● ワールドリレー ●

世界で活躍する同窓生からのメッセージ(敬称略)

久山 純弘 (昭和30年卒) スイス・ジュネーブ在住

国連執務室で(ジュネーブ)

             国 連 と 私

                            Sumihiro KUYAMA


国連を中心とした私の海外生活もいつのまにか30年を越してしまった。

すなわち1970年末に日本を出てから84年半ばまでの14年間はニューヨーク。当初は国連事務局(国連開発計画)で仕事をしたが、約4年後、国連事務局と外務省との人事交流の一環で外務省にスカウトされ、その後の9年間は日本政府国連代表部で外交官としての仕事に従事することとなった(といっても物理的には同じ建物の3階から2階に移っただけ。因みに著名な緒方貞子氏、明石康氏とも国連代表部で仕事を共にした)。

国連代表部における9年間は年中会議に追いまくられる多忙の毎日であったが(例えば複数の会議のための海外出張で、一つの会議から次の会議へ移動のための機内で会議文書を読み、発言案を作成することもあった)、他の主要国と組んで経済・社会分野の重要な問題について2年がかりでコンセンサス決議をまとめ上げたこと等は良き想い出であり、また国連総会主要委員会の一つである第5委員会(行財政問題担当)の議長役を3ヶ月間にわたり務め上げる等、その後の私の人生にとっても色々実りの多い一時期であった。

国連総会で議長を務めた当時(1983年)の筆者(中央)
筆者の右隣(向かって左隣)はデクエヤル国連事務総長(ニューヨーク)


国連代表部における任期満了と機を一にして1984年半ばに国連事務次長補に任命され、同年10月に国連ハビタットの次長としてナイロビ(ケニヤ)に赴任。当初は短期間でニューヨークに戻るつもりであったが、実際には約9年間滞在(ナイロビは海抜1800メートルの高地にあるため、気候的には一年中「真冬のない軽井沢」と形容できる快適な所)。

ハビタットは1976年にヴァンクーヴァー(カナダ)で開催された国連ハビタット会議の結果生まれ、都市を中心とした人間の住環境改善問題を扱う国連機関で、国連代表部勤務時に、同事務局の設置場所を含む機構問題について国連総会の場で審議が行われた際、私が各国の調整役を果たした経緯がある(もっとも後日、私自身がそのハビタットで仕事をすることになるとは当時想像もしなかったが)。

アルプスを背景に

ハビタット時代の9年間はナイロビに本拠を置いていたといえ、資金集めや会議出席のため世界約50カ国を飛び回り、首相・大臣を含む各国の政府高官に会う機会も多かったが、この間の最大の成果は日本の国会議員(同窓の江田五月氏もその一人)の支援を得て世界ハビタット議員連盟なるものを発足させ(1990年には日本政府、国連機関等の協力も得て世界ハビタット議連・東京会議を開催、世界中から多くの国会議員が一堂に会した)、ハビタット問題に対する理解と支援強化のための道筋をつけたことかと思う。
ジュネーブ近郊の山で

以上のようなニューヨーク及びナイロビでの生活に引き続き、1994年に国連総会により現在の職務(国連改革等を担当するいわば特別職で11人の委員により構成)に選出されたため、95年1月からジュネーヴ(スイス)に赴任することとなったが、そのジュネーヴの生活も早9年(昨年末まで4年にわたり委員長。任期は最長10年で私の場合来年末まで)が経過しようとしている。



        ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



朝日高同期の友人たちと(ジュネーブ)



ところで、今年のヨーロッパは記録的猛暑。このためスイス・アルプスでも万年雪が溶け出し登山者、ハイカー等の死傷事故も続出。このような高温が続くとヨーロッパ最高峰のモン・ブラン(白)もモン・ノワール(黒)になる日も遠くないかも知れない。何れにせよ、レマン湖を囲み、モン・ブラン等のアルプスに近接したジュネーヴでも例外ではなく記録的高温が続いている。

アルプスで


私のオフィスは旧国際連盟が使用していたパレ・デ・ナシオンという由緒ある建物の中にあるが、当地の殆どの建物同様冷房がないため、今夏は汗水たらして仕事をする羽目となった(こちらの人間はあまり商売気がないので冷房天国、日本からの冷房設備・機器の輸出促進をお勧めしたい)。

ともあれ、今私は娘の家族とバカンスを共にすべく、フィレンツェ(イタリー)行きの特急列車(冷房車!)の中でペンを執っている。
                     
  ( 2003年8月13日 )


 
岡山朝日高校同窓会公式Webサイト