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先 輩 た ち の 足 跡 を 訪 ね て
 松原 三五郎  (明治13年転出

 <略 歴> 
元治元年  岡山藩の御典医の子として生まれる。 
明治11年  岡山県師範学校変則中学科に入学。 
明治13年  岡山中学校中退。上京し、五姓田芳柳に師事 
明治17年  帰岡し、岡山県師範学校、岡山中学校の図画教師を勤める。 
明治18年  自宅にて、私塾「天彩学舎」を開塾
明治23年  大阪に転勤し、大阪府尋常師範学校に勤める。「天彩学舎」も大阪へ移転。
明治30年  陸軍幼年学校に勤める。
明治34年  関西美術会の設立に参画。
明治38年  陸軍幼年学校を退職し、「天彩学舎」を「天彩画塾」に改める。   
昭和21年  大阪府にて死去。 
■岡山での松原三五郎■
明治17年当時の松原

松原三五郎は元治元年(1864)に、岡山藩御典医の息子として生まれました。明治11年(1878)に岡山県師範学校変則中学科(後の岡山中学校)に入学した後、画学科教師である平野雄也に出会います。平野は自宅でも画塾を開いており、ここでも熱心に学びました。明治13年(1880)に岡山中学校を中退し、東京で洋画家初代五姓田芳柳に師事しました。松原は、擦筆画から、水彩、油絵に進み、特に肖像画の勉強に力を注ぎました。
 その後、明治17年(1884)に帰岡し、岡山中学校・岡山県師範学校の図画教師となりました。松原は、藩校跡の古い校舎には不似合いな風貌だったそうです。あだ名は”タンレエ(端麗)”と呼ばれ、郷土史家巖津政右衛門は、「21歳の青年洋画家は、頭髪を真ん中から分け、流行の背広をすっきり着こなし、性来好男子の彼は、古い城下町岡山に、目立った存在となった」と伝えています。また師範学校で、教えを受けた井上利喜次は、その頃の雰囲気を彷彿とさせる文章を残しています。

「感想筆録」『創立50周年記念』より
 図画は始めて、松原三五郎先生が帰ってきて、西洋画をやった、さあ実物写生じゃ、蝋燭を写生せよ、写生等は聞いたことがない、今迄は手本を写した丈の事だ、皆困った、先生写生の方を説いて審だ、理屈は分かった、手が動かぬ、光線といふ事に非常に苦心した、学校内に図画の大流行を来たした、どんどん天彩学舎に習ひに行ったものだ  

 松原三五郎の私塾である「天彩学舎」は、西中山下87番地に設立しましたが、塾生が増える一方で手狭になったため、東中山下に大きな家屋を借りて移転しました。多いときには、150〜160人もの生徒が通っていました。明治22年の春、烏城天守閣で学芸品展覧会が開かれた際には、四層五層を洋画室に当て、中学校・師範学校・天彩学舎など、松原三五郎の関係者すべての方面から作品を集めて陳列し、当時の岡山画壇と教育界に一大センセーショナルを捲き起こしたといいます。
桃 (松原三五郎作)

 松原三五郎は、岡山洋画界の”草分け”と言われます。それは岡山から多くの洋画家を育てたからです。岡山中学校に在籍した洋画家の満谷国四郎は、松原三五郎に学び、その後初代五姓田芳柳に師事しています。その他、鹿子木猛郎、大森柳江、徳永仁臣、貝原京平、寺松国太郎も松原に師事しました。児島虎次郎の才能を発掘したのも、松原三五郎と言われています。”洋画王国岡山”はまさに松原三五郎の功績なのです。当時の様子について、明治20年ごろの岡山尋常中学校に在学した、松尾哲太郎は、次のように書いています。

「思出のままを」『烏城52号』より 
松原先生が、図画を教へられたが其教へ方は実に甘いもので、皆覚えず熱心に絵を書かされたものである、満谷、鹿子木両画伯の如きも此先生のお弟子で、今日の大成は全く先生の感化に基くといっても差支へはない、満谷君は中学の3年迄自分と同宿であったが、英語でも物理でも本と云ふ本の表紙裏は、役者の似顔や動植物の写生で、黒くなって居たのを今も尚見る様である。


■大阪での松原三五郎■
 
「天彩画塾」

 松原三五郎は、明治23年(1890)に大阪府尋常師範学校に転勤しました。烏城での展覧会を見た大阪府学務課員が松原の腕に惚れ込んで袖を引いたからだと、松原自身は語っています。その後、陸軍幼年学校を経て明治38年(1905)に退職しました。
 一方、私塾「天彩学舎」は大阪に転居後も引き続き大阪の自宅で開設し、陸軍幼年学校退職後は「天彩画塾」と改めました。その間、指導を受けた画学生は1257名にも及び、多くの俊才を育てました。大正3年には開塾30周年記念展を開催した際は、出品作品が500点を越えたと言われています。
 また、関西美術界でも多くの功績を残しています。代表的なものは、明治34年(1901)に設立された関西美術会の設立です。松原は、7人の発起人のうちの1人になり、発会式で発起人を代表して挨拶をしました。関西画壇における松原の位置が示されています。
 「天彩画塾」は日本最古の歴史ある洋画研究所と呼ばれましたが、大正14年(1925)に閉鎖されます。各地に美術学校や私設研究所が設立され、洋書普及という目的が達成されたことが理由です。その後は悠々自適に作品制作を行い余生を過ごしました。昭和21年(1946)に大阪・天王寺の自宅にて死去しました。

■図画教育への功績■

 松原三五郎は、学校や私塾で多くの画学生を指導してきただけでなく、図画教育でも大きな功績を残しています。岡山で図画教師を勤めていた時代から、明治19年(1886)の「小学練画帳」をはじめ、数々の文部省検定済教科書を著作し、岡山、広島、大阪など各府県で採用されました。
   
 『小学錬画帳』  『新選図画』

●参考文献
 ・後神俊文 『岡山中学事物起源覚書』(1988)
 ・岡山県立岡山朝日高等学校創立120周年記念事業委員会
        『現代を生きる美術展‐岡山朝日高校創立120周年記念展‐』
 
 また、岡山県立岡山朝日高等学校同窓資料館より、松原三五郎著の図画教科書など、資料館で保存されている貴重な資料を提供いただきました。


岡山朝日高校同窓会公式Webサイト