■内田百閧ノついて■
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生家跡地隣の古京郵便局と石碑 |
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石碑(牛の彫刻と句が刻まれている) |
「随筆の神さま」内田百閧ヘ、県立岡山中学校を明治40年に卒業しました。
生家は、朝日高校から数百メートルほどの場所で、跡地は現古京郵便局の隣です。そこには石碑が建っていますが、百閧ェ丑年生まれであることから、石碑の上に牛の彫刻があります。そこに刻まれている「木蓮や塀の外吹く俄風」という句は、東京中野の金剛寺にある百閧フ墓のそばに立つ句碑と同じ句です。
生家は、造り酒屋(志保屋)で、そこの一人息子として生まれました。本名は栄造といい、祖母に溺愛されて育ち、非常に頑固で我侭な性格と、自認していたようです。
祖父栄造と妻竹の間に子がなく、他の女性との間にできた子を養女にしました。それが母の峯で、皆に可愛がられ、蝶よ花よと何不自由なくそだてられました。父久吉は婿養子として内田家に入りました。母の峯には腹違いの弟がいて、同じ町内の久保家へ養子に入り、森下町の醤油屋の娘を嫁にとり酢屋を起こして「萬年酢」とし、内田家とともに商売が発展していきました。
小学生時代は、大店の一人息子で贅沢に育てられ、喘息持ちであったため滋養の為にと、当時岡山では珍しい高価な牛乳を飲ませてもらったりしたようです。しかし、学校へ行くと泣いてばかりいて授業にならず、母が呼び出されることもしばしばだったようです。高学年になって、森作太先生という恩師のおかげで、勉学に励む気持ちが起き、岡山中学を受験し、合格しました。
岡山中学に入学した頃から、家業が少しずつ傾き始めました。明治38年、父が脚気で病の床に伏し、岡山市郊外の仏心寺で療養をしていましたが、百閧ヘ毎日のように見舞いに通ったそうです。その年、百閧P6歳の時に父は帰らぬ人となり、志保屋は倒産しました。
そのころ、琴に没頭し始め、腕前も相当なものであったらしいと言われています。また、夏目漱石にも傾倒していき、明治39年、博文館発行の「中学世界」に「雄神雌神」を投稿し入賞。「文章世界」には内田流石(漱石を意識)の筆名で「乞食」を投稿し、田山花袋が選者でしたが、みごと優等入選しました。
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「烏城」へ投稿した叙事文 |
「烏城」第87号に投稿 |
「烏城」第87号の目次 |
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第5年級の時に書いた叙事文が「烏城」第43号に掲載されています。8ぺージにわたる文章で後の活躍の片鱗を見せています。
明治40年(18歳)、県立岡山中学を卒業し、9月には岡山第六高等学校に入学。生徒全員が寮に入ることを義務付けられていましたが、寮に入るお金がなく特別に自宅から通っていました。六高時代には俳句に夢中になり、このころ百間川にちなみ、俳号を百間としました。句会を作り精力的に俳句を校友誌へ掲載していきます。「老猫」という散文を漱石の元へ送り批評を乞い、返事をもらっています。
明治43年、第六高等学校を卒業し、東京帝国大学に入学、独逸文学を専攻。東京生活が始まりました。翌年には夏目漱石を訪ね、弟子として認められました。
また、この頃、親友の堀野寛一家も東京に居を移していましたが、昔から心を寄せていた寛の妹清子に猛アタックを開始し、大恋愛の末、大正元年9月に岡山で祝言をあげることになりました。翌年の1月には長男の久吉が誕生しています。
大正3年大学を卒業し、翌年には岡山から祖母、母が上京し、同居を始めました。その後、陸軍士官学校独逸語教授に任官、芥川龍之介たちとも親交を深め、宮城道雄にも琴の稽古を受けました。その後も親密な交際を続けることになります。
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右から2人目が木畑竹三郎先生 |
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六高時代の百閨i後列左から3人目) |
30代には、法政大学教授となり、「冥途」「山東京伝」「花火」「件」「土手」「豹」の6篇を「新小説」に発表。その後次々と作品を発表していきました。昭和14年「鬼苑横談」を発表した頃から、「百間」を「百閨vに変更したようです。
「烏城」第87号(昭和9年発行、創立60周年記念号)には、内田栄造本名で「少年水行記」という散文を寄稿しています。この中には、岡山中学時代、非常に「物騒だった」青木要吉先生、木畑竹三郎先生の思い出が書かれています。木畑先生とは、昭和17年に先生が亡くなるまで親交が続きました。
還暦を迎えた翌年(昭和25年)から、法政大学教授時代の教え子、主治医、僧侶、同僚らをメンバーとして、毎年百閧フ誕生日である5月29日に、摩阿陀会(まあだかい)という誕生パーティーが開かれていました。摩阿陀会の由来は、「百關謳カの還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、「まあだかい」ということだそうです。黒沢明監督の映画「まあだだよ」という作品にもなりました。
昭和26年1月号の「小説新潮」に掲載された「特別阿房列車」は、大変な反響を得て人気を博しました。翌年には「東京駅一日名誉駅長」に推されています。日本各地を鉄道で巡り、多くの「阿房列車」シリーズを記しました。
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安住院墓地にある百閧フ墓石 |
昭和42年78歳の時、芸術院新会員に内定されましたが、辞退したいと申し出た時の理由が「いやだから、いやだ」でした。百閧フ人となりを感じさせる言葉です。
昭和46年4月、老衰のため急逝。81歳と10ヶ月でした。
東京都中野区金剛寺に埋葬されましたが、翌年一周忌にあたり、百閧フ生前の意思により郷里岡山の菩提寺(岡山寺)に分骨され、墓碑が建立されました。
その後岡山市国富にある安住院の墓地に移転されました。ちなみにこの安住院の住職は48年卒の生駒琢一 さんで、北から南からにも投稿いただいています。百閧フ墓石の撮影時にはお世話になりました。
百閧ヘ、岡山での幼少時の思い出を幾度も繰り返し書き続け、阿房列車の旅では岡山駅のホームに必ず降り立ち、窓から風景を凝視していました。しかし「移り変わった岡山の風景は見たくない」「大切な思い出を汚したくない」として、恩師木畑竹三郎先生の葬儀以外は決して岡山に帰ろうとはしなかったそうです。
■岡山・吉備の国「内田百阨カ学賞」■
1990年、岡山県と岡山県郷土文化財団が百閧フ生誕100年を記念して「岡山・吉備の国『内田百阨カ学賞』」を創設しました。審査員は阿川弘之氏、小川洋子氏らで、全国公募の人気文学賞です。
ところが、この稿を起した現在(2009年3月)、百關カ誕120年目の節目に当たる年であり、いろいろなイベントや出版も相次ぐ中、岡山県の財政難で消滅の危機にあるということです。賞金も高額で応募作も2000編を超えるという岡山が誇る文学賞なので、規模を縮小してでも存続してほしいという声があがっています。
(岡山県郷土文化財団のホームページへ)
■内田百 記念碑園■
1990年4月、三光荘南の堤防沿いに記念碑園が作られました。百閧ェ尋常小学校へ通った道です。大きな花崗岩の句碑には、「私は古京町の生まれであって、・・・・」という「古里を思ふ」の一節と、自筆の俳句「春風や川浪高く道をひたし」が刻まれています。
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大きな花崗岩(御影石)に刻まれた百閧フ句碑 |
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内田百闍L念碑園 |
左の石碑の場所からみた景色
岡山城(烏城)、旭川、相生橋などが見渡せます。 |
■三光荘 百闍L念コーナー■
百閧ェ生まれ育った古京町にある岡山県職員会館三光荘のロビー一角には内田百閧フ記念コーナーがあります。福武書店刊行の百闡S集や、百の遺墨・遺品が展示されており、郷土の生んだ随筆家を顕彰しています。
(三光荘の記念コーナーの撮影では、快く許諾をいただきました。ありがとうございました。)
■母校の先輩・内田百閧フ岡山時代■
寄稿 岡 将男(昭和48年卒)< 著書「岡山の内田百閨v(岡山文庫137 日本文教出版)>
母校の先輩・内田百閧フ岡山時代
百閧ノついて何か書いてよ、と言われてもう1年以上になる。百閧ノついてならいつでも書いたげると言ったわりには、手間がかかっているが、今日は、郷土史家として百名ほどを引き連れて岡山の街を歩いたばかりなので、興にまかせて百閧フ岡山時代を書いてみようと思う。
百閧ヘ岡山市古京町で明治22年に生まれた。古京郵便局の隣が生家で、そこに牛の乗った碑が立っているからすぐわかる。この牛を撫でたら文章がうまくなるとか、頭がよくなるとかいう噂があるが、これはすべて私の流した噂である。百閧ノ因むというなら、牛を撫でたら百閧フように借金王になる可能性だってある。
百閧ヘ文壇の借金王とも言われるが、それは貧乏してなったというより、稼ぎすぎてなったと言ってもよいだろう。なんせ稼いだ以上に使うから貧乏になる、しかし倹約とか節約なんて百閧ウんには無理な相談だ。
生家には大きな倉が六つもあるのが自慢の百閧ウん、幼いときに当時学校にもなかったオルガンを買ってもらい、親は慶応の幼稚園にやろうとしたというから、これはもうお金に糸目をつけるなんて発想は出てこない。それがそのまま大きくなったものだから、社会人としてはどうも金銭感覚が麻痺している、本人も周りも苦労したはずである。
しかしそれを笑い飛ばして、強がりを言ったりするものだから、やがて文壇の借金王と言われることになる。その原点はすべて幼少期にあると言ってよい。
さて百閧ウんは内山下の岡山高等小学校から岡山中学校(岡山朝日高校の前身)に進学する。学校は当時お城の中にあったから、百閧ヘまだ相生橋がなかったので、古京から渡しで通ったらしい。中学時代には病気で父親を亡くし、お店も潰れることになり、百閧ヘ文章を書くようになる。このころ夏目漱石の「我輩は猫である」が大ヒットし、百閧烽スちまち虜になり、内田流石などというペンネームで東京の文章雑誌に投稿するようになる。当時の山陽新報(山陽新聞の前身)に投稿した「宮島行」が特選になり、鼻高々であったそうだ。恋焦がれていた後の清子夫人への思いを綴った日記には、既に文士を志す事を書いている。「泡沫一朝、お店はつぶれ、私は文士みたいなことになりました」と後に自嘲気味に書いているが、父の死とお店の滅亡が文士への道を開いたのは間違いない。
岡山中学校時代には、試験まえになったら必要のない授業を切るという慣習があったと書いている。私の高校時代にもあったのだが、今は学習指導要領に忠実になったのか、行われていない。私もクラス委員をやっていたので、先生と交渉して、登校したら1時間だけ授業を受けて帰ったこともあるが、昨今の履修単位時間の問題と照らし合わせるとおもしろい、あっおもしろくないか。でも本当は授業を受けていても、聞いているかどうかが問題なんだけどね。百閧ウんだったら、今回の高校の履修問題どう言うだろう。「授業を受けないのはけしからん。だけど聞くかどうかは君の勝手だ」なんて言うだろうな。
岡山中学校からさらに生家と目と鼻の先の第六高等学校に入学したのは明治40年。あまりに近くて、キャンパスの奥の寄宿舎にいる連中よりも近いと自慢している。だから近すぎて毎日遅刻をする。それで校友会誌に「枚浅智谷」というペンネームで投稿したりしたものだから、後に大学を卒業したときに六高に就職したいと思ったところ、学生時代の教頭が校長になっていて、「内田はまあ毎朝遅刻だからなあ」と言われ、沙汰止みになったという。つまらん事を言って墓穴を掘るのは、なんだか僕みたいだけど、でもどこか憎めないのが百閧ウんだな。
もちろん六高といえば現在のわが朝日高校のキャンパスだ。百閧ヘキャンパスに川が流れているなんて紹介している。
六高時代には志田素琴先生にめぐり合い、俳句に没頭するようになる。あるとき俳句に懲りすぎて勉強がお留守になり、落第しそうになってやっと進学させてもらった時、「あやうく落第をまぬかるる句」なんてのを書いたものだから、素琴先生にこっぴどく叱られたそうだ。この時期百閧ヘ漱石にも自分の書いた「老猫物語」を送り、評価を得ている。ただし岡山のゴザや吉備団子を送っていたようで、「団子というのは丸いものかと思ったら、四角いのもあるのだね」と漱石から礼状をもらった。吉備団子は格子の中に入っていたから、揺られているうちに四角になっていたらしい。
やがて六高卒業後の明治43年、東大文学部独文に入学し、翌年漱石門下に入る。はじめて会ったとき、足がしびれて漱石の前でずっこける話は、またの機会としよう。
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● 参考文献
別冊太陽「内田百閨v(平凡社発行)
「岡山の内田百閨v(岡山文庫137 日本文教出版)岡 将男著
● 機種依存文字について
百閧フ「閨vは機種依存の文字であるため、システムによっては、文字化けを起こす恐れがあります。
しかし、固有名詞であることからあえて、この字を使用しました。ご理解いただきますようお願いいたします。
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