■葉上照澄について■
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東南寺の門前にて |
明治36年 (1903年) 8月15日 岡山県赤磐郡石生村原 ( 現在の和気郡和気町原 ) の岩生山元恩寺 ( がんおんじ ) で、父 葉上慈照、母久子の一人息子として生まれましたが、寺には既に養子が迎えられていた為、初めから寺を出る運命で、成長しました。
元恩寺は、天台宗のお寺です。旧吉永町の真言宗のお寺の娘で、観音様を拝む熱心な信徒であった母によって、きびしくしつけられ、育ちました。昼間は、母のお勤めしている、元恩寺の一角、宝積院と呼ばれる建物をよく訪れていました。
小中学校時代は、虚弱体質で、遠足に行ったこともなく、運動も得意ではなかったので、よくいじめられており、自殺しようとまで思いつめたこともあったそうですが、「頑張って岡山中学に入ってやろう」というのを目標にしました。昭和43年の母校での講演会で、「六高、東大と行ったが、岡山中学に入ったのが一番嬉しかった」と述懐しています。
この頃、旧制中学4年から旧制高校に入学出来るようになり、四年修了で首席で六高に進学しました。六高時代は“目をつむり鼻をつまんで”何でも食べるようにしたことで体力がつき、みちがえるように強くなっていきました。
六高から東大ドイツ哲学科に進学後は、授業はあまり出ず、歌舞伎や映画の鑑賞に多くの時間を割いたようです。
東大卒業後、大正大学のドイツ語教授になりましたが、昭和15年、妻春子を31才の若さで亡くし、翌年帰郷。
岡山で合同新聞(現在の山陽新聞)の記者となり、1945年 ( 昭和20年 )9月2日にはミズーリ号艦上での降伏文書調印式という歴史的瞬間にも立会いました。
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回峰行のいでたち(昭和28年) |
戦後間もない昭和21年3月、44歳の時、敗戦後の若者の規範たらんと、頭を剃り、比叡山の無動寺に入りました。
そして、昭和22年から千日回峰行 ( 後述 ) に入り、昭和28年9月18日終了 ( 大行満 )しました。歴代39人目。年齢は当時の最高齢レベルの大行満であり、全国に衝撃を与えました。
この他、断食断水の十万枚護摩行、三年間で1000日の運心回峰行、三年間の法華三昧行なども行いました。
昭和37年、琵琶湖畔の東南寺の住職時代、インドをはじめて訪問、これがきっかけで、ブッダガヤに日本寺が創建され、初代の印度山日本寺の竺主に推されました。
また、宗教協力なしに平和はないと世界によびかけ、昭和53年のエジプト訪問、サダト大統領との会談をはじめ、高山寺住職時代のカトリック教会との兄弟教会の約束、シナイ半島返還時のユダヤ、キリスト、イスラム三教共同礼拝への立ち会い、宗教サミットの提案など、世界のいろいろな宗教の交流に貢献しました。宗教サミットは昭和62年にはじまり、毎年行われています。
宗教家としての活動の他に、葉上氏は教育者としての一面を強く持っています。 青年期、大正大学で教鞭をとったこと以外にも、岡山に帰郷していた戦中から戦後にかけての時期は、私塾を開いて六高生を集めました。比叡山高等学校校長も勤めています。 また、サダト大統領との約束で、青年による文化交流の実現に努め、カイロ大学日本語学科の学生を日本に留学させました。
文学と科学と宗教が融和した教育を意識し、それを体現していた宮沢賢治に傾倒。昭和50年、ご存命だった賢治の母イチさん(当時80才)に、会いに行っています。
母校での講演も積極的に引き受け、昭和43年と48年の二回、創立記念日講演をされました。
こうして、世界平和のための宗教同士の友好、日本の教育に貢献する活躍の生活でしたが、平成元年3月7日 85歳で亡くなりました。比叡山延暦寺で本葬が4月16日とりおこなわれた後、お骨は妻春子の眠る生まれ故郷の元恩寺境内に葬られたほか、延暦寺など縁の深い三寺に分骨されました。
このことは、晩年、地元に帰られたとき、地元の檀家総代の人に、ふるさとに帰りたい旨話されていたことが、反映されてのことでした。
■創立記念講演会での葉上照澄氏の講演■
子供がおらず、老母亡き後家族が誰もいなかった葉上氏は、母校の後輩たちに強い愛情と期待を感じていたようです。
母校における講演は、昭和43年(創立94周年)と昭和48年(創立99周年)の二回、行われています。
昭和43年の記念講演は、「プライドとファイトを」という演題で、岡中時代、千日回峰行の話をされていますが、最後に、 「愛する諸君へ」として、「・・・人間は、ようしと覚悟したら、突破できるんです。それぞれの立場でね。・・・もっともっと勇気を出せということ、これが私の言いたいことなんです。まして本当に期待し、一番愛している君達、どうぞしっかり頼みます。」 と、結ばれています。
昭和48年の講演会については記録がありません。そこで、当時の講演を聴いた学年の人たちに、記憶を呼び覚まして貰いました。 葉上氏は 千日回峰行のお話も詳しくされましたが、それにもまして、敗戦の時、ミズーリ号でマッカーサーに会ったときの事を克明に話されました。
また、何才になっても学ぶことは出来る、という話を、ご自身が最近はじめられた書道について語られました。当時、高齢の葉上氏でしたが、更に20歳くらい年上で、清水寺におられる方に習いに行っている、というお話をされていました(歴史に詳しい同窓生の推定では、大西良慶貫主のことだったのではないか、ということです)。この後、葉上氏が、いろいろなところで書を遺されていることに、つながるようです。
■千日回峰行について■
最初の700日までは、1日、30km歩きます。1年目〜3年目までは、年間に100日、4年目と5年目は、年間20日行をします。これで、
700日です。700日の回峰行が終わると、9日間の断食断水、不眠不臥の行に入ります。その後、次の100日は60km、900日までの100日は京都一周の大廻りが加わり
1日84km歩きます。最後の100日は、また30kmに戻り7年間で1000日延べ4万キロの千日回峰行が大行満となります。
服装は、白麻の狩衣のような浄衣(じょうえ)に、野袴、脚絆(きゃはん)をつけます。叡山独特の檜皮を細く編んだ行者笠、ひもが左右に四本ずつある特別の草履。自分で洗濯します。 朝食(午前
2時) 前日の残りの堅い飯の1/4をお湯でつけて食べます。10時半、残りのご飯を雑炊にし、ザラメ(砂糖)を加えて食べます。 回峰行の道中では、約三百カ所の拝む場所があ
り、9日間の断食断水・不眠不臥の行の間に、10万遍の真言を唱えます。
■宮本一乗さんついて■
千日回峰行を成し遂げた人は、信長の比叡山焼き討ち以降の400年で49人、戦後では13人いますが、私たちの先輩の中に葉上照澄 さんの他にもう一名おられます。昭和16年卒業の宮本一乗(本名:宮本一馬)さんで、葉上さんを師匠、御父さんと慕い、昭和37年に戦後6人目に千日回峰行を成し遂げました。
千日回峰行を2度成し遂げたのは400年で3人、そのうちのひとり酒井雄哉さんが仏門にはいるきっかけとなったのが、宮本一乗さんの「お堂入り」達成の瞬間に出会ったことだと酒井さんの著書に書かれています。
また、宮本さんは、日本ボーイスカウト滋賀県連盟理事長・日本連盟の役員を歴任されました。
■葉上照澄ふるさとのアルバム■
照澄が生まれ育った家である元恩寺は、同時に照澄と妻春子
の菩提寺でもあります。
照澄と、妻春子の墓は、境内の東側のこちら、母久子の陶像は、境内北側のこちらにあります。
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葉上照澄の墓石
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葉上照澄夫妻の墓・手前が妻春子の墓 |
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照澄氏が作らせた母久子の像
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備前焼製の像とその碑 |
■取材協力のお礼■
今回、葉上照澄の「人物記」をまとめるにあたり、いろいろな方にお世話になりました。また、快く、写真をこのページに掲載することを、了承して頂きました。
簡単ですが、紹介させて頂き、お礼といたします。
- 元恩寺 葉上氏の写真の載った本を貸して頂いたほか、お墓の案内、様々な逸話を聞かせて頂きました。
- 昭和47年度卒 清水真理子さん 葉上氏の血縁として、いろいろなお話をして頂いたほか、葉上氏の母方のいとこの方や元恩寺さんを紹介頂きました。
- 正光院 阿部さん 母方のいとことして、いろいろなお話をして頂きました。
- 石生(いわぶ)小学校 葉上氏の学位証明書、書、旧校舎の写真などを、撮影させて頂きました。
- 昭和51年卒業のみなさん 葉上氏の99周年記念講演の内容について、いろいろ思い出して頂きました。
■参考文献■
- 「私たちの先輩」の『葉上照澄(比叡山長臈)-照于一隅-』岸本尚眞
- 「烏城」創立九十四周年記念講演記録
- 『願心 我が人生を語る』(法蔵館 1986年)など
■写真出典■
- 肖像写真は、元恩寺からお借りした
『遊心』 葉上照澄著 ( 善本社 )
『道心』 葉上照澄著 ( 春秋社版 )
から、出典しました。
- その他の写真は、現地で撮影しました。
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