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● 北から南から ● | |
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寺岡 可江 (昭和38年卒) 岡山市在住 | ||||||||||||
昭和38年朝日高校を卒業して、早43年。つかの間の40年といった感じで、一体何をして40年経ってしまったのかと不思議なくらい。 朝日高校時代はJRC(青少年赤十字団)に所属し楽しい思い出といえば、先輩に連れられて行った蒜山とか那義山のキャンプ。冷たい湧き水の美味しかった事、そして小鳥のさえずりと美味しい空気。今でもはっきり覚えています。 そして日常はコツコツと点字をうち盲学校に届けた野菊の墓他、いくつかの短編集。当時は街中ではあまり見かける事もなかった点字も、今では新幹線の中でも見かけるくらいお馴染みになってきましたが、時々手で触りながら懐かしく読んでみたりも致します。 高校時代通いなれた相生橋を40年以上も経った今でも毎日渡る日々、桜が満開の後楽園の土手を横目で見ながら、私が高校生だった頃はどれほどの大きさの木だったんだろうか、又、桜が咲いてる景色の記憶もないほど余裕もなく慌てて通学していたのだろうかとも、そして角帽に詰襟の学生が自転車で帰っているのに出くわすと、ふと同級生の顔に見えてハッとしたり、幾つになっても気分は学生と思うこの頃です。
大学を卒業して、2年目で結婚。横浜に10年住んで結局郷里の岡山に帰ってきました。 それから20数年、子育てと仕事に明け暮れ、はっと気付いた時には、両親は既に亡くなり娘達は成人していました。 仕事の始まりは小売業、主人の実家の要請に応じて始めたのが運のつき、始めは熨し掛けも包装の仕方も何も知らない「ずぶの素人」が、20年以上もしてくると、完璧プロになれました。 大型店のテナントとなって入った店も5店舗になり、店回りに明け暮れする毎日。高度成長に乗っかって何も宣伝しなくても、レジに行列が出来るくらいのお客様。有り難過ぎるくらい毎日楽しく仕事をさせていただきました。 そして時代と伴に、流通形態が変わってきた昨今、取引先の大きな問屋の倒産が相次ぎ、そろそろ潮時かと全部店をたたんで新たな出直しを図ったのが5年前。 その間沢山の勉強をさせていただきました。多店舗展開のお蔭でオリジナル商品も企画製造できましたし、細々ながら海外での商品の買い付けも体験できました。
その一方で、子供の頃から、健康に今一自信がなかったこと、又7,8年前には健康を損ねて起きていれないくらい辛い想いをした事もあり、60歳過ぎて今の状態では辛いだけで生きている意味がないとまで思っていましたので、何とか体力があるうちに、健康を取り戻したいと、食生活を始め様々な手技療法を体験したり、学んだりしていました。 そのお蔭で、今では昔に比べて人も驚くほど、随分と元気になれました。そして、細々と、身体に優しい自然食品の小売店、ナチュラルフードレストラン、自分の健康維持のために学んだ東洋医学整体と様々な角度からの接客をさせていただいています。 身の周りに起こる全ての事は気付きのためのメッセージととらえ、何が起ころうとも、人のせいには出来ずひたすら自己責任と思い、対処してまいりました。 怪我をしても有難う、人にだまされても自己責任で有難う、苦しい事も沢山ありました。でもご縁のあった大勢の方々のお蔭で、今日も元気に、楽しく仕事をさせていただき、生かされています。
昨年還暦を迎え愈々人生も終盤、そろそろ、この世を去るときに後悔をしないためにも今生のまとめにかかりましょうと、決心をしたところへ、タイの農民救済の事業に取り組んでおられる方からの仕事のお手伝いを依頼され、役不足ではありましたが、取りあえずお手伝いをということで、農場で収穫した物を加工し日本に輸入して流通する事を始めました。 この流通が軌道に乗れば何千所帯何万人の農民の仕事が確保出来、自立が出来るという事ですが、まだまだ駆け出しの状態で、何処まで出来ますか、これからが正念場です。
また家族の絆は固く、今の我々が学ぶ課題は沢山あり、経済の発展を重視しすぎたために失われてしまった数々の課題を我々日本人に見せてくれます。 |