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村上 章(昭和46年転出)  大阪府在住
研究者のキャリアパス
京大農学研究科長
および農学部長当時(2019年)
略歴: 1974(昭和49)年 京都大学農学部入学
1980(昭和55)年   京都大学工学研究科修了
1980(昭和55)年  兵庫県庁入庁
1982(昭和57)年  京都大学助手 助教授を経て
1999(平成11)年 岡山大学環境理工学部教授
2009(平成21)年 京都大学農学研究科教授
2019(平成31)年 京都大学農学研究科長および農学部長
2020(令和2)年 京都大学理事・副学長
受賞: 令和4年 日本農学賞および読売農学賞 日本学士院賞
朝日高校:大学への意識


小学4年まで概ね西宮で過ごしたのち、父の転勤に伴い小学6年から岡山市に移り、福浜中学から朝日高校に入学した。受験勉強を終えた喜びもつかの間、角帽、生徒表札とともに三権の長の寄せ書きに代表される伝統校のプライドを与えられ、東大・岡大医学部・京大を初めとする次の受験を高1で早くも意識させられた印象がある。広い敷地、授業カットといった通常の高校にはない特徴に加え、多くの同級生が通塾する競争にやや戸惑いながら、やはり歴史のある高校は違うものだと感じ入った。数学は太田 進先生の塾に通ったが、長机に学年ごとの問題が置いてあり、来た者順にそれを取り各自個別に解答を始めるという案配であった。太田先生はそれを見て回り、すべて正答すれば帰って良いというもので、塾といいながら毎週実力テストのようで特に何か講義を受けることもなかったが、自分の頭で考える癖がついたのは確かだった。
 1学期を過ごしたところで、再び父の転勤にあい2学期には大阪府立豊中高校へ転校した。東大に進む者はなく京大・阪大には多くが進学すると聞いていたが、転校してみると塾に通う者は居らず皆ずいぶんのんびりしていた。朝日高校は大阪に比べれば変わった点の多い学校だったが、豊中の女子制服は地味なジャンパースカートで、女子のセーラー服も含めて懐かしく思われた。


京都大学:学部学生から大学院生


 大学進学にあたり、理系で合格する可能性が少しはあるところといった漠然とした考えで、出願直前で京大農学部を受験先とした。どんな分野があるのかも知らず、合格したらそれから考えようという程度だった。実際、現在の専門分野を高校の時に知らないので、決めようもなかった。ともかく入学すると、朝日高校で同じクラスだった数人を含めて十数名が合格し、再び付き合うことになった。学部(農業工学科)では沢田敏男先生(後の京大総長)の研究室に分属されたが、本来は工学部希望だったこともあり、卒業後は工学研究科修士課程(土木工学専攻)に進学した。土木工学科に研究室は30ほどあり、大した根拠もなくたまたま勧誘された地盤工学系研究室の一つ(赤井浩一先生:後の工学部長)に所属することを決めたが、この選択は私のキャリアを決定づけるものとなった。
 それは私の研究内容やスタイルに大きく影響を与える3名の先生方に出会ったことによる。すなわち、田村 武(当時助手をされ、後に工学研究科教授)、西村直志(当時別の研究室で助手をされ、後に情報学研究科教授)、北原道弘(当時別の研究室の博士課程に在籍され、後に東北大学教授)という数学・力学に長じた先生方である。大学院から他研究科へ進めば元の学部へはno returnであるのが通常のところ、むしろ農学部の大学院に進んでいたら影響を受けた方々に出会うこともなく、農学部の教授に就くことはなかったであろうことが面白い。


京都大学:研究職(30歳台)


 修士課程を修了して博士課程には進まず、兵庫県庁に技術系一般公務員として奉職した。2年ほど現場実務に携わっていた頃、沢田敏男先生の総長就任に伴い後任教授にあたられた長谷川高士先生より助手が空いたので戻ってくるようお話をいただいた。まったく想定していなかったうえ論文もないものの、貴重な機会と考えてお引き受けした。26歳で研究課題を設定するところから始まり、1985年(30歳)に初の論文(国際会議)を発表するなど、研究者として遅咲きであった。その課題は、1960年頃に米国アポロ計画で飛翔体の制御に用いられた「カルマンフィルタ」に、新たに有限要素法などの数値モデルを組み込み、現象の観測値を取り込みながら将来の挙動に関する予測の修正を図るもの(カルマンフィルタによる逆解析)で、当時は文献もほとんど見られない分野であった。
 
  コロラド大学ボルダー校滞在
(1992年:京大農学部助手当時)
その後の研究が進むとともに、他の分野でもカルマンフィルタによる逆解析の論文が出現し始めた。その課題で博士学位を取得した後、アメリカ・コロラド大学ボルダー校に客員研究員として滞在することになり、直前にその高名は承知していたミラノ工科大学のG. Maier教授よりカルマンフィルタによる逆解析に関する論文の送付を依頼され、数篇のコピーを送ってから出発した。行ってみると先方のホストであるP.Shing助教授(現 UCSD教授)がたまたまMaier教授を夏休みに招聘したため、ボルダーで邂逅することになり、後年にはカルマンフィルタによる逆解析の研究を推進し始めたミラノ工科大学へ短期滞在して研究交流が深まった。
 ここで英語について記そう。学位論文を世界に向けて発信したいと考えたので、必須ではなかったが英語で執筆した。PCの英文ワープロソフトが現れた当時で、推敲とプリンタ出力に手間がかかり作成に半年ほどかかったが、おかげでWritingには少し慣れた。Readingは大学・大学院入試で訓練したが、会話は自信がなかった。アメリカ滞在中は耳に入るのが英語だけとなり、耳から入る音の塊をwordに分解する感覚はできたが、知らない単語に出会うと意味に置き換わらないので、それについて前後からの類推を交えて理解しようというものだった。そのため、知らない方面のニュースは音だけしか分からないことになった。もっとも、この感覚も日本へ帰って耳から入るのが日本語主体となると、緩やかに減少した。


岡山大学:異なる研究環境における人との出会い(40歳台)


 
  岡山大学着任当時(2000年)
京大助教授から岡大環境理工学部へ教授に昇任のうえ異動した。朝日高校1年生以来の岡山であり懐かしさもあったが、研究環境は大きく異なり研究遂行計画の見直しを余儀なくされた。異なる研究課題を遂行して軌道に乗った頃、オランダ・デルフト工科大学の博士学生A. Hommelsさんが研究滞在の機会を申し出てきた。日本学術振興会外国人特別研究員に申請したところ採択されたので、半年間岡大に滞在した。この方がもたらしたのは非線形カルマンフィルタによる逆解析であり、ちょうどこの方面の研究が大きく転換する時期であった。折しも大本組に所属していた珠玖隆行氏(現 岡大准教授)から手紙が届き、社会人博士課程への進学を望むものであったので、この研究課題を進展させるべく受け入れた。この方法は気象学など他分野では「データ同化」と呼ばれ、計算機の発達と相俟って研究はもちろん実用化も著しく進んだ。相前後して京大博士課程を修了した藤澤和謙氏(現 京大教授)が助教として加わる一方、データ同化研究を推進していた統計数理研究所の樋口知之所長(現 中央大学教授)・中村和幸氏(現 明治大学教授)との共同研究も始まった。科学研究費も連続して採択され研究は大いに進展を見せた。


再び京都大学:研究の進展と管理職(50歳台以降)


 岡大で10年過ごした頃、京大で在籍した研究分野の教授公募があり、応募を勧められた。京大教授会での投票で採用が決議された日の夕方に岡山から大阪の自宅に戻ると、沢田敏男先生からお電話をいただき、祝意と期待を頂戴した。沢田先生にはこの後も何くれとなくお世話になり、さまざまなお話をした。着任の数年後には藤澤氏も講師として岡大から異動し、大学院生の協力のもと非線形カルマンフィルタによる逆解析はさらに進展を見せて、多くの論文が国際ジャーナルに掲載された。一方、その間に全学委員会部局委員や研究科の管理職を務めるうち、図らずも農学研究科長・農学部長に選出された。並行して地盤工学会、農業農村工学会の会長を務め、両学会に加えて日本農業工学会、土木学会からも逆解析研究に対する授賞に与った。研究科長・学部長の任期と同時に定年退職の予定であったが、総長が交代される時に理事・副学長を拝命して教育研究を免れることになった。
 
日本学士院賞授賞式
井村裕夫日本学士院院長より賞状・賞牌を授かる
(2022年)
 
 
そうしているうちに、学位研究に着手して以降のカルマンフィルタによる逆解析とその応用研究について、農業農村工学・地盤工学の実務にどう運用して、設計施工管理に結びつけるかを主眼とした内容に対し、日本農学賞および読売農学賞を受賞し、さらには日本学士院賞を授かるに至った。このように多くの褒賞に与ったのは、京大・岡大で授賞課題の共同研究に携わられた各位のご支援・ご協力によるものであることは言を俟たない。

 振り返ってみれば、朝日高校で大学での研究につながる勉強の第一歩を始め、自分の頭で考えることを会得するとともに、京大を意識する切っ掛けを与えられた。大学入学以降は多くの優れた方々と出会い、影響や支援を受けながら運も手伝って大学人として大過なく過ごすことができた。まさに、「運鈍根(成功するためには、人や幸運に巡り合うこと(運)、根気のよいこと(根)、ねばり強いこと(鈍)の三つが必要)」であると実感している。お世話になった各位に衷心より感謝申し上げる次第である。