明治18年(1885)3月はじめ、角帽を制帽とすることについて、学生の有志が、東京大学総理加藤弘之に伺書を出し、大学予備門の生徒にも同じ帽子をかぶらせたらいかがなものかと、大学予備門長杉浦重剛にも伺書を提出した。数日後の3月9日に、不同意の者には強いて勧めないことを条件に、伺いの趣が聴き届けられた。こうして制帽としての角帽が登場する。19年4月の中学校令によって、大学予備門は第一高等中学校となったが、その5月20日には、予備門制定の角帽を「当校ノ正帽」とすることを決めている。ところが、9月15日になると、角形を丸形に改める。が、実際のところ、角帽を所持するものがおびただしいので、凡そ1年を期して漸次丸帽に改めていくことにしている。
本校が角帽をもって制帽としたのは、明治20年(1887)4月。したがって、その時既に第一高等中学校では角帽の廃止が決まっていたことになる。当時の文部大臣森有礼は、師範学校生を軍隊式に教育することに情熱を傾け、生徒にも教師にも制服の着用を強制したから、岡山県でも制服制定の動きが盛んとなった。本校では、どのような制服・制帽にするかを、組織されて間もない尚志会(校友会、現代の生徒会にあたる)に任せてしまった。尚志会の幹事たちが、多くの議論のあとで選定したのは、尋常中学校では例をみない角帽。頂が菱形で、それを水色の細線で縁取り、頭を囲う胴部には同じ色の横線二筋を巻いた、現在からみるとなかなか派手なものであった。中学生の角帽が変だというような感覚は、もちろん尚志会の幹事にはなかった。幹事の一人が、のちに「英国の大学から日本の大学へ伝はつた」、「日本では二番目の」、と書いているので、彼らには帝大と第一高等中学校の制帽のことだけが意識されていたようである。尚志会設立の中心人物たちは、21年に卒業(8名)したが、うち3名が最難関の第一高等中学校を受験し、皆が合格した。彼らに取っては、憧れの角帽だったのである。
尚志会の幹事は知らなかったことだが、本校が角帽を採用した明治20年には、豊津中学校の生徒も角帽をかぶった。旧藩主がケンブリッジ大学に留学し、留学中に買い求めた帽子を模したものを全校生徒に下賜したのだという。本校とはまったく対蹠的な制帽決定の経緯である。旧藩主が経費の一部を負担したがために、尋常中学校として生き残ったという学校であり、時の校長は旧藩校の教授。次の校長も、その次の校長も母校出身者であり、他校出身者が校長となったのは、ようやく昭和10年(1935)。その次の校長も母校出身者であった。旧藩主と地元との関係が変わらないならば、そして角帽で育ったり、角帽に憧れた者が校長であるかぎり、角帽廃止の声はあがるまい。
岐阜中学は明治21年に、鳥取中学は23年に、香川中学は29年に、米子中学は32年に、それぞれ角帽を採択している。この中で本校の影響が歴然としているのは米子中学の場合である。創立時は、校長を含めて僅か5人の教員のうち4人までが、本校と校地を同じくした岡山県尋常師範学校の縁故者であったというから、中学をつくるならば角帽をと、彼らが思っていたとしても、不思議ではない。しかし、どの中学でも、校長の一存でなった角帽は、校長の更迭があれば、風前の灯火となった。
本校の角帽についても、二度は廃止の声があがったようだが、それに耐えることができた。一度目は服部綾雄校長のころである。そのときまでに、本校は角帽の中学として、既に全国的にその名を馳せていたようであるから、廃止を求める教師の声はかき消された。
ところで『烏城』には、他校の生徒の角帽姿が二度登場する。最初は明治33年(1900)10月の修学旅行の折りのこと。四十曲峠から米子に向かった本校生徒は、溝口を過ぎて出迎えの島根県第二中学校(米子中学)生徒と挨拶をした。彼らは「四角帽子に白筋の帯なる制帽」をかぶっていた。「我の校長が、例のフェアー、エンド、スクェアーをば彼の校長に話し給ひし折、彼の校長は、白筋の帽子を端正、正直に象り給ひし由話されぬ。成る程成る程と我は此の上なく感じぬ」、と書いているのは佐藤富三郎であろうか。「彼の校長」とは、かつて岡山県尋常師範学校の教諭であった石橋朗、「我の校長」とは服部綾雄のことで、彼は〃角帽は fair and square をあらわす〃と、つねづね生徒にはなしていたという。この〃公明正大〃は、角帽を採択した時の尚志会幹事たちの念頭にはなく、服部校長が角帽の意義を新たに付与したとみるべきであろう。それにしても、二人の校長のこのやりとりは、旧制中学の角帽史で、特筆すべき情景であったと言ってよかろう。
いま一度は、大正6年(1917)の修学旅行の、奈良より伊勢へ行く途次。一身田駅での僅かな停車時間でのことである。
私等が此の駅に着いた時、すれ違いの汽車に四角帽の中学生を見とめた。「おや」癪だな天下の名校岡山中学の塁を犯すなんて、併しそこは同帽相哀むで、「君等は何処ですか」向ふからも「君等は」と来る。福岡の豊津中学だそうだ、汽笛の音に別れを告げる、十年の知己を送るの感ありだ(久安博忠)。
大正10年(1921)には、岡山二中も角帽を採用した。噂では、創立時の武居魁助校長は丸帽にしたいと考えたが、当時の父兄たちに、「丸帽だったら子供を二中に入れない」といわれて、やむなく角帽にしたというのである。ということで、昭和16年(1941)4月から、全国画一的に中等学校の制帽が戦闘帽となった時に、角帽をかぶれなくなったのは、全国で岡山一中・岡山二中と豊津中学の新入生だけであった。制度の変更で、彼らは4年で卒業させられたから、角帽とは無縁におわった。戦いが終わると、生徒たちは無理算段して角帽を手に入れた。そこでまだ在学していた昭和17年の入学生からあとは、角帽で通学する機会に恵まれたのである。
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