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上浦 正義 (昭和35年卒)  奈良県在住
夢を追いかけ60年
略歴: 1965年 神戸大学経営学部卒業・東レ入社 輸出部営業(大阪)
1975年 香港駐在員  1976年 TAL(香港)出向
1981年 東レ国際2部テキスタイル課長(メーカーの直接貿易推進)・
    Penfabric (Malaysia)取締役営業本部長・東レインターナショナル
    取締役繊維部長等を歴任後、1991年 50歳で東レ退社
1992年 東レマーケティング-セールス‐アメリカ社長(東レ復社)・
    東レ繊維貿易部門長・理事・東レ炭素繊維事業部門長取締役を経て
2004年 常務取締役 ・ 2007年 専務取締役 ・ 2009年 引退
2015年 創造美術協会 大阪市立美術館展-油彩画入選 2017年 会員
2018年 最近の筆者
 私は1960年に朝日高を卒業し、挫折の一浪後神戸大学経営学部に入った。4年間自活しながら、部活のESSと勉学に励み、海外雄飛を夢見て東レ(株)に入社。輸出部の営業を皮切りに海外勤務17年、訪問60ケ国、子会社への出向等多くの事業を経験して、2001年取締役炭素繊維事業部門長に成り常務専務を経て、2009年67歳で引退した。
 激動の政治経済環境下で44年ビジネスロマンを追い続けた。将に「色々あったが」人間関係と強運に恵まれ「楽では無いが楽しかった」日々を振り返りながら、「マイウェイ 知りたい!聞きたい!50選」にも言及してみたく思います。
 引退後は20年もの単身生活を穴埋めしたく、奈良で妻と二人で暮らし、国内外旅行や油絵描きと写真撮影を趣味に新しい交友関係を楽しんでいます。しかし社会貢献活動を続けている人々に思いを寄せ、敬意を表する昨今です。

 朝日高3年生は理系進学志望の男子50人の組で、私は京大工学部志望だった。所が小中時代に父母死別の家庭で、長兄が神戸に居た為、進学は神戸で、神戸大なら経営学部と方向転換に成り、自信満々で受験し失敗。岡山の次兄宅には姉妹が世話に成っており、私は長兄社宅でバイトしながら浪人生活を許して貰った。翌年幸いにも特待生入学で授業料免除、高額奨学金を得、友人の倍のバイトで自活生活に入った。そして2度目の同窓会に初参加し、一流大の2回生に成っている親友達に会い、劣等感と屈辱感に絶望的に成った。ここから脱却する為「苟も日新た成れば、日々新たにして、また日に新た成り」を座右の銘にし、海外雄飛の夢を追う決意をした。しかしこの屈辱感から脱却出来たのは40年も後である。

2017年 創造展会員推挙賞
 大学での部活ESSは、朝日高3年の夏休みに下級生を集めてESSを始めた位だったので、(受験準備の最重要期に)即リーダーで活躍。米国人教師にも恵まれ、全日本Debating Contestで準優勝、英検1級優秀賞など取り海外雄飛の基礎力を付けた。
 勉学は専門の経営学は元より会計学、経済法学など真面目にやり、成績は可なり上位だった。理系を諦めた無念さも有り「むしろ鶏頭と成れども牛尾と成る事無かれ」を目標に頑張っていた。
 4年生の春、就活が始まったがメーカーの海外事業で国際的に活躍したいなら「合繊の雄-東レ」が良いとゼミの教授に薦められた。時代は「商業資本から産業資本へ」だったので、私には最適だった。学生はどの分野で働きたいかを決め、社会人に相談して就活をして欲しい。

 1965年東レ入社、全225人の内事務系75人で、新入の海外事業配属は無く輸出部を希望しその営業に配属された。所が「NYLON大不況」で2年間採用中止と為り(4年で1000人も採用後)将来の体力勝負を直感し大阪ラグビー部に入って土日は汗を流した。同期は‘67年扱いに成る為、私は3年遠回りの人生軌道に入った。「絶望と遠回りは、強靭な精神を養う」と20年後に実感した。

 仕事は開始間もないPolyester Double Knitの対米輸出で、超優秀な2年先輩の指導で商品開発と産地拡大に精出し、営業は3年目からだった。4年目に部内結婚、5年目に東南ア初出張中に初娘誕生、6年目から米欧に年2回2ケ月拡売出張し、Men's Knitで大成功したが3年後ブームは去り、中近東からアフリカへ転戦し産地を守った。この時の東西アフリカ8ケ国1ケ月の出張は、チーム4人疑似マラリヤに罹り、人種差別を肌で感じた苦しい経験だった。こんな超多忙な日々、第2子誕生に際し、妻を一人タクシーで病院に行かせ、会議中に病院から男子誕生の電話を受け、非常識を痛感した。

1994年 NY社長時代
 11年目に同期の後任で香港駐在に成り、初日の挨拶で東レ最大の合弁会社TALの副社長(東レ役員)に「夢は出来るだけ早くTALで働きたい、駐在員事務所は10全て訪問済みで出張30ケ国」と語り、半年後に移籍。「この売込み」は私の東レ人生の方向付けをしたと思う。
 TALは香港で英国資本と組み、紡織染縫製一貫のコンチェルンを経営する上海出身資本で、台湾やタイにも工場を保有。東レはPolyester綿を大量供給し'71から資本参加を始め、TALがマレーシアのFree Trade ZoneにPolyester/綿混の一貫生産工場群を建設し欧米に縫製品の大量廉価輸出するプロジェクトに共同出資した。
 '75年操業開始、香港での営業活動が急務に成り、私は'76年TALに移り、香港人が嫌いな中近東に度々出張して実績を上げ、彼らの信認を得た。この間に客との直取引貿易実務K/Hを学び、後に東レの「メーカー直貿」推進力にも成ったが、5年半の内3分の1は家族を香港に残して出張していた。

 '81年大阪に帰り、直貿を始めた国際2部でテキスタイル課を作り、輸出部の商社経由商権を邪魔しない新規商権作りに励み、同期課長や後輩に頭を下げ売らせて貰った。綿紡会社やテキスタイル会社から仕入れ販売をしたのが、次に大いに役立った。
 '85-8ペナンに取締役営業本部長で単身赴任。当時Penfabric社は香港から営業は自立していたが、在庫の山で減産中。9-15にプラザ合意が起り、為替は1年で1$240円が150円に円高、日本の繊維産業は競争力を失いチャンス到来!綿花相場も上昇に転じ、値上げしつつ在庫一掃−増産−黒字化−3年で累損解消−4年目に初配当出来た。この頃日本では3K問題(汚い、危険、きつい仕事は嫌)が起ったが、ペナン他アジアでは土曜出勤、日曜も海外顧客と夕食会の日々だった。この5年間は欧米亜に拡売に行き、グループ3000人の工場経営に精出し企業経営K/Hを学んだが,中高の子供は妻任せで苦労の掛け続けだった。

2006年 Boeing社調印式にて
‘90/8東レインターナショナル(輸出入子会社)の取締役繊維部長で帰任、翌年50歳で東レを退社させられ、東レインタ−の社長に成る決意をした。ところが1年後に東レに復帰し、Tomac‐東レ米国商社‐社長で赴任。将にMy dream has come true ! 3代目社長として「業容拡大、累損解消、給与改善、新支店開設、配当開始」を目標にした。全世界東レG.の北中南米市場の輸出入窓口故に、自ら本部に度々出向き担当G.をNYに呼び込みコラボを組んだ。

 1990年代の米国バブル景気に乗って4年で目標達成出来た。新しい経験では、弁護士との仕事、医療材で大学病院のPHDに何人も接した事、IT関係のラスベガスConventionの規模と仕掛けに驚き、在NY企業VIPの豊富な人材に刺激を受けた。これらはManhattanの職住接近のMansionに住み優秀な秘書を使ってスピーディーに仕事を出来たお陰と思う。

また8月や年末のオフには妻をNYに呼んで、全米各地巡りやNYの文化的生活を楽しんだが、ゴルフは時間不足で人並に出来ず残念だった。

 '98帰国、繊維貿易部門長に就き、又もや大赤字事業をリストラで大改革して、'01/4炭素繊維事業部門長で初の東京勤務、6月の取締役会で常務を目指す決意をした。経営の重要事項は全て常務会で決定と知ったからである。しかし担当部門は又もや在庫の山で赤字。丁度事業化30周年だったので、工場のある日米仏で記念大会を開き顧客に協業計画を訴え、景気上昇に乗って行った。
2008年 Boeing社B787の1号機
 1年半で在庫一掃し黒字化、増設計画中に米Boeing社から驚異的計画到来。次期大型機の構造材の半分を炭素繊維(アルミより軽くて強い素材)にするDreamLinerB787で、'04年に新素材のスペックインが内定し米英連合の競合に勝ち、長期大量供給基本契約に調印、'06年に16年間で売上7,000億円の受注に成功した。
 交渉は難交を極めた‐B社の生産増産計画に沿った東レの新供給体制構築‐日米での大増設と低コスト実現‐単一価格要求に対し変動価格(長期の経済変動下故)の説得等で、その陣頭に立ったが実現出来たのは日米技術陣の実力そのものだった。しかし現実は厳しく、B社の完成と増産が遅れ、我々は新工場立ち上げと転売に苦しんだが、炭素繊維は「先端材料の東レ」を担う最も重要な基幹素材に育った。
 その最中'05に直腸癌手術で20日間入院したが「執念こそが明日を拓く」の精神で乗り切った。また一般産業用途が大きく伸び始め、顧客を創造し維持拡大に努めて、日欧米の3極で継続的増設を実現し、炭素繊維事業の売り上げは4倍に成り、東レの中核的事業に育った。'08年には「素材は未来を変える」とIR活動を行い、日米経済フォーラムでパネリストやCNN他TVで「夢の炭素繊維」を語った事もある。

 以上、我が成功物語的に成ったが、与えられた仕事は最悪時期が多く、更に悪く成らない時に、技術陣と強いコラボを組んで事に当たって上手く行った結果と思う。生産-技術-研究-工務に対し敬意を持って接し、技術革新を信じ「水平線の彼方を何処まで見えるか」と自問自答しながら前進し続けたのが良かったと信じている。


 さて、最後になったが「マイウェイ 知りたい!聞きたい!50選」質問群の一つに私見を述べたい。

 学生は「特技」を磨き「学ぶ力」を身に着けて就活に臨み、社会人に成った初日に認識すべきは、今迄はお金を払っていたから自由度が高かったが、今日からはお金を貰う為、会社に縛られ競争社会の中で働き、好きな職場に付け無いのはそこに選ばれて無いからである。学者、政治家、弁護士、医者などの高度スペシャリストは別格で、官民ともに大組織に入ればジェネラリストでスタートし、スペシャリストに成長するが、効率良い組織はピラミッド型故、大会社は子会社群を作り優勝劣敗組に分けて行く。
 どちらに属そうとそこのトップ層はスペシャリストでないと務まらない。この構造が嫌なら独立すれば良いが、自由は高くつき成功確率も低い。制約はあるが組織をバックに大きい仕事をするのも悪くない。仕事に報われなかった人には私生活を満喫した人が多く、総合的にどちらが幸せかは個人の価値観如何だろう。会社生活では、自分の30代が40代を支え、40代の実力が50代に開花するが、50歳を超えると運が50%以上に成る様だ。若い時の切磋琢磨が重要で、楽しい私生活との両立は難しく、他人の苦労は余り見えない。又その間、上司先輩と議論は大いにすべきだが、論争は損する事が多い。矢張り「目線は高く、頭は低く、心は広く」が大切です。
 最後にリーダーに一言。「4の5の(しのごの)言わず、1,2,3、慌てず急げ!」問題解決には多くの課題を挙げるが、先ず1,2,3、から解決すれば4,5、は1,2、に成る。欧米の高い生産性はスピード経営に寄る所が大きいと体験した。IQと同時にEQ(感情調整能力)が大切で、人間はAIには負けないと思う。

 読書:精読派で、各ジャンルの名作と歴史関係中心
    一冊上げれば「明治という国家」司馬遼太郎 日本放送出版協会