平成16年11月20日(土)母校創立130周年記念「秋のイベント」を開催

放 談 会
「戦中・戦後の青春時代 熱き血潮の想い出は今もなお・・」

パネリストから学校生活の思い出etc….


武村 幸子
(昭和16年岡山県第二岡山高等女学校卒・第一期生)

 二女第一期入学(昭11)第一期卒(昭16)、日支事変は始まっていましたが、まだそんなに戦時色がなく、楽しく明るい女学校生活でした。
 女子師範の校舎の一部に間借りし、先生方も殆どが兼務の方々でしたが、女師が教育者の育成の教育と異なり、二女は良妻賢母の育成という教育目標の故か、優しく朗らかで品位などを重んじた教育だったように思います。
 八十歳を越えて、なお年に何度か集まり、少女時代を懐かしみますが、いつになってもあの頃の気風が老婆の中に残っています。恩師の大方が他界され、今更のように時の流れを感じます。


桑原 美津子
(昭和23年岡山県第二岡山高等女学校卒)

 満州事変に生まれ、第2次世界大戦中、小、中を過し、戦後混乱期にアプレゲールと言われ過した、動乱の学校生活でした。
 しかし、その中に、はるか遠去かる日々、青春はたしかにありました。


榎並 英子
(昭和25年岡山県立岡山朝日高等学校卒)

 二女へは、総合学区制で入学しましたので、入試は一女(現在の操山高校)で受験、1学年50名でした。
 戦争中は勤労奉仕で芳田村に行き、田植、稲刈、麦まき、麦刈をしました。6月の麦刈の最中、米軍B29の水島爆撃にあい、田んぼの中を逃げまどった思い出があります。
 戦後は、180度転換、民主主義、自由主義を教わりました。校舎は焼けて、番町の教育会館や城北女子商業の校舎など仮住まい、新しい校舎が焼跡にでき、オールナイトでクリスマスを楽しんだこともあります。
 新制高校になり第二女子高校、朝日高校と変わりました。


武居 俊郎
(昭和18年岡山県第一岡山中学校卒)

 母   校 (alma mater 慈母)
 角   帽 校風のfair and squareを表象
 制   服 七つ釦 夏の上衣は黒、ズボンは白
 学校制度 昭和19年まで岡山全県のみならず他県からも入学可能
 成績評価 甲 乙 丙 丁  罰則 うどん屋に入っても謹慎処分
 学校教練 配属将校は陸軍大佐(他校は尉官クラス)
 英語教育 太平洋戦争中も英語の授業はしっかり行われた。


谷本 貞人
(昭和20年・4年岡山県第一岡山中学校卒)

 昭和16年4月入学、12月に太平洋戦争始まる、5年制度で入学したが、3年2ヶ月しか授業はできなかった。
 学徒動員で軍需工場へ通う(今のチボリ公園)。
 動員のまま卒業、3ヶ月後空襲で校舎全焼、不幸な時代だったが、幸い立派な先生方と級友にめぐまれ、今に至る。


谷 義仁
(昭和25年岡山県立岡山朝日高等学校卒)

 国民学校(当時は小学校をそう言っていた)の先生にすすめられて受験したら岡山一中に合格していたということでした。受かってなかったら百姓になって町会議員位にはなっていたかなぁ。
 昭和20年6月29日、学校がまる焼けになった日にも登校しました。8月15日には敗戦です。中学2年生の時です。いろいろな事が走馬燈のように思い出されますが、一言では言えません。本気で勉強していたのかどうかも解りません。時の流れの中で左翼めいた思想に向かった事もありましたが、中途半端で終わりました。兄弟が6人の長男でしたので、両親には大変な苦労をかけたと思います。結果として朝日高第一期生ですが、130年の歴史の重みに耐えかねているように思います。


 
  岡山朝日高校同窓会公式Webサイト