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中国広東省深センにて、妻と
中国では、中国の人と同じ目線で仕事を続けてきました。 |
平成7年(1995年)に香港へ赴き、中国・大連市開発区の仕事まで11年間が経ちました。昭和28年の卒業ですから、昨年古稀を迎えました。還暦の年から今日まで、海外で現役を続けてこられたのは、ふたつの理由があります。この10余年間は生産工場の中国やヴェトナムなどへの加工基地移転の最盛期だったこと。私の出生のルーツが中国・大連市であることです。
私は昭和9年(1934年)中国・大連市に生まれました。太平洋戦争の勃発した1941年(昭和16年)に小学校へ入学、終戦の1945年(昭和20年)は5年生でした。
歴史を顧みると、日露戦争、旅順の激戦の末の日本の勝利、満州国の建設、大連の日本統治から、急速に人口が増加しました。
私の生まれた頃は36万人でしたが、終戦の時には50万人となりました。満州在留邦人の日本への引き上げの悲話は、本題から離れますので別の機会にし、ただちに香港・中国の回顧抄を思いつくままに述べましょう。
香港:1995年〜2002年
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康怡花園
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私の住んでいた太古駅近くの康怡花園は、ご覧の高層マンションで、ジャスコ・ユニーが駅に隣接し生活には便利でした。3LDKで月の家賃は15,000香港$(15円換算で22万5千円)。大企業の支店長クラスは一般的に3万〜5万$の社宅に住みます。ご存知のように香港は世界一、土地・家賃の高い国(所得水準比較で)です。
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九龍
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写真は私の九龍サイドの事務所があった雑踏街です。私と現地社員4名の小さな貿易公司でした。
ここで、1996年の私の年賀状の抜粋をご一読ください。
※中国・香港の仕事が多くなりました。大連に生まれた私にとって、それは異国での仕事という感覚はありません。「アカシア並木の大連」「香港彌敦道に煌くネオンと雑踏」「ドリームに湧く上海の不夜城」・・・どこへいっても幼時にかえったような素直な自分を見出すのです。おそらく長い間、心の隅に閉じ込めていた「望郷」の想いが開放されたようで、まさに「肌に合う」気持ちです。仕事をこの心境で続けます。・・・※
さて、1997年は、英国の100年間の統治が終わり、中国への回帰の年でした。一国両制度、港人治港の特別行政区となりました。返還の記念日は、現地で歴史の一こまを見ることができました。その後の推移を見るに、国際貿易の拠点としての香港はゆるぎません。WTO加盟後、中国は更にコンプライアンス(法令順守)に沿って国際社会へ自由経済の交流を増進していくことになります。
2001年には、「香港の良心」といわれた、陳方安生(アンソン・チャン)政務長官が辞任しました。彼女は2002年、祖国回帰5周年の折、メディアに答えて明言しています。「香港は中国の一部になるという短絡的な考えではなく、国際的な特徴を維持することで、利益を創造でき、ひいてはそれが中国本土の発展に貢献できる」と。親中派の董健華長官が再選されましたが、2002年の5周年式典で来港した江沢民国家主席は、香港市民の国民意識、民族意識の高まることを強調していました。最後に「香港は永遠に祖国の輝く真珠だ」と延べ、硬軟まじえた演説でした。
当時、香港の失業率は10%近かったと思います。全く対抗馬なく無風下に再選された董氏の力量が問われるわけです。
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香港の二階建て路面電車
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香港には当時27,000人近い日本人が常駐していました。日本人会、県人会、同窓会も盛んで、「岡山県人会」にも多くの朝日高校の同窓生がいます。恐らくみんな私の後輩と思います。地元岡山の中国銀行香港支店が事務局です。私は昭和22年に就職してから今日迄、49年間、繊維業界の特に女性下着の分野に専念してきました。ここ10年来、衣料の縫製、材料などの中国・ヴェトナムなどへの工場海外シフトが加速化しました。私の専門分野がお役に立ってきたのです。
香港は外国からの観光客の収入が、国の収支に大きく寄与しています。日本からの観光客も当時は150〜180万人を推移していたと思います。
また日本との貿易関係も密接です。香港貿易発展局は大阪にも分局があり、日系企業の進出、貿易取引に仲介努力をしています。日本の生産・消費の需要と中国の生産活用の間に香港のフリー・タックス・ゾーンのメリットを生かし、三国間のトライアングルの分業、共生、協働を香港は望んでいます。私の仕事も、小規模ながら、かかる三国間共生の接点となる役割でした。
中国・大連・2000年〜2005年
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旧ヤマトホテル
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2000年頃より私は度々、生まれ故郷の大連を訪れて、仕事の取引先を巡回したり、母校大連大正小学校(現在第48高級中学)を訪問してきました。2003年秋に、女性下着用材料の工貿公司の再構築を委任され、大連市開発区に常駐しました。大連には現在1万社に近い外資系企業が進出しており、うち3,000社ほどが日系といわれています。大は東芝、マブチ、キャノン、ミノルタ、イトキンなど有名企業から、小規模の数人の商社迄、あらゆる業種の企業が進出しています。常駐の外国人は約7,000人、うち半分が日本人といわれています。これは正規の居留ビザをもつ人の数で、実際は、短期(3ヶ月)ビザの人も多数おられると思います。上海の3万人近い居留者に比べて、まだ少ないですが、GDPは、上海の16,000億元に対して、大連は6,250億元の模様です。2003年のGDPは前年対比15%、中国全体の9.1%を大きく越えて活況です。
中国東北部の貿易港として、大連は東北三省、黒龍江省、吉林省、遼寧省の玄関口として、益々発展していくものと思います。
旧ヤマトホテル(現・大連賓館)は中山広場今も健在です。80余年を超えて、歴史の変遷を見守ってきた老固な建物です。美味しい海鮮料理、中国料理の饗庁が中にあります。
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新興住宅街
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家庭電気製品の揃った都市部の中国人家族の夢は、自動車、そしてマンションです。大連周水子国際空港の近くの新興住宅街では3LDKで、30〜35万人民元(¥13.5換算で邦賃400〜480万円)くらいです。広い間取りの新築は、開発区でも50万元〜60万元(670万円〜800万円)日本とのエンゲル係数、所得格差から考えて、やや中国もバブル移行の懸念があります。いま社員の初任給が大連では800元〜1,000元ですから、不動産は上がりぎみと思っています。
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マイカル2号店
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開発区でマイカル2号店が今春開店。大商集団に買収され、マイカルの字体が変わりました。
連日、若い客でにぎわっています。上階層は高級マンションです。前述の価格にあたります。
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大連ワコール
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大連ワコールは開発区で5万平方米の敷地に工場を建設、操業を開始しました。将来のワコールの中国事業の生産拠点となるスケールです。因みに中国のブラジャーの日本への輸出は昨年6,500万枚、年間需要の80%にあたります。
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第48中学の玄関。王琴校長先生と私
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私の母校は大連大正小学校(現第48中学)です。昨年、新校舎が完成し、今はこの玄関もありません。私共の育った校舎は戦後60年間、私共の想い出の原点でした。校舎は廃失しましたが、中日の同窓としての友好は不滅です。
大連では父をはじめ3人の家族が亡くなりました。ビルマ、シベリア、満州から復員した三人の兄もいまは、あの世に旅立ちました。私が大連で働きつづけた歳月を思うとき、亡き家族の温かい見守りの支えを感じます。出来れば、生まれ故郷の大連で働きつづけたいものです。それは、大連で厳しい時代に希望と挫折の苦楽を生きた私の家族への鎮魂の供養でもあるのです。
一度、大連へお越し下さい。五月のアカシヤ祭、星海公園や老虎灘などカラオケ(大連の街から)でも有名ですね。
先般、抗日デモなど懸念もありますが、今の政冷経熱の現状から、政治、経済ともに中日友好の流れになってほしいと思います。