド・ゼコールのひとつとして文科系で有名なのは、国立行政学院(Ecole nationale d’adminstration; ENA)である。これは高級官僚を養成する学校で、卒業生は先に述べた理工系のグランド・ゼコール卒業生とともに、フランス政府の行政部門の主要ポストを独占している。
グランド・ゼコールを経由しないで、普通に高校卒業後、大学に入り、大学院に進む人ももちろん多い。しかしこの道をとって、研究者になったとしても、大学の教授になるのは現実的に相当難しいと言われている。ピエール・キュリーとマリー・キュリーがラジュウムの発見でノーベル賞をもらった後でも、なかなかソルボンヌ大学の教授になれなかったのは、彼らがエコール・ノルマルの卒業生でも、エコール・ポリテクニクの出身者でもないことが影響していたと思われる。一方パスツールはエコール・ノルマルを優秀な成績で卒業したので、その後の出世も順調で32歳でリール大学の理学部長になり、35歳で母校のエコール・ノルマルの理学部長になっている。
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フランスの学問の中心地がパリのカルチェラタン地区である。カルチェラタンの中央の丘の上に写真に示したパンテオンがある。このパンテオンの周りにいくつかの有名な高校(リセー)がある。
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上の例が適切かどうか必ずしも明らかではないが、一般的にはどうもグランゼコール卒業生がその後の経歴で有利な位置にあるのは確かなようである。私の教えたことのあるパリ大学の出身者はグランゼコール出ではないので、理学博士を得た後の就職が難しいとこぼしていたこともある。いずれにしても、フランスではかなりの程度の学歴偏重主義が残っているように私には見える。現在フランス全土を覆っている若者の不満の象徴であるストライキなどもこのような事情が背景にあるのだろう。
グランゼコールを出たエリートは激烈な競争試験を通り抜けているだけ、たしかにきわめて優秀な人がいるのは確かで、それによってフランスの政治・学術がリードされてきたかもしれない。しかし、これは明治・大正・昭和はじめまでの時代の日本のようであり、国民の大多数が大学に進学するようになっている現代では、時代遅れの概念だろう。しかしながら、少数精鋭主義と機会均等主義をどう調和させるかは難しい問題である。
私が高校生だったときの岡山朝日高校はたしかにエリート校と言える存在であり、学生も先生もそれなりの誇りを持っていたように思われる。少数精鋭主義の弊害はこのエリート校を卒業した人々が、その学歴だけでその外のルートを通ってきた人々を差別することにある。エリート校を卒業するだけがけして偉いことではないことを自覚する必要がある。すなわち少数精鋭主義と機会均等主義の調和の難しさは、少数精鋭の人々の心のなかにある。エリートは人格も高くなければならないのだが、競争試験はそれを阻む傾向にあるからである。
フランスの少数精鋭主義はもう何世紀も続いてきたシステムであり、これを是正する必要性はこれまでもフランス国内でも論じられている。しかし実際的システムとして学制を改革するのは難しいようだ。これはひとえにこのシステムの弊害がエリートの心の中にあることが認識されていないからではないだろうか。ひるがえって日本の将来のあるべき学制についても、考えるべき点が多々あることはみんな知っているが、まだどうしたらよいのかが分かっていない。学制改革は拙速は厳禁、他国の例を調べながら、あるべき姿を探るべきだと考えている。
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