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● 北から南から ● | |
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瀧本 得幸 (昭和51年卒) 岡山県赤磐市在住 | ||||||||||||||
2005年、3月に赤磐郡内の山陽町・赤坂町・吉井町・そして熊山町の4町が合併し出来た、というより私にとって、隣町瀬戸町が「脱けてしまって」という感の強い赤磐市は、人口45000人余り、面積約200平方キロメートルの岡山市の東に隣接する新しい市です。それに伴い熊山町という名称は消えてしまいました。 岡山市にほど近い割に昔のままの「まち」で私は生まれ、そして今もそこに住んでいます。 昔のままというのは 子供の頃からの呼び名を死ぬまでよばれ、顔かたちも変わらずに加齢できる場所、今や文化人類学か民俗学の教科書の記述にしか残らないような「おとうや」だの「祭り」「小祭り」などの古くからの因習が未だに続いている田舎だから。そんな変化の少ない地域でのんびりと過ごしています。 もし、転居してここで暮らされる同窓生がおられたら、文化施設や商業施設が遠いということをのぞいて、とても快適な自然と、のんびりとした周囲に、きっと満足されるのではないでしょうか。 しかし、それは、「余所者」だから、地元民と違ったことをしても仕方ないという気持ちが作る自由であり、ここで産まれた者は、考えてみると不合理な因習や付き合いに縛られ、それに気付けば、暮らしにくい処でもあります。 私が、朝日高校で学ぶため、この地区を離れ、大学から会社員を経て、ここに帰ってきたことで、私自身は、変わったことをしても周りが納得する「自由」を手に入れ、その上で、昔なじみの「トクちゃん」として、焼き物をして5才の娘と二人で暮らしています。
私の仕事は陶器を作ることです。正確に言えば、ちゃんと使える範囲の陶器を作り、それを売ることです。Potterです。私は、美しいと感じる陶器を作りたいし、使いやすく長持ちする陶器を作りたいと思っています。が、陶器を作る行為を芸術表現として捉えていないし、もともとそちらの勉強をしてきたわけではありません。かといって、技術のみを追求し、職人としての腕を磨いてきたわけでもありません。ですから、この仕事を本業と決めてからも「陶芸家」と称することに躊躇がありました。ましてや、「陶工」だとは、とてもいえません。 しかし、お客さんに自分の作った陶器を売り使って頂く責任から、多くの人の概念である「陶芸家」と自称することを昨年末、決意したところです。 前々回の「北から南から」の山本刀匠が国家資格というわかりやすい形で、刀鍛冶であるのに対し、陶芸家というのは、自称すればいいようです。最近 ネット上の陶芸ファンの間でひとしきり、陶芸家の定義が議論されていました。改めて、陶芸家ってなんだ、と定義を考えると、本当に難しいですねぇ。私自身は、これを本業と決めた時点で税務署に申告する書類に陶芸家と書きました。売れていようがいまいが、それが決意を公にしたことだと思っています。
しかし、会社員を6年間で辞めたあと、田舎に帰り、場所と土と松の木があったので、窯を作っているうちに、いつの間にか、それが仕事となっていました。高校の頃、脱サラして、自然とふれあう暮らしをしている人のドキュメントを見ているとき、母親が言った「あれは大学を出てやっているから、あんなに余裕で出来る。だから、もし、やりたくても、大学は出なきゃいけんよ。」は、しなさい、という意味ではなくて、あくまで、テレビを見ながらの感想だったわけですが、きっかけになってしまい、「本当にそうするとはねぇ。」と、愚痴られました。 ・陶芸家 ! 陶芸家として、何が一番楽しいか、というと、もちろん、窯を作ることです(これは、陶芸家として一般的では無いようです!!)。火がどのように燃え、火道がどのように通るかを考え、煉瓦の積み方を頭の中で考える。そして、全体の構造を概略決めたら、今度は水平方向の一層毎の煉瓦の並べ方を考えます。上下の段との関連を考えて煉瓦を並べる図を描きます。そして、下から上までの全部の煉瓦が、お互いにつながり、力を分散させながらアーチを支え、火を導くように図面がかけて初めて、それに従い、煉瓦を積んでいきます。 私は、設計者である自分と作業人夫である自分を使い分けることにしました。これは、3度の築窯で 疲れた状態で考えつつ作業すると失敗する経験からです。同時にその工程をビデオ収録することで、自分がしていることに対する不安を追い払おう、自分を確認しようとしました。
まだ、完成しきれない状態で、神主さんにお払いをしてもらい、肥松の松明で火を入れたら、ゴーゴーとどんどん炎を焚き口から吸い込んでいったときは感動しました。燃える窯を制御するのは燃えないものを燃やすよりは楽なので、ホッとしました。そして、参考書を見ただけで設計した薪窯が、自分の期待通りのものであったことに安心しました。このときは、禅宗のお坊さんやそこで修行するドイツの方達もお祈りとお祝いに来てくださいました。
・出会い
一方、朝日高校卒業時、仲間と結成した新聞部OB会。絶えるでもなく、発展するでもなく20年近くやっているうちに 先年発行の同窓会名簿{第42号}に部史を書く事になったことから、先輩達と編集にも関わり、ロクロを挽く休憩時間に校正の赤ペンを握る(逆のような気もします)羽目になりました。編集の終わりと、焼き上げたものの個展と同時でした。その後、この同窓会HPから、同期生のHP作りへと移り、そして、卒業以来、会っていなかった懐かしい同級生たちが、遊びに来てくれたのです。 |