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● 北から南から ● | |
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広坂 敬一 (昭和18年卒) 神奈川県川崎市在住 | ||||||||
戦後のある時期までは、敗戦で、主な工業の再開禁止が長く続いた結果、遅れた技術の急速な回復のために、当時の通産省の主導の下に、各会社が欧米の先進の会社と技術提携と技術導入に力を注いだ時代が長く続き、其の時代を経験された、同期、後輩の方も多いと思うが、私の会社生活の主体が、主に海外になったのも、その影響であるし、正直言って、当時の技術者の中では、海外に派遣されなければ一流ではないと思いがちな風潮の中で、今か今かと自分の番を待つ気持ちがあった。 今は亡き学校の英語の恩師は、私の英語の成績を思い出して苦笑されることと思うが、当時はそんなことはおくびにも出さず、何故会社は俺を選ばないのかと期待しながら、人よりかなり遅れて、実現したのが昭和36年であった。 最初ノルウエイを皮切りに、イギリス、ドイツと周り、その後毎年、ノルウエイ、イギリスに出張して、長い時は2ヶ月以上滞在し、時には1年に3度も訪問滞在した。 当時は私の関係した化学工業関係では、技術提携というと、ドイツ、イギリス、アメリカが中心であったが、当時の社長が極めて進歩的な人で、ふとしたことからノルウエイの技術を知り、この国と積極的に交わり、技術を導入し、機械装置を購入したので、私の第一の海外出張は、ノルウエイに発注した機械の検収と、各国の技術研修のためだった。
ノルウエイの中部にオールスントという人口5万くらいの町がある。 大西洋岸のフィヨルドに面する港町で、美しい景色と、穏やかで知的な人々と、北欧本来の金髪、白皙の美人の多い町だった。 これを機に毎年訪れるようになり、この国でトップクラスの会社の社長夫妻の信頼を得て、果ては未だ独身であった私に社長の秘書の女性と結婚して、彼の会社に勤めてくれと、夫妻して口説かれたこともあったりした。 その後私の会社がアメリカに、工場を作ることになり、そちらに転勤したので、ここで、ノルウエイと縁がなくなるわけだが、後述するイギリスと共に、遅かった私の青春の思い出の地として、今なお記憶が消えさることはない。 2、 イギリス(世界最大の化学会社で各国人と交流) ノルウエイとの付き合いの少し以前に会社は、イギリスの世界最大の化学会社I.C.I 社とウレタン原料の輸入を機に、技術導入がはじまっていて、既に技術研修で同僚の派遣も始まっていた。 ノルウエイ出張を機にI.C.I の短期研修を、ドイツ出張とも兼ねておこなった。 その後提携が進んで、I.C.Iオーガニックディヴィジョンとの間に、硬質ウレタンの合弁会社をつくることになり、その会社の支配人に任命された私は、工場は日本につくられたものの、1年の多くをイギリスのディヴィジョンの本社のあるマンチェスター初め英国国内の得意先のある各都市を訪問したり、その後他のディヴィジョンとの提携もできて、時にはスコットランドまで出張した。 正直言って初めてイギリスに出張した時のイギリスとイギリス人の印象は最低で、所謂イングリッシュウエザーで、年中突然天気が急変して冷たい雨が降ったたり、一見尊大に構えて、見知らぬ人をこ馬鹿にしたような倣岸に見える態度によく腹を立てたものだった。 然し3年4年と付き合いが深く成るにつれ、実はシャイで、心根の優しいイングランドの人々を理解するにつれ、島国で海洋民族で、歴史を重んじ誇りとする国民性が、白人の中で最も日本人に似ているように思え出し、いつの間にか,イギリス贔屓になっていた。 I.C.I はイギリス国内は勿論、世界各地に子会社を持ち、たとえば日本は勿論アジア、アフリカ各地にまで子会社があって、其の関連で世界各地から研修生が多くあつまっていて、会社の持つクラブハウス、委託を受けた民間のプライベイトホテルに世界から集まった研修生が同居していて、昼間はおのおの異なった職場に行くが、夜はテーブルを囲んで食事を取りながら、それぞれのお国振りを発揮して談笑していた。研修当時、ここで多くの人たちと話した経験は後々まで大いに役立った。中にはアフリカの王国の王子もいたりして、是非わが国にも遊びに来てくれ、その時はロールスロイスで飛行場まで迎えに行くからなど言われたりした。 休暇を利用してのイギリス各地の旅行の中では、やはり、シェクスピアの生地ストラッドフォードアポンエイボンを訪れることができたのも思い出深い。合弁会社の仕事も軌道に乗って、スタート当時は世界の水準に大きく遅れていた、わが国の断熱建築の仕様を世界の水準まで引き上げることが出来たのはI.C.I と我が合弁会社の努力に負うところが多いことは、今も誇りにしている。 1973年の8月例年のごとくイギリス出張から帰国した私を待ち構えていたのは、アメリカに駐在して、塩ビフィルム製造販売をする新会社を設立し、その責任者になれという、出張不在時の役員会の決定であった。かくして14年のイギリスにも別れを告げてアメリカに移ることになる。
1973年10月、工場敷地が見つかったら、いったん帰国は不要で、そのまま工場建設に入り、そのまま新会社を主宰せよといわれ、家族は決定次第、そちらに出発させるという、当時の行け進め主義の企業の典型的なスタイルで、その後10年を暮らすことになるアメリカに出発したが、「1年ですか、2年ですか」と問いかけるワイフに、仕事のめどがつくまでという無期限に近い社命と、本当のことも言えず「まあ最低3年は覚悟した方がいいよ」とごまかして、会社に出した私の唯一の条件は、子供のいない一家のことでとて、ワイフと一緒に当時飼っていたワンちゃん2匹と、にゃんチャン1匹をアメリカに送り届けるということのみだった。 1973年は第1次オイルショックの最中で、日本では石油系の化学原料が不足し、石油大国アメリカなら自由に入手できるという甘い考えが、当時軟質塩ビ製品では日本最大のメーカーであった私の会社の、問題解決の窮余の策だった。 然し事前の確たる調査もなく、実はアメリカの方が原料入手は厳しくて、主な原料は統制がしかれており、従来の実績のある加工メーカーのみに割り当て制で売られており、新規の参入者には、特殊の条件下でのみ購入できるというきびしさで、工場建設後までに、問題は解決せず、原料不足の日本から高価で輸入するという異常な事態で、たちまち原料高,製品安で、毎月大赤字に陥った。 異常な原料入手難ながら、オイルショックに因る大不況がアメリカ市場を覆っていて、、塩ビ市場は冷え切り、原料コストの方が市場の製品価格より高いという有様だったからである。それでも、日本の本社は、赤字覚悟で生産を強行せよとの方針をだし、最初の1年で資本金を上回る赤字、2年目には資本金の2倍を上回る赤字となってしまった。ここで私は心のなかで、一生アメリカにいる覚悟をきめて、事態の打開に奔走した。結局2次まで続いたオイルショックが終わり、原料統制も解けて、市場に景気が回復した77年まで、この赤字は続き、眠れぬ日々が続いたのである。 当時はまだ、太平洋戦争の余波が全米各地に残っていて、日本人のスタッフがセールスにゆくと、「俺はジャップから物は買わないよ」といわれたり、英語でしゃべっているのに、「俺は英語しかわからない。日本語でなくて英語で話せ」とかいった嫌がらせは日常茶飯事だった。 それでもあの広い全米を商社に頼ることなく、すべて、直接得意先を求めて、足で稼ぐという方法をとった。商品が塩ビフィルムという工業資材、或いは日常雑貨品の資材であったから、得意先の数は最終商品に比べて、地域も数も比較的に限定されていたとはいえ、膨大な数、アメリカという広い地域で大変であったことは否めない。またプロダクトライアビリティといわれる製品の保証責任がやかましく、すぐ訴訟に訴えるお国柄にもずいぶんと悩まされたものである。 また、工場員は殆どの人種を網羅したような多数民族国家であるアメリカの事ゆえ、大部分はアメリカ人の従業員であるから、労働法規の違い以上に、習慣、人情の違いがあって、工場経営にも苦労したものである。しかし、「我々は誇り高き日本人である。そしてそれ以上に人種の違いを超越するヒューマニズムを信じる」と不合理には一歩も引かず、そして心からアメリカを愛するということに徹した努力が従業員、得意先の方にも次第に理解されるようになり、5年目にやっとわずかな利益をだしてから、回復した景気にも支えられて、ついに累積赤字を一掃し、月々相当な利益を出すに及んで、日経ビジネスにも、対米投資の成功例として取り上げられるようになった。 そして10年の日月が過ぎて、後進に道を譲って帰国することになる。 我々の会社はワシントン州のシアトルの北にある。今でこそイチローの活躍で毎年大勢の日本人が訪れるほど著名になったが、最初はワシントン州と首都ワシントンDC の区別の出来る人は日本人には数えるほどしかいなかった。 商社の人もニューヨーク、ロスアンゼルスからシアトルに転勤させられると、まるで地の果てにでも行かされたかのように嘆いたものだった。 しかし、この州はニックネームをエバーグリーンステート言うほど常緑樹が雨に恵まれて、1年中美しい緑に輝いており、またシアトルはエメラルドシティといわれるほど緑の大地と美しい湖に恵まれ、紺碧の空が清浄な空気に映える世界屈指の美しいまちであり、気候は温暖で、自然は日本にとても似た住みよい町である。桜、富士に似た美しい山々、そして春は日本と同じような草花に恵まれ、秋にはマツタケが群生し、シアトルの沖は瀬戸内海にも似た内海があって、日本に似た魚介類が豊富にとれる。いわば地上の楽園と言った感じで、厳しい仕事の環境も、この自然に接する時、どのような苦労も忘れさせるほどであった。 かくして、第2の故郷のような親しさを覚えるようになって、私の海外遍歴は終わるのである。 多くの人が私に似た経験をお持ちと思うが、振り返って私の卒業後の人生は外交官の思い出にも似て、あまりにも外国に偏っている。 |