● 北から南から ●

全国で活躍する同窓生からのメッセージ(敬称略)

芝野 治郎 (昭和34年卒) 沖縄県在住

♪♪ 海の青さに、空の青 ・・・・ 南の風に緑葉の、芭蕉は ・・・ ♪

名桜大学のゼミの学生達と沖縄の海で(右端)

サンゴ礁のまわりを、彩りも鮮やかな熱帯魚が泳ぐ海に、焼けた陽が沈んでいくと、山の稜線と高い木の輪郭がくっきりと夕空に映える。こんな景色を見ると、あー、トロピカルな国に来たんだと感じさせられます。猛スピードで走っている企業生活の列車から飛び移ってきたら、ここは沖縄だった・・・。人生、分らないものだなと思う今日この頃です。


高校の時は、大学は絶対に東京へ行こうと決めていました。幸い早稲田大学に合格し、念願の東京生活は満喫することができました。さらにいつかアメリカへ行ってみたいと思う気持ちが強くなり、英会話の勉強だけはかなり力をいれてやり、英検1級もとりました。大学院(修士)も終り、就職は県庁に決めて3月末岡山に帰ったところ、サンノゼ交換学生の試験があることが分り、4月1日県庁出勤の初日を休んで、試験を受けにいきました。結局サンノゼに1年間行き、州立大学大学院でマーケティングを勉強しました。今度アメリカに来る時は、世界を股にかけて仕事ができるようになってこようと思いながら帰国しました。帰国した時、岡山商科大学で管理会計の教員を求めているとの話しがあり、教鞭をとることにしました。
岡山商科大学の教え子達(芝野会)と首里城で(真中)


しかしこの頃からコンピュータが世の中に出てきて、これからはコンピュータのことが分らないと企業経営の話はできなくなるという危機感を持ち、コンピュータの勉強を一度やらなければいけないと考えるようになりました。当時は殆どの大学にまだコンピュータなどない時代でしたから、コンピュータの勉強をするにはコンピュータ・メーカーへはいるしかないと考え、大学紛争が岡山にも迫ってきたこともあって、大学を一旦辞め、日本アイ・ビー・エムにはいりました。


IBMの中では、大阪で11年、アメリカで2年、東京で12年過ごし、その間33ヶ国訪問し、43回渡航しました。ベルギーで3ヶ月ESRIという研修を受け、ヨーロッパのSE(システムズ・エンジニア)たち40人と一緒に仕事をし、異文化に触れて大変興味深い経験をしたこともあります。アメリカ出向からの帰りはヨーロッパ周りのルートをとり、家族を連れてスペイン、イタリア、ギリシャ、トルコ、エジプトなどを一ヶ月かけて訪問し、文字通り世界1周することができました。
名桜大学卒業式のガウン姿(右端)
左はIBMから転職してきた白井先生



当時、コンピュータを理解するには教科書などないので、メーカーが作成している英語のマニュアルを読むしかありませんでした。日本ではSEがまだ珍しかった時代で、1人前のSEになるには、背丈くらいのマニュアルを読まないといけないといわれたものでした。英語はTOEICで945点をとったこともあり、さして苦にはなりませんでしたが、これもサンノゼ留学のお蔭だったと感謝しています。当時はいまのパソコン業界と同じように毎日新製品のニュースが流れ、2年でコンピュータのスピードが2倍になり、値段が半分になるという時代でした。システムを導入する仕事は2年がかりくらいの作業で、SEの仕事は最新の製品をベースに企業にコンピュータの使い方を伝える伝道師のような仕事だなと思うことがよくありました。


しかし20年くらいすると大企業でのシステム化の仕事は一巡し、新しい分野のマルチメディア事業本部の立ち上げという仕事を手掛けるようになりましたが、ある日名桜大学を設立するので経営情報を教えてくれる先生を派遣して欲しいという依頼がIBMにあり、再び教壇に立つことになりました。
名桜大学のゼミの授業風景

名桜大学は沖縄北部(山原:やんばるという)の名護に初めてできた大学で、日本で最初(1月末)に桜が咲く地域ということにちなんで命名されています。経営情報学科は沖縄に初めてできた学科でした。企業でのコンピュータの使い方を学生達に伝えていくという仕事はIBMでの25年の生活を総括することができ、自分としては丁度よい節目になったと考えています。


ゼミでは毎年1つ企業を選び、その企業の業務のシステム化の提案と簡単なシステムの開発をやらせています。また3年生全員を3週間企業に送り込んで企業生活の体験をさせることも必修としてやっています。3年目に文部省が聞き取り調査にき、翌年、よいことだから全国の大学でもインターンシップという名前で実施するようにという通達を出しました。日本の大学の教育を変える先鞭を、実に名桜大学から発信できたということで、ささやかながら誇りに思っています。2年前から大学院も設立され、現在はその責任者の職を奉じています。
長尾さん(左)と名護城の桜祭り(右)


10年前の沖縄北部では、那覇と違い、情報技術、マルチメディアなど全く知られていませんでした。そこで、情報技術についての啓蒙をすべきだと考え、当時普及し始めたばかりのインターネットを立ち上げることにし、名護市役所、観光協会、オリオンビールなど、主要な役所、企業を巻き込んだインターネットのグループ、「やんばるネット」を立ち上げました。また「マルチメディア・シンポジウム」を開催し、東京から講師を3人呼んで講演してもらったりもしました。


その他名護市の10年計画委員会、金融特区推進委員会など各種委員会に参画したり、中小企業診断士の関係で産業振興公社、金融公庫など国・県の委員会にも参画し、微力ではありますが、地域に貢献しています。一昨年9月、JICA(国際協力センター)の依頼でシリア・ヨルダンの情報化の調査に出掛けました。2週間目に貿易センタービルへのテロが発生し、足止めを食って心配したこともありました。琉球大学の講義(非常勤講師)もあったり、大学の仕事も意外と多忙ですが、時間の許す限り、今後もこのような活動を続けて行きたいと思っています。


子供は1姫、2太郎で、上の娘は既に結婚し孫が3人できて、おじいちゃんになりました。息子は一卵性の双子で、まだ結婚はしていませんが、親としてはそろそろ身を固めてほしいと思っています。

10年前、南の端の沖縄にやってきた時、まさか岡山朝日高の同窓生などいないと思っていたら、実は同じ時期、長尾紀壽さんが沖縄県立芸術大学の染色の教授として赴任していることが分り、驚きました。なんで岡山の人間が南の島で仕事をしているのか、不思議な巡りあわせではありますが、時々会って思い出話しをしたりしています。この後何年になるか分りませんが、せいぜい土地の人たちとの交流も深め、生活も楽しみ、仕事も楽しみ、岡山朝日の卒業生、ここにありとの気概を持って暮らしていきたいと思っています。
 

 
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