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岡田 茂 (昭和33年卒)  岡山県在住
出 会 い の 数 々
略歴: 昭和33年4月 岡山大学医学部入学  昭和39年3月 岡山大学医学部卒業
昭和39年4月 米陸軍病院にてインターン開始  昭和40年3月 修了 同年5月 医師免許取得
昭和40年4月 岡山大学医学部大学院(病理学専攻)入学 昭和44年3月同大学院修了 医学博士
昭和48年   アメリカ合衆国セントルイス市ワシントン大学血液学教室留学
昭和51年   帰国 倉敷中央病院 京都市立病院勤務
昭和55年8月 京都大学講師(医学部第一病理学講座)
平成 2年4月 岡山大学教授(医学部第一病理学講座)
平成14年1月 ヤンゴン第一医科大学榮譽教授
平成15年4月 岡山大学医学部長 平成17年3月 定年退職 岡山大学名誉教授
平成17年4月〜平成22年3月 学校法人加計学園理事 玉野総合医療専門学校長
平成18年3月〜現在 NPO法人日本・ミャンマー医療人育成支援協会 理事長
平成21年4月〜平成24年3月 岡山大学特命教授(研究)
平成24年7月〜現在 岡山大学病院長特別補佐
平成28年10月 マンダレー医科大学榮譽教授
受賞: 平成24年 岡山県文化賞  平成28年 日本酸化ストレス学会 功労賞
平成30年 瑞宝中綬章   平成31年 山陽新聞賞国際貢献 
学会: 日本鉄バイオサイエンス学会名誉会員 日本癌学会功労会員 日本病理学会功労会員
日本血液学会功労会員 酸化ストレス学会監事
主研究: 鉄代謝 鉄の触媒するフリーラジカル産生と細胞障害・発癌性 人体病理
論文: 人体病理 実験病理 がん病理 鉄代謝 フリーラジカル生物学
ミャンマーの医療事情などに関する論文多数
 人生、どんな出会いがあるか分からない。出会いから人生が変わることだってある。その時に備えて用意しておくことだ。だが、分からないことに対して用意することは、実際には不可能に近い。それでは、どう対処するか。私はどう対処してきただろうか。このことを書いてみたい

 私は1955年(昭和30年)入学の朝日高校第9期生だ。戦中、戦後の貧しく、悲しい時代を過ごし、その後の高度成長期を経た今の日本を未だ信じられない思いで見ている世代の一人だ。幸い私の父はマラリアに罹りやつれた姿ではあったが、過酷なビルマ(現ミャンマー)戦線から無事帰国してくれた。1947年(昭和22年)、私の小学校2年生の夏休みだった。その後、山陽新聞社で職を得て真面目に家族を養ってくれた。お陰で私は上の学校に進むことができた。私の朝日高校入学時の凡その高校進学率は50%、大学進学率10% (現在はそれぞれ96%、60%) だった。入学時には一中からの先生も多くおられ、数学の大倉威夫先生、英語の高木道治先生、日本史の土井卓二先生など思い出深い。校長は原田親先生だった。

1958年朝日高校化学部教室の前で 朝日高校化学部卒業記念写真
 中央白衣は太田常市先生 筆者はその右側  
 高校時代のクラブ活動は同級生に誘われて化学部で過ごした。顧問の太田常市先生は学校の近くに住んでおられ、薬臭い化学室で常に私たちを見守って下さっていた。学園祭では抗結核剤のフェニイルヒドラジンの合成を試みたが失敗。匂いと市販薬で胡麻化したのを覚えている。後任の香西民雄先生は人生について語ってくれた最初の先生だった。両親にはこのように高校時代をのびのびと過ごさせてもらったことを感謝している。学業以外の読書に耽っていても、映画を見に行っても特に小言を言われたことはなかった。その当時見た名画の数々は今でも懐かしく思い出される。夏休みなどは1日も欠かさず、近くの旭川で水泳を楽しんだ。私の早寝早起きという習慣はこの頃から変わっていない。

 朝日高3年生の夏、河合栄治郎(1891-1944)の著書「学生に与う」「国民に愬(うつた)う」に出会った。同級生の父親の本棚に有ったものだ。河合栄治郎は東京帝国大学法科大学を卒業し、中央官庁を経て、同大学経済学部教授、後に学部長となっている。当時の東京帝大は「マルクス主義者にあらずんば人にあらず」の風潮であったが、河合教授は敢然とこれに立ち向かっていた。しかし、右翼、軍国主義がこの世の春を謳歌し、マルクス主義者も次々に転向する時代に入ると、「ファシズム批判(1933年)」「2.26事件批判(1936年)」を引っ提げて、勇敢に軍部に立ち向かったのだ。この戦う自由主義者は1939年(昭和14年)、「平賀粛学」により東大を去らねばならなかったが、その後に執筆されたのが、最初に記した2冊の著書である。いずれも当時発禁となったが、教育者の熱涙溢れるこれらの書は青年たちからは熱狂的に受け容れられたという。彼は不幸にも持病により日本の敗戦直前に亡くなるが、その著書では戦後の日本人の道徳的敗北を常に心配していた。河合に強く惹かれた。私は国立の経済学部への進学を決めた。友人と願書を取り寄せ、送った。

1960年 岡大医学部解剖実習室
医学部生になったことを感じる瞬間  左端が筆者
 ここに第2の出会いがあった。父の一言だ。私が経済学部に進むことを告げると、「経済学部といえば、卒業後は会社務めだろう。お前には会社務めが向いているとは思わない」と。当時の私は無口で、人の前では何も言えない性格だった。それを父は見抜いていた。父は続けて、「幸い岡山には医大(現在の岡大医学部は“医大”が通称だった)という良い学校がある。医者だったら、人前で喋れなくてもやっていけるだろう」と。現在とは異なり、「(病気については)黙って医者の言葉に従う」というのが当時のイメージだった。患者さんに病状を丁寧に説明する医者は少なかった。河合栄治郎を尊敬はしていても、同じような学者になって、堂々と戦える人間になれるとは自分自身とても考えられなかったことも確かだったので、私は納得して父に従った。当時の国立大学入試は、文系も理系も5教科8科目を要求していたので、経済学部から医学部への志望変更は問題なかった。

 大学では人並みに勉強した程度だ。学生運動にはついていけなかったし、ギターの音色が好きでクラブにも入ったが、才能はなかった。同級生であった伴侶を得たのもこの時だ。1964年(昭和39年)に卒業。卒業後は1年間のインターンを経て、医師国家試験を受けることができた。私は米軍病院でのインターンを目指した。東京の立川に空軍病院、神奈川県相模
1965年 相模大野市 在日アメリカ陸軍病院
インターン修了式 筆者は前列右端
大野に陸軍病院、横須賀に海軍病院があった(現在、米軍病院は海軍病院だけが残っている)。英語での選抜試験があり、結構な倍率ではあったが、私は陸軍病院に配属された。英語は幸い朝日高時代の基礎が役立った。会話の教材は「リンガフォン」という英語レコードが唯一のものだった。

 病院内で寝泊まりする生活は結構厳しく、今の「ブラック」以上のものだった。外科系では隔日の当直があり、当直翌日もそのまま勤務であった。産科当直では1人で24人のお産を取り上げたのも今では自慢の種となっている。

この米軍病院で出会ったのが将来にわたり、専攻科目となった「病理学」であった。そこでは疾患の最終診断権は病理医が持っており、私たちをしごいていた外科の医師たちも病理医の前では頭が上がらなかったのだ。もともと「外科」ないし「脳外科」を志望していた私はあっさりと「病理学」に転向した。これも出会い効果だ。

 しかし、岡山に帰り大学院で勉強していて気が付いたことは、基礎医学に属する日本の「病理学」はアメリカの臨床医学に属する「病理学」とは異なるものだ、という事だった。これにはかなり悩まされた。アメリカの医師国家試験に相当するECFMGは既に受かっていたので、何時でもアメリカのレジデンス(病理学を含む臨床医学の専門家コース)に応募することができたが、今更に進路を変えることはためらわれた。しかし、この「病理学」研究で出会ったのが金属の「鉄」であった。

 「鉄」との関連で研究を始めたのは、30歳を越し、1973年にもなっていた。初めてのアメリカでの研究生活に入った年である。しかし、このころはまだぐずぐずしていた。アメリカから帰り、しばらく病院務めをしてから、京都大学で再び鉄の研究を始めた。1982年、ラット、マウスにある種の鉄化合物投与を続けると、90%以上の動物に腎臓がんが発生することを見つけた。鉄化合物によるがんの発生は世界で初めての発見だった。この発がん性はとても奇異に思えたが、その頃までには、鉄化合物の性質、分子構造、鉄の原子構造などの勉強は終えていたので、次の段階である鉄が関与する「フリーラジカルの化学」の研究には比較的スムーズに入っていくことができた。これにはインターンを終え、大学院に入ってしばらくして教室員と一緒に始めた「量子力学」の勉強会が非常に役立った。この当時私は現代物理学の完成度の高さと学問としての美しさに感激しており、是非その神髄を知りたいと思ったからである。私の長男には「理(さとる)」と名前を付けたが、これは「物理学」の「理」であって、「病理学」の「理」ではなかったのだ。毎週、4キロ離れた工学部のキャンパスに教えを乞うて通った日々を懐かしく思い出す。2005年(平成17年)に岡山大学を定年退職するまで、「鉄」は私の終生の研究テーマとして生き延びた。

 そして、「ミャンマー(旧ビルマ)」との出会いである。京都時代の1987年、「ビルマに行ってみないか?」の誘いが濱島義博教授からあった。その当時、京都大学はビルマでのJICA(日本国際協力機構)病院や医学研究所の設立に関わっていたのだ。父を助けてくれた国でもあるビルマには興味があった。約1か月滞在し、その当時の貧しい生活というものを存分味わった。1990年には私は岡山大に帰り、病理学教室を主宰することになったが、同年冬のこのJICA事業の終了セレモニーにも参加する機会も得て、ミャンマーの風土病を近代医学で解明できないだろうか、という気持ちを抱いた。かつてはイギリスの植民地であったミャンマーは軍事政権下にあり、学問は軽視されていた。高等教育は(現在でも)すべて英語で行われていたので、コミュニケーションは特に心配なかった。

ミャンマーにおける「C型肝炎対策」の一環として
大々的な献血キャンペーンを始めた
 岡山大学では鉄から発展したフリーラジカルの医学研究を進める傍らミャンマーとの共同研究のための研究資金獲得に何度も挑戦した。そして、1996年文部科学省から研究費を獲得することに初めて成功した。「サラセミアによる鉄過剰症と肝臓がんの若年者発生」が研究テーマだった。サラセミアは東南アジアのようなマラリアの多い地域に多い遺伝性の貧血症であり、その治療に使う輸血のために、赤血球に含まれる鉄が人の臓器、特に肝臓に蓄積してくる病気である。この鉄蓄積がミャンマーでの肝臓がんの若年者発症に関連するのではないか、というのがテーマであった。日本では当時60歳台が肝臓がん発生のピークであったが、ミャンマーでは40歳台が発生のピークであった。この研究に賛同する多くの研究者と共にミャンマーに毎年足を運ぶようになった。また、貧血に対する輸血に関連して、C型肝炎がミャンマーでは広がっている状況もこの国で初めて確認し、その撲滅キャンペーンのために更に頻繁にミャンマーに足を運ぶことになり、ミャンマーでも多くのの協同研究者を得た。

 2005年、定年退職により教育、研究の生活は終止符をうつことになったが、なおミャンマー医療には貢献できることがあるのではないかと考え、2006年に「日本・ミャンマー医療人育成支援協会」というNPOを立ち上げた。このNPOは岡山大学と協定を結び、ミャンマーから呼び寄せた医療人(医師、歯科医師、看護師、薬剤師、医療検査技師、放射線技師などすべての医療協力者を含む)を3か月から1年間の専門的な再教育をして頂くものである。そのほかに、無医村地区でのお産を介助する補助助産師の現地教育(これまでに100の村でお産介助ができるようになった)、クリニックの寄付(これまでに17か所)、小学校の寄付(3か所)、車いす、超音波診断装置や様々な医療機器の寄付活動を行っている。費用はすべて会員からの会費、一般の人たちや会社、公共団体からの寄付でまかなっている。また、活動には多くのボランティアが参加くださっている。このことにより、優れた日本の医療、医薬品、医療機器の世界的な普及にもつながるのではないか、という思いもあった。

 ミャンマーとの出会いは幸いその後多くの協力者を得て、岡山大学全体の活動にまで発展しており、現在は岡山大学から定期的な研究発表活動、診療活動、学生交流がミャンマーの医学研究所、医科大学との間で行われている。JICAの助けも得て、研究者育成支援、医療機器取り扱いの技術者育成などが継続して行われている。

2019年 エーヤワディー管区チャウンゴン郡区病院 第5期生20人の始業式(筆者は2列目中央)
NPOの活動は ミャンマー医療人の日本における研修以外に 
現地でもクリニックや教育施設の寄贈、准助産師の育成などを行っている


終わりに

 私の小学校の卒業文集に理想の人として「夏目漱石、野口英世、シュヴァイツァー」をあげたが、この3人の誰にも近づけず、追い越せたのは年齢だけだった、という現在、私は高邁な理想を掲げてそれに向かってまっしぐらに進むという理想主義者ではなかったことがよくわかる。むしろ出会いに動かされ、その結果境遇が変わっても置かれた境遇で精一杯頑張ってみる、というタイプであったのであろう。

実際に進んだ方向は最初に向いた方向とはかなりずれたものになっている。私は河合栄治郎のような闘争的な自由主義者にはなれなかったし、父の考えたような医者にもならなかった。鉄に惹かれたのは長い長い時間の遊びがあって、偶然に鉄の持つ他の金属とは異なる性質に目覚めたときであった。その時に見つけた現象を先に進めるだけの知識を持っていたのは幸いだった。

 ミャンマーに真に目覚めたのも、ミャンマー人の親日的な態度、真面目さ、頭の良さを知ってからであり、私のできる医療教育のやり方で、すこしはミャンマーの環境が良くなるだろう、と感じたときからである。そのミャンマー訪問回数も100回が目前となった。単なる出会い以上のものであることは言うまでもない。

 よき出会いを活かせ、それを意味のあるものに仕上げるには、それなりの基礎力が無ければならない。そのためにも皆さんはあらゆることに目を配って、目を配った内容については一つの見識を持つ位に勉強してみることが大切だと思います。「一期一会」の旅へ向かっての出発です。頑張ってください。