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久山 純弘 (昭和30年卒)  東京都在住
国連を中心とした人生
略歴 : 東京大学教養学部教養学科卒業 上智大学国際学部大学院修了
経済企画庁・UNDP(国連開発計画)等を経て日本政府国連代表部(1975-1984.8)
(その間、国連総会第五委員会議長、国連行財政諮問委員会メンバー等を兼任)
国連事務次長補(国連Habitat事務次長)(1984.9-1993)
国連システム行政監察機構(JIU)(1995-2004)
国連大学客員教授(2005-2008)等を経て現在日本国連協会その他の理事
国連諸活動等への貢献により外務大臣賞(2005)
瑞宝中綬章(2015 春の叙勲)
 確か中学3年か高1の夏休み、将来の仕事について官僚になることも一つの可能性かと考えたことがありますが、官僚は基本的に国益擁護のための仕事だから、それよりも国際社会全体のこと、世界益を念頭に置いた仕事の方が意義があるんじゃないか、………これが私の国連との関わりの原点です。

1.UNDP―初めての海外生活

 大学卒業後、若干の回り道もしましたが、経済企画庁を経て1970年末から子供時代から望んでいた国連、具体的にはUNDP(国連開発計画)のニューヨーク本部で仕事をすることとなりました。しかし私にとってはこれが初めての海外生活であったこともあり、当初は多少のカルチャー・ショックも手伝ってか、毎朝オフィス(個室)に配達される日本の新聞に従来なかった親しさを覚え、また始終顔を合わせる同僚の ”How are you today ? “, “How's everything ?”, 更にまた週明けともなればご丁寧に “How was your weekend ?” 等の少なくとも当時の日本の習慣にはなく不必要とも思われる挨拶に、正直なところ多少うんざりすることもないではなかった。

 他方仕事の方は地域局を経て、やがてプログラム政策局でUNDP資金の被援助国別配分の基準作りという重要な仕事を担当することとなった。当時まだ若く血気盛りの私は英国人の上司と右基準に関して、やや大げさにいえば日夜議論を重ねた結果、漸く一定の方式について管理理事会の承認を取り付けるに至ったことは今なお懐かしく想い出される。ところで、この頃たまたま外務省と国連事務局の一部職員との間の人事交流(明石康氏はその第一号)の話があり、私もその一環としてUNDPから外務省(日本政府国連代表部)へ、と云っても物理的には同じ建物の3階から2階へ移ることとなった。

2.国連代表部―実り多き外交官生活

 1975年8月から満9年にわたる国連代表部での外交官生活は、私自身のキャリアの上でも極めて実り多かった。代表部では当初経済班の書記官として多くの委員会・理事会関連の仕事のほか、国連の機構改革問題等々を幅広く担当した。このことは現実には文字通り一年中会議に追いまくられることを意味したが、同時に大いにエンジョイもした(因みにこの間、緒方貞子氏も公使として代表部に赴任され、例えばメキシコで開催されたユニセフ理事会で、彼女は議長、私は日本代表という場面もあった)。
国連総会で議長を務めた当時(1983年)の筆者(中央)
筆者の右隣(向かって左隣)はデクエヤル国連事務総長(ニューヨーク)

 代表部時代の後半は、明石氏の国連への復帰に伴い、行財政班に移り(参事官に昇格)、ACABQ という委員会のメンバーをも引き継いだが、これとは別に私にとって最も勉強になり貴重な経験ともなったのは、国連の行財政問題を扱う国連総会第五委員会の副議長(1982年)に引き続き、翌83年の国連総会で同委議長に選出されたことである。第五委員会は総会の中でも最も忙しい委員会で、3ヶ月の間ほとんど毎日朝から晩まで(しばしば夜11時迄のナイトセッションの開催も余儀なくされた)壇上に座って議事進行に努めるという肉体的にもかなり厳しいものであったが、3ヶ月もの間議長をしていると心の和む思いも何度か経験することが出来た。例えば平素あまりお世辞をいうことのないACABQ委員長から、公式の大きな昼食会の挨拶の中で「今年はさすが日本の議長でマネージメントに長けている」といったお褒めの言葉をもらったこと、またある日のこと、米国代表(大使)と[米国と政治的に対立している]キューバの代表が、特定の事項に関し同時に発言を求めた際、議事の円滑な運営を企るため、米国ではなくキューバに発言の機会を与えることにより事態を丸く収め得たが、これに関し会議終了後ある国の代表が「今日の手裁きは米国の友人である日本の議長が採った態度としては勇気があり、極めて立派であった」と評価してくれたこと等。

3.国連ハビタット(Habitat)の事務次長として

 国連代表部における任期満了に伴い、また事務局側からの強い要請もあり、14年間に及ぶニューヨーク生活を終えて、1984年10月に在ケニア(ナイロビ)の「ハビタット」という比較的若い国連機関の事務次長として着任することとなった(因みに国連ハビタットの創設は1976年にカナダで開催された人間の居住環境・開発に関する国連会議に基づくものだが、同会議自体では機構問題・事務局の設置場所等に関して具体的な決定を行うことが出来ず、その後2年にわたる国連総会等での協議を経て1978年末に漸く決着をみたもので、その間、私は国連代表部で担当官として右協議に加わり、最終的に国連総会で本件のまとめ役を務めた経緯もあったものの、将来まさか自分自身がナイロビへ赴任することになろうとは当時想像もしていなかった)。

 ところで私の赴任を待ち受けていたのは、資金増強の必要性を含め、ハビタット活動に対する支援体制の強化・拡充という任務で、従って私としては早い機会に主要国(政府、関連基金等)へのミッションを計画、実行した(具体的には、米国とカナダについては既に赴任前に済ませていたので、1985年2月からヨーロッパ諸国。次いで3月中旬から中東・アジア諸国等を精力的に回った)。この様に張り切っての幕上げとなったハビタット生活ではあったが、早急な成果は必ずしも期待通りには得られず、ややフラストレイトしていた頃、偶々ナイロビで世界婦人会議が開かれ、代表団の中にいわば助け船ともいうべき中西珠子(参議院議員)という方がおられた。即ち同氏のご尽力で国連ハビタット支援議員連盟なるものが1986年にまず日本で発足することとなり、これを契機に多くの国で同様の議員連盟が生まれたのを受けて、1990年9月には東京で、総理大臣、外務大臣、都知事、JICA総裁等の出席も得て、「居住環境と開発に関する世界国会議員会議」(海外から多くの閣僚・国会議長等が参加、司会は当時まだキャスターであった小池現都知事、私自身が事実上の事務局)なるものを開催することが出来た。東京会議の成果は「東京宣言」という形で1992年にリオで開催の「地球サミット」へ向けての一つの貴重なインプットとして引き継がれ、今や広く一般にも知られ、国際的に重視されているSDGs (2015年に国連で採択された持続可能な開発目標)のベースである「サステイナビリテイー」 (sustainability) 概念の下で生かされていることを嬉しく思う。

4.国連システム行政監察機構(JIU)の議長職等
国連執務室で(ジュネーブ)

 以上のキャリアを踏まえ、1995年から国連システム行政監察機構 (JIU) に所属することとなった。

 これは国連総会の選出による、換言すれば国連総会の委任に基づくいわば特別職で(日本人としては私が第1号、オフィスはスイスのジュネーブ、 任期は最大限10年)、その職責の主要点を一言で云えば、行政監察プロセス(評価その他)を経て国連改革、具体的には国連諸機関活動の効果・効率性を高めるための諸改革等についての具体的な提言を含む報告書を作成することにあるが(因みに私の場合、1995 年に最初に作成した報告書は「紛争予防のための国連システム能力の強化」という内容であったが、この問題は国連のグテレス新事務総長としても今なお国連にとっての最優先課題としていることもあり、私としてもこの問題に関し何か事務総長に対する側面支援でも出来ればということで、有志とともに研究会の立上げ等を含め、必要な作業を進めているところです)、ここで重要なのは、報告書を受けた国連総会等の議決機関、或いは事務局長(総長)は報告書に盛り込まれた提言内容について公式に審議、或いは検討し、これを然るべく実行する義務を負うといったシステムであり、これにより国連活動の実効性等の高揚(改善)も期待されることになるわけです。

 私はこういったシステムの構築を含め、結局2004年末まで10年間JIUにいましたが、色々な意味でエンジョイしたし、結構有意義な仕事が出来たと考えています。

5.国連大学客員教授等

約35年にわたる海外での国連生活を終えて2005年春に帰国後は、これまでのいわば雑学を多少整理、磨き直すという意味もあって、国際大学、国際基督教大学等で国連関係の講義を行ったほか、国連大学には客員教授として4、5年在籍し、国連改革に関する本(”Envisioning reform: Enhancing UN accountability in the 21st century”) を出版することもでき満足しています。

6.より良い世界構築のためのグローバル人材育成

 長年にわたり内外で国連関係の仕事に従事してきた者として、その知見を生かすべく、このところ標記の課題にも関わっている。即ち、

(1)アナン元国連事務総長等の強力な支援の下、2009年に創設されたOne Young World (OYW)という次世代のグローバル・リーダー育成のための世界最大組織の運営への関与(具体的にはOYW日本委員会の主要メンバー)。OYW は2010 年のロンドン・サミットを皮切りに、これまでに世界各地で毎年サミットを開催し、毎回190カ国以上から1,000人を超える若者に加え、現世代のリーダー達の参加も得て、より良い世界の構築のために何をなすべきか等についてアイデイア・経験等を分かち合いながら活発な議論を行うとともに、サミット終了後は参加者がその成果を自分の国に持ち帰り、情報の共有、成果の活用強化等に努めている。因みに、日本からの参加は既に100人を超えており、今後はOYWサミットの日本への誘致も視野に入れて、本組織の国際的・国内的インパクトを一層高めるべく色々検討を行っているところです(この面での岡山大学との協力体制も既に整っています)。

(2)OYWとは別に、私を含む国連OB/OG会として、本年から文科省の指定するSGH (Super Global Highschool。これは国際社会の直面する諸課題に対する関心と深い教養、コミュニケーション・問題解決力等を身につけた将来のグローバル・リーダーを高校段階から育成することを目的としている) を対象に新たな活動を開始している。因みにSGHには現在全国から123校が指定され(残念ながら岡山朝日高はその中に入っていない)、昨年11月には全国SGHフォーラムが横浜で開催され、私も出席しました。

 SGH に関しては、岡山からも既に岡山城東高、岡山操山高、岡山学芸館高が指定高となっているところ、岡山朝日高としても、上記の目的に鑑み指定高を目指すべきと考えます。