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 薄田 泣菫 (明治26年・岡山県尋常中学2年で退学)

 <略 歴>
 明治10年  岡山県浅口郡大江連島村で、5月19日、父篤太郎、母里津の長男として生まれた。本名は薄田淳介。
 明治24年  9月岡山県尋常中学校に入学。 
 明治26年  中学2年で中退する。同志社を志して入洛。 
 明治27年  17歳で上京。
 明治30年  20歳の時、文芸雑誌に長短13編の詩を発表、高い評価を得た。この時から泣菫の号を用いる。

 明治32年  22歳で最初の詩集『暮笛集』を出版。
 明治38年  秋に「ああ大和にしあらましかば」を発表。名詩中の名詩とされた。
 明治39年  詩集『白羊宮』を発表
 大正元年  8月大阪毎日新聞社に入社。
 大正05年  随想集『茶話』を発表。
 大正12年  健康を害して毎日新聞社を退社。パーキンソン病と闘いながら創作活動を続ける。
 昭和20年  連島へ帰り、68歳の生涯を閉じる。
 

 

 

薄田泣菫について

 明治10年(1877年)5月19日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町)で、薄田篤太郎、里津の長男として生れました。 薄田家は、代々文学を好む人が多く、泣菫も読書好きの大変優秀な少年で、連島高等小学校の当時から雑誌に詩文を投稿していました。父は村役場の書記で、俳諧を 趣味としていました。

 玉島高等小学校を経て、岡山県尋常中学校(後に第一岡山中学校。現在の県立岡山朝日高校)を中退。明治27年(1894年)に上京し、上野書籍館に通いながら独学 で学びました。明治30年(1897年)帰郷すると、いくつか詩を作り「新著月刊」に投稿しました。それは、後藤宙外、島村抱月らに絶賛され たといわれています。

 翌年第一詩集『暮笛集』を刊行、「小天地」を編集しながら「明星」などに詩を載せ、『ゆく春』『白羊宮』など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村、土井晩翠後の明治後期の詩壇を背負って立 ちました。

 明治32年(1899年)、22歳にして、最初の詩集『暮笛集』を出版して以来、明治34年『ゆく春』、明治38年(1905年)には『志ら玉姫』をはじめ、「公孫樹下に立ちて」の詩篇を収めた『二十五絃』を刊行し、島崎藤村後の第一人者として、明治詩壇の頂点を極め ました。

 この年の秋に発表した「ああ大和にしあらましかば」は、名詩中の名詩とされ、多くの若者に親しまれました。明治39年(1906年)の詩集『白羊宮』は、円熟期を迎えた泣菫の総てを集成したもので、この後、徐々に活動の場を詩から散文へ移していったが、新体詩(文語定型詩)を発展させたことが泣菫の大きな業績である といえます。

 明治の終わりごろから一時、小説に興味を移したり、随筆も書き、詩作を離れました。国民新聞社、帝国新聞社に勤めた後、 大正元年(1912年)、大阪毎日新聞社に入社しました。大正4年(1915年)、「茶話」の連載が開始されました。博識のうえ、話術も巧みだった泣菫の作品は、多くの読者を魅了し ました。また、芥川龍之介、菊池寛などの新進作家を積極的に発掘し、文学界の発展にも貢献しました。

 大正6年(1917年)、パーキンソン病 を発症、体を動かすことが不自由になり、大正12年(1923年)新聞社を退社しましたが、口述したものを夫人が筆記して随筆を書き続けました。その後、次第に症状が重くなり、昭和20年(1945年)、少年時代を過ごした連島の実家に帰り、68歳の生涯を閉じました。


薄田泣菫生家について■

 泣菫が少年時代の多感な時を過ごした倉敷市連島町連島の生家は、現在は泣菫 の詩集や自筆の書などを展示し、一般に公開されています。小高い山の麓の静かな所に生家があります。

 建物は、江戸末期から明治始めの頃のものといわれていて、庭に泣菫ゆかりのタラヨウの木、キンモクセイ、エンジュ、竹などが、裏庭には御所柿、夏みかんなどの果樹が植えられています。 また屋敷内に、泣菫自筆の「大和にしあらましかば」の詩碑(備前焼の陶板)があります。

 生家は、老朽化が進んでいたので、地元住民の保存運動が起こり、それを受けて市が整備し、2003年7月に開館しました。

生家入り口の案内図

自筆の掛け軸 良い天気の日には障子を開けている
展示の様子 屏風 泣菫自筆の「大和にしあらましかば」の詩碑

 生家には泣菫の写真などの他、芥川龍之介 島崎藤村 北原白秋 武者小路実篤 菊池寛 志賀直哉 谷崎潤一郎 与謝野鉄幹・晶子など大勢の有名人の書簡が展示されています。また、RSKが放映した「ふるさとの人物風土記・薄田泣菫」のビデオを見ることも出来ます。他にも、愛用した机・本箱・レコードケースなども展示されています。

  薄田泣菫生家
  ・場所     〒712-8011 岡山県倉敷市連島町連島1284  Tel 086-446-4830‎
  ・開館時間   9:00〜16:30
  ・休館日    月曜日、祝日、年末年始
  ・料金     無料
  ・交通     JR倉敷駅からバス20分 (大江バス停下車5分)


薄田泣菫の碑について■

  • 倉敷市連島町厄神社境内 「ああ、大和にしあらましかば」 詩碑
    昭和27年、三宅千秋(連島町長)、松枝喬(倉敷市議)、服部忠志(岡山一中教師)の三氏が中心となって薄田泣菫詩碑建立会が設立され、昭和29年11月23日、野田宇太郎氏、堀口大学氏ほか、全国の詩人、文化人の協力を得て、厄神社境内に詩碑が建立されました。発起人は、土井晩翠氏、高浜虚子氏、日夏耿之介氏、西条八十氏、久保田万太郎氏、川田順氏、松村緑氏など、そうそうたる顔ぶれが並びました。

    詩碑は、六枚の乱れ屏風の形で構成されています。泣菫の詩集「白羊宮」に載せられている代表作「ああ、大和にしあらましかば」が、直筆の原稿から版を採った伊部焼(備前焼)に、刻まれています。詩碑の中央からやや左手に、黒色の石で作られた「筆塚」があり、その地下には、泣菫が生前使っていた筆が納められています。
     

    厄神社 詩碑の説明 「ああ、大和にしあらましかば」 詩碑

    <ああ、大和にしあらましかば>より
         ああ、大和にしあらましかば、
         今神無月、
         うは葉散り透く神無備の森の小路を、
         あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよへ、
         斑鳩へ。平群のおほ野高草の
         黄金の海とゆらゆる日、
         塵居の窓のうは白み日ざしの淡に、
         いにし代の珍の御経の黄金文字、
         百済緒琴に、斎ひ瓮に、彩画の壁に
         見ぞ恍くる柱がくれのたたずまひ、
         常花かざす芸の宮、斎殿深に、
         焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折
         美酒の甕のまよはしに、
         さこそは酔はめ。

     

  • 津山市井口長法寺 「公孫樹下にたちて」 詩碑
    明治34年(1901年)津山を訪れ滞在した時に、長法寺の大イチョウを歌った詩<公孫樹下にたちて>の詩碑が大イチョウの下に建ってい ます。
     

    公孫樹の木の元にたつ詩碑 銘木百選の大公孫樹 案内板

    <公孫樹下にたちて>の一部
     銀杏よ、汝常盤樹の 神のめぐみの緑葉を、霜に誇るにくらべては、いかに自然の健児ぞや。
     われら願はく狗児の 乳のしたゝりに媚ぶる如、心よわくも平和の 小さき名をば呼ばざらむ。
     絶ゆる隙なきたゝかひに、馴れし心の驕りこそ、ながき吾世のながらへの栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。

  井口長法寺通称、あじさい寺)
  ・場所    〒708-0885 岡山県津山市井口246 Tel 0868-22-6436‎
  ・駐車場   有り(無料)
  ・交通    JR
津山駅から車約10分、またはJR津山口駅から徒歩約5

 

  • 大阪市中央区上本町 東平北公園内 「金剛山の歌」 文学碑
    「金剛山の歌」は、明治36年『新小説』に発表した作品で、谷町八丁目にある本長寺に仮寓していた頃、毎朝早く起きて付近を散歩し、華やかな朝日を浴びて金色に輝く葛城山嶺に感動して歌ったものです。東平北公園のあたりは、その頃散歩した場所と思われます。

    <金剛山の歌>より
     あゝわが丈よ五千尺、脚は下なる野を踏みて、頭は高く雲に入る、そのかみ闇のとろゝぎの、
     二に別れたる初めより、山と聳ゆる大悦を、自然よ、君に捧ぐると、今歳この春若やぎて、どよみわたりぬ金剛山。

     

■取材協力のお礼■

 薄田泣菫生家を取材させていただくにあたり、大変快く、撮影を許可していただきました。ありがとうございました。



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