● 同窓会のいろいろな資料や報告書類 ●
先 輩 た ち の 足 跡 を 訪 ね て

大賀 一郎 (明治34年卒)

<略 歴>
明治16年  賀陽郡庭瀬村大字川入に生まれる。 
明治29年  岡山県岡山尋常中学校に入学。 
明治33年  内村鑑三の主宰した『東京独立雑誌』を読み始める。 
明治35年  岡山基督教会で宣教師ペギー師により受洗入会する。 
        9月、第一高等学校二部に入学。 
明治38年  同校卒業。一高・東大時代、内村鑑三宅に聖書の講義を聴きに通う。 
明治42年  東京帝国大学理科植物科を卒業 卒業論文「アサガオの細胞学的研究」。 
        大学院入学、植物細胞学専攻、研究「蓮の授精現象について」。 
明治43年  第八高等学校に赴任 妻「うた」と結婚(媒酌人は内村鑑三夫妻)。 
大正06年  南満州鉄道会社社員(教育研究所勤務)として 大連に赴任。 
        南満州フランテンで、古蓮実を採集・研究。 
大正12年  アメリカ留学 フランテンの古蓮実(約500年以上前)の発芽に成功。 
大正14年  渡欧・大英博物館で、古い蓮の実の発芽実験に従事。 
大正15年  大連に帰り、奉天専門学校教授に就任。 
昭和02年  「南満州フランテン産の生存古蓮実の研究」で、理学博士の称号を受ける。 
昭和06年  妻うたが、「すみれ図譜」を出版。 
昭和07年  満鉄を退職。 
昭和25年  二千年蓮の発芽に成功、この株は後に枯れた。 
昭和26年  再度種子を千葉・検見川厚生農場にて発掘・発芽。 
        当麻寺の当麻曼荼羅が、綴織であることを『国華』誌上に発表。
昭和27年  二千年蓮の開花
昭和28年  ハンブルグ市に空輸・開花、「自由なるハンザ同盟市ハンブルグ名誉賞」受賞
昭和35年  犬養木堂の碑「話せばわかる」に、揮毫、筆跡が残る 
昭和40年  6月15日 東大病院で逝去   墓所 岡山市北区川入字小西


大賀一郎博士について
 

東大阪市日下町の古代ハス(S40卒丸尾さん撮影)

 岡山中学を明治34年に卒業した大先輩、「大賀ハス」「二千年ハス」で、有名な植物細胞学者です。

 明治16年岡山県賀陽郡庭瀬村大字川入に生まれました。東京帝国大学理科植物科を卒業後、大学院を経て、第八高等学校より教育者としての経歴がスタートします。

 併せて、研究者としては、大学院より「蓮の授精・発芽」の研究が始まり、南満州・アメリカ・ヨーロッパを経て、昭和27年、千葉での「二千年ハスの開花」として、結実しました。

 千葉市にある東京大学検見川厚生農場(現東京大学総合運動場)で、慶応義塾大学の調査団によって丸木舟を3隻と、オール6本が発掘され、ここは「縄文時代の船だまり」であると推測されました。

 大賀博士は、地元の花園中学校の生徒たちと共に遺跡を発掘調査したところ、泥炭層からハスの実1個を発掘しました。その後、2個のハスの実も発掘し、合計3粒の種が発見されました。

 大賀博士は、それらの年代を明確にするため、それらをシカゴ大学へ送って、年代分析・鑑定を依頼し、 その結果、それらが弥生時代(約2000年前)のものであることが判明しました。

 しかし、発見した3粒のうち、2粒の発芽は失敗に終わりましたが、残りの1粒が発芽に成功しました。1952年(昭和27)7月18日、見事な花(古代ハス)が咲きました。その後、千葉市弁天池に移植し、4〜5本が開花しました。昭和29年には、千葉県天然記念物に指定されました。

 現在では、各地にその種や苗が移植され、子孫が美しい花を咲かせてくれています。(主な栽培地については、後述します)
 

生まれ故郷に咲く大賀ハス 庭瀬城趾の説明板

 博士の教育・研究活動には、常に平和を意識した行動が伴い、生まれ故郷の庭瀬城の堀に浮かぶ「大賀ハス」の横には、「蓮は平和の象徴なり」という博士の言葉を紹介した説明看板が建ちます。

 また、ご自身が書かれた文章にも、「昭和3年6月4日に起こった張作霖の爆死や、昭和6年9月18日に起こった柳條溝事件を親しく目撃した私はこれを快く思わなかったので翌7年3月末職を辞して東京に帰った』(『烏城』106号(昭25))(原文は縦書き漢数字)の一節があります。

 そうした平和への意識や行動は、岡山中学時代に内村鑑三の主宰した『東京独立雑誌』を読み始め、後に直接薫陶を受けたことからのようです。私生活は恬淡であったとのことですが、師や多くの弟子仲間との交流は、貪婪に続けられました。

津山科学教育博物館での紹介
創設者、森本慶三氏が同じ内村門下であることが縁で、同館の顧問となった。

  28歳のとき内村鑑三夫妻の紹介・媒酌で塩尻うたと結婚。満州時代、夫婦で植物を各地に採集、植物分布などを調べ、その後夫人は「すみれ図譜」を出版しました。

在りし日の大賀博士 と ご夫婦の墓碑銘


■大賀ハスの発見■

  香西民雄 (在職昭和31・4〜平成3・3)  <<大賀一郎 −蓮は平和の象徴なり−>>抜粋
     
(岡山朝日高等学校同窓資料館叢書『私たちの先輩』より)


 昭和25年、68歳の老博士は千葉市にある東京大学の検見川厚生農場の管理人高野忠興を訪ねて、「ここを掘れば蓮の実がでる」と、発掘を依頼する。一面識もない老人の唐突な願いに高野は驚いたが、『しかしながらどうも博士の言動には、何かみすて難いものがあることを感じた。この老貧学究が生きるのも苦しいこの時世に、何を好んで、子供の遊びのようなことをしているのか、なぜ、そんなばかげたことにむきになっているのか。話をきいているうちに分かってきた。何千年と眠ってきた蓮の生命をよみがえらすことに明るい望みを託し、夢を抱いておられるということがだんだんと分かって来た。そういえば、生きる希望や夢こそは、正に当時の世間に最も欠けていたところのものである。』(『学士会会報』1965-V No.688) と感じて、発掘の協力者となった。

 この農場では、戦時中は泥炭採掘の事業がはじめられていた。泥炭は四角なレンガぐらいの大きさに切って。乾し上げて運びやすくし、貨車で東京に運び、練炭・豆炭の材料にしたり肥料にしたりした。そのため農場のいたる所で発掘の跡が沼になっていた。その中から丸木舟が出土する。これはカーボンテストで2500年前のものと決定される。丸木舟と一緒に蓮の実がいっぱいあった。昭和25年春、大賀博士はその中の一粒の発芽に成功したが、それは世話を任された子供が不注意で枯らしてしまった。それ以降博士はその時の実を探すが一粒も見つからなかったので、発掘を決意するのである。

 発掘には高野氏と共に、農場の埋め立てをしていた穂積建設事務所の氏家氏も一肌脱ぐことになる。さしあたって発掘に必要な資金6万円を集めなければならない。高野氏は『千葉新聞』の加瀬編集長、教育庁の平野氏、太田徳蔵教育庁(大正15年卒、大賀博士と同郷)を訪ね、交付金を受けることに成功した。

 発掘は穂積組によって26年3月3日から始まった。期間は一週間の予定であったが、工事は難渋した。掘り上げた土を特別の篩にかけて指頭大の蓮の実を見付ける作業である。その作業は地元の花園中学校(発掘当時は七中)の生徒の協力によった。資金は不足し、三月の終わりが近づいても見つからない。いよいよ30日を以って打ち切ることにしたその夕方、西野という女生徒が一粒の蓮の実を発見するのである。その時の様子を博士のメモから再現しておこう。

検見川草炭地より古蓮実の発見

一、場所 千葉市旭が丘町東大検見川農場
一、日時 三月三十日十七時十分頃
一、出土層 図示(表土二尺、その下草炭十三尺、その下に丸木舟あり、その下の一尺の青層より)
一、三月三日発掘開始より雨天引きつづき仕事全く進歩せず、予定の日時を経過すること約三週間に及ぶ
一、三月二十七日 草炭層の下底に達す
     二十八日 全日大雨
     二十九日 全日ポンプにて排水
     三十日  午前中排水 青泥層現わる 夕刻黒土を経て黄砂面に達す
一、状況
  この日発掘は穂積建設の近藤組が担当した/午後より市立七中、畑小学校の校長以下先生、生徒四十名が青泥のふるい作業に従事した。/夕刻に至り作業を終えるころ遂に七中の女生徒西野真理子さんが四週間以来地下数尺の所に探し求めてきた約十五世紀乃至二十五世紀前のものと考えられる古蓮実を探しあてた。

                           昭和二十六年三月三十一日  大賀一郎

 この発見は県の太田教育長のもとに報告され、作業は続行、4月6日更に二箇の実がふるい出された。
 5月上旬、最初に発見された一つが発芽した。その年、千葉県農事試験場に移し、翌年4月根分けして土地の素封家伊原家へあずけた。8月18日に見事な淡紅色の花を開く。その前夜はニュースカメラマンが泊まり込み、微速度撮影の準備もととのえた。皆な徹夜であるから、農村の醤油屋は火事場のような騒ぎとなった。三木淳の撮った美しいカラー写真も、ライフ誌に1ページ大で、紹介された。

 この蓮は、28年、ハンブルグ市の国際園芸博覧会の依頼によって、その蓮根が空輸され、八月開花し、博覧会随一の呼びものとなった。これにより博士はハンブルグ市より『自由なるハンザ同盟市ハンブルグ名誉賞」を受けた。
 

   

朝日高校所蔵の著書より


■大賀ハスの主な栽培地■

 新聞報道によると、後楽園の大賀ハスが多種との交雑が進み、純粋種ではないハスが増加し、病気も蔓延したため、撤去することになりました。そのため、2009年の観蓮節には、見ることが出来 ませんでした。残念に思われた方も多いようですが、来年には純粋種が復活するそうです。そこで、県内や近県の主な大賀ハスの栽培地を紹介いたします。

 ◇庭瀬城掘・・・・岡山市北区庭瀬 

庭瀬城址周囲の堀には「大賀ハス]が丸い容器の中にうえられており、時期 がくるとみごとな花を咲かせます。

 ◇荒神谷遺跡・・・島根県簸川郡斐川町大字神庭

ここの二千年ハスは、大賀博士が島根県大田市へ贈られたものを1988年(昭和63年)4月、大田市 から譲り受けたものです
二千年ハスの種は、博士の研究では二千年前のものと推定されていましたが最近アメリカの原子力研究所による放射性炭素の測定から三千年前のものだと言う説も出ています。
1965(昭和40年)6月15日、博士は81歳でなくなられまししたが
亡くなられたその日に島根県大田市の二千年ハスが初めて花を開きました

 ◇千葉公園・・・・・千葉市中央区弁天

前述しましたが、昭和26年3月、千葉検見川東京大学グランド地下より発見された蓮の実 が開花し、その種が最初に移植された地です。ここから世界各地にも送られ、友好親善を深めているそうです。HPはこちら

 ◇古代蓮の里・・・・埼玉県行田市

行田蓮は大賀ハスの発見の後21年目に発見されましたが、地中深く眠っていた多くの種が自然発芽し、一斉に開花したそうです。
大賀一郎博士が原始的な蓮として命名した「原始蓮」のほか、41種類の花蓮が咲き誇っていますHPはこちら

 ◇本福寺・・・・・・兵庫県淡路市

世界的に有名な建築家、安藤忠雄氏が設計したお寺で、本堂の上に楕円形の池があり、そこに2千年蓮として有名な大賀ハスをはじめ、赤や黄色のスイレンが植えてあります。

 ◇獨鈷山 鏑射寺・・神戸市北区

境内の池には大賀一郎が縄文遺跡で発見した大賀ハスが育てられています。

 ◇対泉院・・・・・・青森県八戸市

千葉県千葉市検見川の落合遺跡で発掘された古代ハス(大賀ハス)から根分け移植した古代ハスが 育てられています。 

 ◇田丸城址内堀・・・三重県玉城町

大賀博士から寄贈された苗を、田丸城築城670年を記念して、
田丸城跡内堀に植えられたそうです。大賀ハスだけの蓮池は珍しいということです。

 ◇岐阜県羽島市桑原町の「大賀ハス園」

羽島市は、古くから蓮根の生産地であることから、市制25周年にあたる昭和54年の記念事業として、千葉市より「大賀ハス」の種を譲り受けて増やし「大賀ハス園」を開いています。

 ◇上富田町田中神社横 大賀ハス田

和歌山県上富田町岡、県指定天然記念物「田中神社の森」近くのハス田で、大賀ハスが 栽培されています。栽培管理をする「大賀ハスを守る会」もあるそうです。

 ◇滋賀県野洲市歴史民俗博物館の「弥生の森歴史公園

88年のオープンの際、鳥取県農業試験場から大賀ハスの種を譲り受けたそうです。HPはこちら



庭瀬城掘に咲く「大賀ハス」

 

 



荒神谷遺跡公園(S47卒 則安(小出)資子さん撮影)

 

 



荒神谷遺跡公園

 

 

■大賀博士に関連するエトセトラ■

大賀博士に関する資料を一覧出来る記念館などは、岡山にはないようです。そこで、点在する大賀博士に関係する様々なものを、ご紹介いたします。

 ◇大賀博士の墓(東京)・・・・府中市多磨町四丁目 多磨霊園 20区1種33側 
 ◇大賀博士の墓(岡山)・・・・岡山市北区大字川入字小西(川入372番地近く) 顕彰碑も近くにあります

岡山市北区大字川入の大賀家墓所 顕彰碑

 ◇津山科学教育博物館(岡山県津山市)・・・・・大賀博士が顧問をされていた博物館 HPはこちら

 ◇郷土の森博物館(東京都府中市)・・・・・大賀博士に関する常設展示 HPはこちら

 ◇府中市立図書館・・・・大賀博士の蔵書を寄付した「大賀文庫」あり HPはこちら

 ◇郷土の森公園 修景池 (府中市矢崎町)・・・・大賀博士の胸像がある

 ◇吉備中学校HP(岡山市庭瀬)・・・同校を訪れた大賀博士の写真を掲載 こちら

 ◇蓮香(RENKA)・・・ 東京大学と資生堂のコラボにより実現した 大賀蓮の香り成分を配合したオードパルファム

 ◇大賀ハスの焼酎『太古のめざめ』・・・・・・町田市には、この大賀はすを主原料として熟成させた焼酎があるそうです。
 

■取材協力のお礼■

 今回、大賀博士の「人物記」をまとめるにあたり、いろいろな方にお世話になりました。また、快く、写真をこのページに掲載することを、了承して頂きました。
 簡単ですが、紹介させて頂き、お礼といたします。

  • 吉備小学校・・・応接室に飾られている大賀博士の写真を撮影させて頂きました。

  • 犬養木堂記念館の学芸員の方・・・碑の写真撮影について快く許可をいただいた上、大賀氏の墓所や顕彰碑までの地図 まで頂きました。

  • 庭瀬城掘に浮かぶ舟の所有者の方・・・大賀ハスが、どれであるかなど、色々教えて頂きました。

  • 津山科学教育博物館 森本館長・・・館内展示の写真の使用許可を快く頂いた上、より大賀博士が上手く写るよう再撮影に、色々ご尽力頂きました。

  • 昭和51年卒 名越 さん・・・地元吉備で、大賀氏関連の資料のあり場所、歴史に詳しい在住の方を紹介していただきました。

  • 昭和40年卒 東大阪市在住の丸尾(杉山)佳代さん、昭和47年卒 則安(小出)資子さんのお二人には写真を提供していただきました。


岡山朝日高校同窓会公式Webサイト