戦後まもなくに生まれて、日本が貧しさから復興する時期と並行して育ちました。社会人になってからは「一日24時間働けますか」とモーレツ社員を理想として働きましたが、バブル崩壊といくつかの挫折を経て今は美術館館長として勤務しています。
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体育祭 |
<高校時代>
高校時代は、勉学に励んだ思いがなく、何かぼんやりと過ごしたように思います。クラブは剣道部と絵画部に所属しましたが、それも熱心なクラブ員ではありませんでした。2時限目の授業が終わると「うどん」を食べに走ったことや、漢文の芳原先生のあだ名が「揚子江のタコ」、英語の高塚先生は「ござんす」、同じく安藤先生はなぜか「フランケンシュタイン」ということなどが鮮明に思いだされます。不肖な教え子で諸先生にはお詫びいたします。朝操戦で応援に心を燃やし、体育祭の仮装行列を楽しみ、友達と人生論や文学について語り合った思い出の高校時代でした。
<大学時代>
@学園紛争
一浪して国立島根大学文理学部法学科に入学。桜が美しく咲く中を、寮に入って大学生活を始めました。その後下宿生活に移り、2年生までは比較的真面目に勉学と剣道に励み、クラスではもっぱらコンパの世話役を引き受けるなど平凡な生活を送っていました。
3年時になり学内の雲行きが怪しく、他校と同様に学園紛争の様相を呈してきました。法学科でも今までの政治色の強い自治会代議員に対抗して、私たち一般学生が立候補して入れ替わり私が議長を務めることになりました。私はいわゆるノンポリで、今まで自治会活動や学生運動にもあまり関心がありませんでしたが、一般学生の代表ということで選ばれてしまいました。ちょうど学園紛争が激しさを増す時で「大学の自治」を巡り学生活動家と教授会が対立、授業ボイコットや団交に学内は荒れていきました。松江の牧歌的な大学でしたが学園封鎖となり、その中で学生大会を開きましたが、議論が堂々巡りで結論がでません。この時はつくづく自分の無力と政治的な大きな流れや混乱の中での個人の非力を感じました。
A就職活動と卒業
そういう中でも卒業を目前にして就職活動に動かざるを得ず、大学の封鎖解除の喧騒を横目で見ながら地元の百貨店天満屋に就職しました。私は長男で、両親の面倒を見るのが当たり前と考えていましたし、人生は働くのはどこで何をしても一生懸命働けば同じと考えていました。大学では卒業式は行われず、まもなく卒業証書が自宅に送られてきて淋しい思いがしたのを覚えています。
このように大学時代もろくに勉強せず卒業してしまったことは残念でしたが、ただ時代の流れやその時の問題に無関心で過ごすのでなく、自分にできることに積極的に取り組んだことは自分にとってせめてもの慰めでした。
<天満屋時代>
@入社時の気持ちと配属
天満屋の入社式では新入社員代表として答辞を読み上げ、ケネディ大統領の言葉から「会社が何をしてくれるかではなく、会社と社会に何ができるかを自らに問え」と訴えました。また社会人として「一隅を照らす」をモットーに真摯に仕事に向き合い自分の生きる指針としました。
入社後の配属に際して、希望を聞かれたのでその当時仕事がきついことで敬遠されていた食品売り場を希望しました。天邪鬼かもしれませんが、最初にきつくて厳しいところを経験すれば後は楽になると思ったのと、新社会人としての自負がありました。数年間の食品売り場での体験(グラムいくらの安い商品を懸命に売って売り上げをつくる)が、そののち私の仕事の仕方(どんな仕事にも一生懸命)や身体を動かす行動力・積極性として役立っているように思います。
A美術部門の仕事
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天満屋展覧会 |
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食品のあと本社人事部に配属、数年の経験後に岡山店の美術外販係長に配属となりました。美術品をお客様宅に持ち込んで販売する、言ってみれば美術品専門の外商です。私は人事部からの転出先として、子供服売り場を希望していましたので、美術部門は予想外でした。
しかし日を追ってこれは私にとって天職かもしれないと感じました。というのも私は幼いころから絵を習い、また家では祖母と母がともに茶道教授をするなど身近に茶道具や諸々の美術品がありました。また学生時代から仏像や古美術品に惹かれて各地の展覧会を見て歩くなど、美術品の販売は自分の趣味と言えなくもありません。人生はどこで縁ができ、何がきっかけになるか分からないものだと実感しました。
美術外販係長の時代は、部下ともども実によく動きよく働きました。一日の走行距離は優に300キロを超えることも度々で、岡山県下のみならず県外まで販売活動を広げました。
この時代の想い出に残る仕事は、郷土出身の画家国吉康雄の作品を買いにニューヨークまで行ったことです。国吉は明治に岡山市出石町に生まれ、17歳で渡米後世界的な画家として活躍した郷土の偉人です。その作品がNYの夫人の手元に数点残されており、それを岡山に持ち帰り納めたいと考えました。販売リスクがあるため出張を許可しようとしない上司を説き伏せて、専務に直談判、許可を得て渡米しました。NYのアパート4階の部屋でサラ国吉夫人から3点の作品を受け取りました。その時サラ夫人から「この絵が故郷の岡山に帰り国吉も喜ぶでしょう。私もこのお金でエレベータのあるアパートに替わりひざの痛みから解放されます」と言われ、いい仕事ができたと思いました。今これらの作品は、ベネッセから岡山県立美術館に寄託されて多くの方が鑑賞しています。
B人事部長の時代とその後の仕事
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天満屋美術画廊 |
美術外販係長の後、岡山店人事係長を皮切りに美術品売り場と人事部とをほぼ4年毎に異動し、天満屋生活通算40年のうち食品2年、人事12年、美術26年を経験しました。
岡山店人事部長時代の仕事として、身障者雇用促進と従業員福祉の両面から、社内に従業員の福利厚生施設「リフレッシュルーム」を設置したことを挙げておきたいと思います。
それまで身障者の法定雇用率達成に苦心してきましたが、私は百貨店で立ち仕事から腰痛に苦しむ売場従業員(特に食品売り場など)のために、視覚障がい者によるマッサージルームを開設しました。岡山盲学校や関係機関との調整など苦労はありましたが、視覚障がい者を一名採用して終日無料で施療してもらい従業員から大変喜ばれました。人事時代に心掛けたことは「弱者へのまなざし」を大切に、アルバイトや嘱託、女性の高齢従業員に優しく親切にでした。
その後の天満屋時代の仕事としては、美術画廊の面白い企画として「縁えにし―加山雄三・谷村新司」展を2011年に岡山店と広島店の美術画廊で開催しました。俳優・歌手二人の陶芸作品を中心とした展覧会で、加山雄三さんには京都で染付作品を、谷村新司さんには備前で備前焼をそれぞれオリジナルで制作してもらい販売しました。かねて私は、お二人が京都や備前の作家と親しく、陶芸を趣味として楽しんでおられることを知っていましたのでこれを企画展覧会に仕上げました。多忙なお二人を、それぞれ工房にお連れして制作にあたり、販売する作品にまで仕上げるには、大変な時間と手間暇がかかりましたが、素晴らしいオリジナル作品が出来て展覧会は大成功でした。二人揃っての記者会見も行い、展覧会は天満屋の美術画廊始まって以来のお客様で賑わいました。
この展覧会は最初で最後、どこにもできないであろうと自負しています。
<大病を患う>
ここで大病を患ったことに触れておきます。
43歳の時に初期胃がんで胃の3分の2を摘出しました。定期健診と精密検査で発見されて緊急入院して即手術、仕事は山ほどありましたが否応はない状況でした。当時私は岡山店の美術課長で、日々猛烈に働いていました。時代はバブルの最期を迎える景気の絶頂期で、仕事もするが毎日飲み会が続くある面異常ともいえるような高揚感溢れる時期でした。体力には自信があり、自分でも一番元気に働いていた時期で全く自覚症状はありませんでした。「好事魔多し」の言葉の通り、人は絶頂期にこそ気を引き締めて心しなくてはいけないと思います。入院中に多くの本を読み、それまでの自分を顧みてその後の生き方を考える時間を持てたことは、私にとっては大きな財産となりましたが、健康が人生に最も大切なことは言うまでもありません。
<転機と美術館勤務>
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美術館展覧会場 |
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私に転機が訪れたのは、バブルが崩壊して天満屋が多額の負債に苦しみリストラを始めたことによります。当時私は天満屋営業本部美術統轄の職務を担当していました。ここでは全店の美術画廊の組織をまとめ、全社美術企画を立案実施していました。早期退職を勧告する会社に私は一時退職も考えましたが、美術経験の集大成として学芸員の資格を取ろうと決意しました。通信教育で3年間勉強し資格を取得しました。天満屋での仕事を終わって、帰宅後睡眠時間を削っての勉強は正直大変でした。久しぶりに一生懸命勉強しましたが、学べば学ぶほどいかに自分が無知であるか思い知り謙虚な気持ちになりました。
その後ご縁があって、成羽町長と美術財団からの要請で、会社の了解のもとに成羽美術館に副館長としてお手伝いすることになりました。65歳で退社するまで二足の草鞋を履きましたが、その間には倉敷芸術科学大学の非常勤講師も務めて、学生に「美術商品流通論」を5年間教えるなど、忙しい中にも充実した時を過ごしました。
今思えばピンチがチャンスになり、その縁で又次の道が開かれていったようで常に前向きでなければいけないと実感しています。
<高梁市成羽美術館の仕事>
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流政之先生と |
@美術館はサービス業
公立美術館に民間活力導入を、という時代の要請の中で、私の美術館の仕事は始まりました。既に開館10年を経過していた成羽美術館は、当たり前のように、ある面お役所意識で運営されていました。「美術館はサービス業」、お客様にサービス精神で接するということを徹底するよう努力しました。
館内での案内や監視員の呼称を従来の『監視員』から『サポートスタッフ』に変更しました。お客様に上から目線で接するのではなく、お客様の快適な鑑賞をいかにサポートするかが大切と思ったからです。その他コンピュータによる事務の簡素化、システム会計の導入や館内トイレ設備の改修など、働き手の環境整備なども含めた諸策を実施する中で、私が一番腐心したのは美術館の知名度を上げることでした。
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細川護熙展 |
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A美術館の知名度向上
岡山県北に位置して、交通アクセスも良くないため来館者数も伸び悩み、高梁市成羽美術館(たかはししなりわびじゅつかん)を正しく読んでいただけないことは県外に出ると度々経験していました。そこで年間三つの特別企画展を開催し、動員力のある企画で入館者を増やすことに取り組みました。知名度の高い作家の展覧会を、幅広いジャンルで開催しました。「篠山紀信写真展」「草間彌生展」「相田みつを展」をはじめ、近年開催した「追悼特別展―高倉健」は、初めて美術館に来たという人が多く、大変な賑わいで入館者増に結びつきました。
中でも知名度向上で貢献したのは、元首相の細川護熙氏の陶芸作品を中心とした「細川護熙―数寄の世界展」です。氏の陶芸の並々ならぬ実力を知り、機会があれば展覧会を開催したいと考えていた私は、直接ご本人に会い、岡山と細川家とのご縁の深さなどお話ししながら、ご了解を得て展覧会が出来たことは幸運でした。展覧会には記念講演会として、茶道史評論の第一人者である熊倉功夫氏を依頼しました。またイベントとして、表千家流、裏千家流、遠州流、速水流の茶道各流派に呈茶席をお願いしました。オープニングには細川氏本人によるギャラリートークとサイン会を開催し、ご来館のお客さまにも喜んでいただきました。約一か月という比較的短い会期ではありましたが、多数の入館者で賑わい盛況に終わりました。
このような企画面でも、天満屋時代に様々な作家と交流し、色々な形で展覧会を開催してきた経験が大いに役立ち、今日の私を支えてくれていると感謝の想いです。
今後は美術館の運営を通じて、次世代の育成と地域の活性化に役立つ美術館を目指してさらに努力したいと考えています。
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