桜府港たより
私の住む街
サンフランシスコから北東約140kmに位置するカリフォルニアの州都サクラメントは、日本では「名前を聞いた事がある」程度の知名度ではないでしょうか。あるいはバスケットボール好きな方はNBAのサクラメント・キングスの名前くらいはご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
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カリフォルニア州の議事堂 |
サクラメントはゴールドラッシュから生まれた街です。1848年、アメリカンリバーのほとりで金塊が発見されました。この金塊発見の場所は今では観光地となっています。篩を貸し出しており、川に入って砂金を採らせてもらえます。私も2回ほど訪れましたが、既に欠片も残っていないようで収穫は翌日の筋肉痛だけでした。サクラメントの当時の人口はわずか150人ほどだったそうですが、その翌年からいわゆるゴールドラッシュが始まり、人口は急増し5、6年後には50万人もの人が集まったといわれています。
現在のサクラメント市の人口が約40万人ということを考えると、その当時の変貌振りは想像を絶するものではなかったでしょうか。 私の住むローズビル市はサクラメントカントリーの1都市で、サクラメント市の北東に接しています。当初はいわゆるRailroad Townとして発展したようで、10年程前までは私の働く現工場の周りは見渡す限り原っぱだったと聞いています。今でも敷地内には野ウサギや狸などが駆け回っています。1990年代のサンノゼ・サンフランシスコ地区での不動産高騰の影響で、ローズビルへの人口流入が始まりました。実際ここ4、5年の発展には目を見張るものがあります。あっという間に巨大モールが造られ、その周りに住宅地区が形成され、道路もきちんと整備されるのです。1ヶ月もしない間に全くその姿形を変えてしまう物凄いアメリカのエネルギーを感じる街になっています。
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近くに建築中のモール |
我が家のあるコミュニティ:左から2件目が我が家です。 |
ローズビルは比較的新しい都市で、そのせいか白人の割合が非常に多く全人口の80%にも上っています。恐らくカリフォルニアでは珍しい人種構成となっているのではないでしょうか。日本人は0.7%だそうで、10万人弱の街ですから、それでも700人もの日本人がいることになります。普段はそんなに日本人がいるようには思えないのですが…。 また、ローズビルは地理的にも観光地へのアクセスが便利です。サンフランシスコまで車で2時間程度ですし、映画のロケ地によく使われるレイク・タホ、カジノで有名なリノ、ワインの産地ナパ、ソノマまでは1時間30分ほどで着いてしまいます。ヨセミテも日帰りできる距離です。冬にはスキー場まで車で1時間で行くことができ、日帰りのスキーが楽しめます。 さらに、サクラメントはカリフォルニアの州都でその知事であるシュワルツネッガーも住んでいるわけです。どこそこの店で彼を見たなどという話をよく耳にしますが、私はまだお目にかかったことはありません。
アメリカに降り立った時
さて、これからお話しする私のアメリカ生活はそんな街ローズビルでの話です。出張などでアメリカ各地を回ってみて、その土地土地で全く異なる雰囲気を感じる事もあります。私の感じるアメリカが決してアメリカの代表的な姿ではないということで読み進めていただけたらと思います。ただ矛盾するようですが、このワールドリレーに寄稿されているアメリカ滞在の方々の記事を読ませていただき、結構アメリカに対して感じるツボは同じだなあとも思っています。 私がアメリカに来たのは2000年7月です。まさにカリフォルニアの真っ青な空の下に降り立ちました。サクラメントはいわゆる内陸型の気候で、夏期は毎日晴天が続き、雨はこの時期半年は殆ど降ることはありません。日中は40℃を越えて、直接日光に当たると肌が焼けている感覚が実感できます。逆に朝夜は気温が下がり、非常に過ごしやすくなります。冬は雨季ですが、気温はそんなに下がらず、この辺りで雪が降ることはありません。多くのアメリカ人がこのカリフォルニアの天気にあこがれて移住してくると聞きますが、素直に納得できる気がします。朝早く起きて、思いっきり深呼吸するだけで、すがすがしい気分になれます。最初にサクラメント空港に降り立った時も、そのカリフォルニアの最高の天気が歓迎してくれました。そして、迎えに来てくれた先任者の車に乗って、果てしなく続く(ように思われる)真直ぐな一本道を走った時、とてつもなく大きな国、アメリカを感じました。
アメリカでの仕事
私の赴任は日本での最新LSI製造ラインの立ち上げの経験を買われてのことだと思っています。当時、現工場でも日本企業として初の最先端LSI製造ライン建設の話が進んでいたのですが、工程品質管理の責任者として新ラインを立ち上げることが任務の1つだったわけです。 しかし、2000年末頃から始まった大リセッションは皆さんご存知のとおりで、2001年には状況が一転し、新ラインどころか工場閉鎖の話すら出てきていました。実際この時期殆どの日系の半導体製造ラインは閉鎖され、アメリカから撤退していきました。他の多くの製造と同様、北米で製造する意味、価値が失われていたのです。現在、当社のラインは日系では北米にある最後のLSI製造ライン(前工程)となったと聞いています。 約2年の低迷期から脱したのは2003年上半期からで、多くの改善努力と工夫、そして大きな痛みも伴って、我々は生き残りました(まさにそういう感じです)。私は、従来のラインの品質管理と北米顧客のカスタマーサポートの責任者として、本当に様々なことを経験できたと思っています。月並みですが、間違いなく日本では経験できないことですし、私個人と会社にとっても貴重な財産となったと信じています。 リストラで解雇を言い渡した時、「あなたの立場は良く判るし、自分が今回こうなったのはあなた方のせいじゃない。機会があったら、また働きたいから、是非呼び戻してくれ。今までありがとう。」と握手を求められた時は流石に涙が出そうになりました。4回のリストラはやはり最大の出来事だったことに間違いありません。その後、私の職場から離れていった人達が、別の機会を得て成功しているといった話を耳にすると、本当に良かったと思います。
英語について
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次男:遠足の帰り友人と |
出向する前は、2、3年もすれば英語くらい話せるようになるだろうと思っていました。これは全く甘かったとしか言い様がありません。赴任前には英語の教育も受けてきていたのですが(2000年10月にNHKスペシャルで放映された「英語が会社にやってきた」にもその様子がチラッと出ています)、暫くは会議に出ても何が議論されているのかさえ判りませんでした。実は、4年経った今でも(恥ずかしいのですが)、専門外の話や途中で話の筋が飛んでしまうとついていけなくなる場合がありますし、本当に細かいニュアンスを伝えることは到底及びません。
会話の成立は話相手にもよる所が大きいのですが、日本人の英語に慣れている人と話すと結構議論はできます。彼らが不足部分を補って確認しながら会話を進めてくれるので、ポイントは押さえることができるのです。ところが、もとより真面目に会話をするつもりのない相手(例えば子供)と話すと何を言っているのかさっぱり判りませんし、我々の日本語英語は全く伝わらないのです。私の現住所はMercedes Driveというのですが、住所を聞かれてこのMercedesがまともに伝わったのはこの4年間一度もありません。この点は子供達の言語吸収能力が本当に羨ましいと思います。(子供同士は、全く自然に会話しています。)
アメリカ食生活
確かにこちらにいても日本食材は手に入ります。実際我が家では殆ど毎日日本食を食べていますし、市内にもかなりの日本食レストランはあります。しかし、やはり食材の鮮度や種類には限度があり、日本のような豊かな食生活は望めないのが実態です。日本に帰ったときに何を食べても旨い!と感じるのは私だけはないと思います。今何がしたいと問われれば、「焼き鳥屋で一杯やりたい。」と答えるでしょう。
アメリカ人との味の感じ方にも違いを痛感する事が多々あります。日本人には微妙な味の変化も食の楽しみの1つですが、アメリカ人ははっきりした味を好みます。味が薄いと何でも醤油をかけて食べるといった具合です。特にケーキの甘さなど半端ではありません。日本に何年か住んだことがあり、日本語もペラペラの友人(アメリカ人)がいるのですが、彼に言わせると「日本のケーキはケーキではない。」ということのようです。私にはこちらのケーキこそケーキではなく、殆ど砂糖の塊のように感じるのですが。
パーティー好きのアメリカ人
アメリカ人は本当にパーティー好きです。何かにつけてパーティーを開き、集まります。我が家の場合は子供を通じてのアメリカ人ファミリーとの交流が殆どです。家族同士の付合いとなると数家族でしょうが、それでも毎月のようにパーティーに呼ばれたり、呼んだりしています。
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子供がゲームに熱中するのはどこの国も同じようです |
妻の誕生パーティーにて |
サプライズパーティー、オーバー・ザ・ヒルバースディパーティー(40歳の誕生会)、スーパーボール決勝戦観戦パーティー、ハロウィン、サンクスギビング、クリスマス、ニューイヤー、イースター、そして単なるBBQパーティー、もう理由は何でも良いのかもしれません。
招待してくれる皆さんはとても親切で明るく、日本人の我々に本当に気を遣ってくれるのが判ります。ここで経験したアメリカ人の優しさは生涯忘れる事はないと思います。時に日本の都会で忘れられた他人へのちょっとした思いやりを思い出させてくれる、そんな温かさがあちらこちらに残っているように思えます。 ただ大変残念なのが、やはり英語の問題で思うように会話ができないことです。もう少し話せたらこんなことも話すのに、こんな冗談が言いたいのに、そういった思いをいつも抱いています。妻などはそれでも友達同士で集まってお茶を飲んだり、一緒にコンサートや買物に出掛けたり、料理を教えたりして、アメリカ生活をエンジョイしているようです。そしてそれができるのがアメリカなのだと思います。私もハグによる挨拶にやっと慣れてきました。
最後に
他にも書きたいことが山のようにあります。アメリカ旅行、アメリカの学校・教育、日本人補習校、アメリカの医療システム、ゴルフ、住宅事情、ボランティア等々限りなく出てきますが、今回はこの辺で終わりにしたいと思います。
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カナダへの家族旅行:Lake Louiseにて
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とにかくこちらに来て、日本の良さ、アメリカの良さを改めて認識することができましたし、お互いの悪い点もまた見えてきたような気がします。高々4年で、また半導体製造を通じたごく限られた分野だけのことなのかもしれませんが、私は今、お互いを認め合ってこそ、お互いの真の発展が可能であると確信しています。
また、こちらに来て家族というものをしっかりと考えるようになりました。4歳の時に来た次男は日本語を学ぶ環境が余りありません。家族から吸収するしかないわけで、出来るだけ正しい日本語で、いろいろな表現で話し掛けようなどと考えるようになりました。家族が助け合って生きていく必然が、日本で暮らす時よりもずっと多く、自然と家族の絆が築かれていくことは何よりも宝だと思っています。 最後になりましたが、今回このような機会を与えていただきましたことを心より感謝いたします。文中に至らぬ点があれば、4年間の海外生活で正しい日本語が使えなくなったとお許しいただければ幸いです。
私のメールアドレスは ywatanabe2@earthlink.net です。 何かあればどうぞご遠慮なくご連絡ください。 昭和52年度卒業 渡部 良道
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