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● 北から南から ● | |
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藤井 洋一 (昭和58年卒) 兵庫県神戸市在住 | |||||||||
1995年1月の阪神・淡路大震災で犠牲になったはるかちゃんという女の子の家に、その年の夏、どこからか種を落とした一輪のひまわりが咲いた。家族や友人たちは花が咲き終わった後に実ったたくさんの種をまき、新しい命を咲かせることで、彼女を、そして震災で失われた6400の御霊を慰めることにしたーというのが花の由来だ。 街の外観を見る限り、神戸で震災の痕跡を探すのはもはや難しい。倒壊した家屋や工場で埋め尽くされていた市街地には、再開発ビルが並ぶ。しかし程度の差こそあれ、震災は今も人々の心に影を落としている。「はるかのひまわり」も花々のすき間に隠れた小さなプレートを見つけないとその由来はわからないが、夏になるとたくさんの子供たちが写生に訪れ、引率の先生は花の意味を説明して10年前の記憶を語り継ぐ。 私が大学入学とともに岡山を離れて、22年となった。学生時代は神戸に下宿し、その後も兵庫県の地元新聞・神戸新聞社に入社したため、姫路や東京に赴任した数年を除けば16年、神戸に住んでいる。全国的に名をとどろかせた博覧会「ポートピア81」をはじめ、異人館や港に象徴されるハイカラなイメージが定着している街だ。ブランド力も高く、食品や洋服、はたまた新設大学まで、「神戸**」と名乗るものは数多い。自らそのイメージに酔っているように見え、市民の一人としていささか鼻白むところもあった。
だが神戸の良さは、むしろ何気ない日常生活の中にある。たとえば「ハイカラ」イメージに全く無縁の下町でも、焼きたての自家製を売るパン屋さんがあちこちにあり、商店街では白髪に美しくパーマをかけしゃれたデザインのフレームの眼鏡をかけたご主人が多かったりする。震災直後は水や食料の調達にリュックサックやナップザック姿の人が列をなして歩いていたが、実用一点張りのものばかりでなく、そんな非常時でも柄やデザインに工夫を凝らしたものを背負っている人が目立った。 六甲山をすぐ背後に控える自然環境も、そのひとつ。山頂まで歩くにはさすがに本格的な装備が必要だが、住宅地から小一時間程度で山あいの広場に出られる登山道は数多く、毎朝、散歩がてらの山歩きに興ずる人も多い。木々の間を歩いてから朝食をとるというのは、なんとゆとりのある暮らしだろう。
だが長年神戸に住み、神戸暮らしを楽しんでいるつもりでも、やはり岡山は懐かしい。実は40年の人生のうち、岡山に住んだのは高校時代を含め5年間だけで、履歴書などに本籍地として書くのは定年退職した両親がいる福山市である。しかし福山での生活体験は盆暮れの里帰り程度。友人を得てさまざまなことを考え、応援団で汗を流した高校時代は、大げさに言えば心の本籍地である。関西弁には完全になじんだつもりだが、たまに高校時代の友人と岡山弁で話すと、脳細胞の眠っていた部分に電気が通じたような感覚に陥る。
むろん、私の場合は百閧ニ違い、岡山まで新幹線で1時間もかからないし、深刻な事情があるわけでもない。年に1回程度しか岡山に立ち寄れないが、これも単に仕事や家の都合でものぐさを決め込んでいるに過ぎない。昨年のホームカミングデーでは久々に母校での時間を堪能した。今年も同窓会総会があるそうなので、ぜひお邪魔したいと思っている。 |