● 同窓会のいろいろな資料や報告書類 ●
先 輩 た ち の 足 跡 を 訪 ね て
上品和馬著
『広報外交の先駆者 鶴見祐輔』より転載
鶴見 祐輔 (明治36年卒) 
明治 18年 (1885)   1月群馬県に生まれる
  31年 (1898) 13歳   岡山中学入学 長兄正一病死
33年 (1900) 15歳   4月母病死
            10月父の仕事の関係で一家は小田原へ転居 祐輔は池田家に同居
  36年 (1903) 18歳   3月岡山中学首席卒業 7月一高入学
    39年 (1906) 21歳   7月一高首席卒業 9月東京帝国大学法科大学政治科入学
            10月父病死
  43年 (1910) 25歳   1月弟良輔病死 7月東大卒業 高文試験合格 内閣拓殖局
  44年 (1911)   鉄道院書記 新渡戸稲造の渡米に随行 1年間の米国出張
  大正 元年 (1912) 27歳   後藤新平の長女と結婚
  13年 (1924) 39歳   退官 7月〜翌年11月まで第1回米国講演旅行
  昭和 2年 (1927) 42歳   1月〜翌年2月まで第2回米国講演旅行
  3年 (1928 43歳   岡山1区から衆議院議員選挙立候補し当選 9月〜12月まで第3回米国講演旅行
  4年 (1929) 44歳   『母』出版
    5年 (1930)  45歳   衆議院議員立候補し落選 5月〜翌年9月まで第4回米国講演旅行 
    7年 (1932) 47歳   1月〜翌年1月まで第5回米国講演旅行 途中ヨーロッパ旅行・公園
    10年 (1935) 50歳   10月〜翌年1月まで第6回米国講演旅行 
    11年 (1936)  51歳   岩手2区から衆議院議員選挙に立候補し当選 以後当選4回
    21年 (1946) 61歳   公職追放 
    25年 (1950) 65歳   公職追放を解除される
    28年 (1953) 68歳   参議院議員全国区に立候補し当選
    29年 (1954) 69歳   第1次鳩山内閣の厚生大臣に就任(〜昭和30年3月)
    34年 (1959) 74歳   6月参議院議員通常選挙に立候補するも落選
          11月脳軟化症となり以後14年間自宅療養
    48年 (1973) 88歳   逝去
今から5年程前、同期からメールが届きました。
 「大学時代の友人の知り合いで、ハーバード大学出身の日本研究者が、「鶴見祐輔」というテーマで博士論文を書いているそうだ。その人から岡山中学の生徒や校長について問合せがきているらしい。友人に『君の母校だから何か知らないか、あるいは知っている人はいないか』と尋ねられた。」というものでした。
鶴見祐輔については、朝日高校同窓資料館叢書『私たちの先輩』の中で取り上げられており、政治家・著述家・世界的雄弁家であることは知っていましたが、今の日本では「哲学者鶴見俊輔・社会学者鶴見和子の父」として認識されている程度で、ほぼ忘れられた存在のようでもあります。なぜ今鶴見祐輔なのか、その時はよくわかりませんでした。

◆鶴見祐輔について


 東京帝国大学在学中、新渡戸稲造の愛弟子となり、卒業後鉄道院の役人となった時に後藤新平に見出され、新平の長女愛子と結婚。昭和初期衆議院議員に当選。その当時書いた小説『母』がベストセラーとなり、1929(昭和4)年・1950年(昭和25年)に映画化されました。戦後間もない昭和29年、第1次鳩山内閣の厚生大臣を任じられ、当時国内では政治家・小説家としての知名度は高いものでした。

 一方、昨今見直されつつある活動の特徴は、海外での発信活動にあります。当時、彼の話はアメリカをはじめとする国々で受け入れられ、ことにアメリカでは「『ユースケ・ツルミ』の弁は、日本の大使の言葉よりも有力な場合がある」とまで言われたそうです。しかし、活躍していたその当時でさえ、彼の海外での活動は日本ではあまり報道されていなかったようです。

 1924年、アメリカで排日移民法が成立し、日系移民がアメリカから排除されるという事件が起こったとき、アメリカに赴いてアメリカの大衆に向かって講演によって日本人の怒りをぶつけたのが鶴見祐輔でした。通訳を介さず自分の言葉で、その場の雰囲気に合わせてジョークで大衆を笑わせたり、泣かせたりしながら、率直に日本の思いを伝えました。その活動は、講演、ラジオ演説、新聞・雑誌への寄稿、国際会議、個人的交流、英文著書出版、歌舞伎のコーディネートなど多様でした。


(WIKIより)
1920年代後半から1930年代半ばころまでは太平洋問題調査会日本支部の中心メンバーとして、日米間の民間外交に大きく貢献、また1938年に設立された国策機関・太平洋協会においても運営の中心となった。国際会議で難しい内容の議論でさえ通訳は無用とされた英語の達者な人物でありスケールの大きな率直な人柄は周囲の信頼を集めた。

 人並みはずれた英語力と説得力で海外において日本をアピールし続けた鶴見祐輔。いまなおその名が話題にのぼる所以です。

◆生い立ち・中学時代を中心として

母校に残る最も古い航空写真(昭和初期か)―
校舎は明治27年、烏城城郭内に新築され、昭和20年の空襲で、
城とともに焼け落ちた。左上から右下に向って蛇行する旭川。
写真上は後楽園。校舎後方に天守閣が見える。
『写真で綴る百参拾年』より

 鶴見家は備中松山の武士の古い家柄でしたが、父は18歳で備中を出て絹糸紡績業に従事。祐輔は、1885年(明治18年)群馬県に生まれ、父に随って10才で東京に出、翌年岡山に転居、岡山高等小学校(内山下)に転入しました。
 明治31年4月5日、岡山中学入学。実は前年にも受験しましたがこのときは見事落ちています。入学時の成績もとび抜けたものではありませんでした。

※@池田長康
親友。後の男爵貴族院議員。祐輔の家が名古屋に移ったので、三年間余池田家に同居した。

 一年生の時、池田長康(※@)から借りた五冊ものの『アフリカ探検記』(スタンレー著)を読んで少年の空想を刺激されます。「この小さい日本から抜け出して、大きい世界に出てゆかなければだめだ!」「英語だ!英語の勉強をしなくちゃだめだ!」と英語の猛勉強をはじめました。毎日英和辞典を懐に入れて、道を歩きながら暗誦しました。

※A服部綾雄校長
文久2年(1862)沼津藩士の家に生まれる。明治5年横浜に出てヘボン夫人のもとで英学を修め、キリスト教に入信。明治学院の創設にくわわる。21年〜25年までアメリカ留学。のち富山中学,岡山中学などの校長をつとめ,明治41年岡山県から衆議院議員当選。犬飼毅の立憲国民党に参加。大正2年カリフォルニアで排日運動がおこった際,問題解決のため渡米したが,3年4月1日サンフランシスコで死去。53歳。東京築地大学校卒。

 そして中学一年級のうちに、五年級までの英語の教科書を読み上げたといいます。当時の英語教師が「既に本校在学中に高等学校卒業生ほどの力あり」と評していたとの証言もあります。(『烏城』40号)

 当時の岡山中学は英語に堪能な雄弁家 服部綾雄(※A)を校長にいただき、新渡戸稲造に匹敵する語学力の持ち主と噂された木畑竹三郎、エール大学出身で気性の激しい青木要吉、のちに名をなした堀英四郎がおり、英語教育は一きわ充実していました。その中で祐輔は青木要吉の影響を受けたといいます。

  「岡山の中学で私は、阿部虎之助先生と青木要吉先生との大きい感化を受けた。」(『成城だより』5巻)

 阿部虎之助は西洋史の教師。その頃の日記に「文章と演説と英語とを修行して、世界的政治家になりたい」と書いたといいます。しかし、中学時代の同級生の誰もが服部校長の影響を想像したにもかかわらず、彼の回想的文章には服部綾雄は登場しません。


「鶴見祐輔」『烏城』134号より

祐輔が初めて『烏城』の論壇に登場するのは、三年級の五月(25号)である。題して「天上天下唯我独尊」。署名は鶴見古山。「人は何故に此の面白き社会を嫌ふならん」と呼びかけながら、四ページに亘って厭世観・隠遁思想を攻撃した衒気に満ちた文章である。彼は少年時代から、祐輔的文章を書いていたのである。僅か四十八字詰六十三行の短編に、韓信からマホメットまで洋の東西の人物十六人が登場する、西洋史の安部虎之助が尊敬される所以である。次いで七月発行の『烏城26号』には、「語をよす烏城六百の健児」を発表した。・・・(略)・・・十一月の27号には初めて本名で「二束」を書いている。ここにはハンニバルからガンベッタまで、実に二十八名が呼び集められている。僅か六十九行の文章にである。


『烏城25号』に掲載された文章の一部 『烏城27号』 青木要吉先生送別記念 (明治38年) 
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 その年(明治三十三年)の六月五日には校内の演説会が開かれ、彼はこの時ようやく、“鶴見祐輔”となる。政治家を切望する明治生まれの青年は、何よりも雄弁家であらねばならなかった。だから岡山中学の演説会にも、のちの衆議院議員が次々と登壇している。祐輔の先輩岡田忠彦・小川郷太郎、後輩小谷節夫・星島二郎らもそうである。その演説会にはのちの男爵貴族院議員池田長康も登場した。

 祐輔は十一席で、演題は「敵は本能寺にあり」。その主旨は、岡山中学校生の敵は国内の他都市の中学生でなく、海外の青年たちであるというものでした。9月の第2回演説会では「進取の気」と題して演説、34年1月の第3回演説会では「ウエスト・ミンスター・アベー」という英語演説でした。
 しかし、校内の演説会に出たのは、三年級の時だけでした。中学四年の頃から家の生活が苦しくなってきます。祐輔は一家の生活がやがて自分の双肩にかかってくることに気づき、よい成績をあげるために勉強に没頭することとなりました。

鶴見祐輔の旅行姿
『友情の人鶴見祐輔先生』によれば、明治35年の鳥取地方旅行の時に撮されたものであるという。それならば5年級の時にあたる。
中学時代。兄弟と共に。右より良三(五男)、祐輔(次男)、憲(六男)、良輔(三男)、定雄(四男)。(北岡寿逸編『友情の人鶴見祐輔先生』より)
『写真で綴る百三十年』より    『広報外交の先駆者 鶴見祐輔』より転載


 明治36年3月岡山中学を卒業。それから数ヵ月後、第一高等学校法科甲類(英法)に合格。

 一高の生活は「息詰まるやうな感動の生活」だったという。しかも「衰えてゆく家を興さなければならないといふ火のやうな熱意と、学校で誰にも負けたくないといふ激しい競争心」のために、一番の座にしがみつこうとした。

 一高を首席で卒業した直後、父親が一銭の貯えもなく病死します。したがって東大でも良い成績をとるための勉強からは抜け出せなかったそうです。
 
 岡山中学卒業後、祐輔の文は二度『烏城』に掲載されました。一高二年の時の「向が陵より」(40号)は、一高の自治寮の素晴らしさを強調、東大卒業にあたって寄稿した「母校未見の友に」でも、「新渡戸先生のやうな大人格の居られる間に一高にはいらなければ一生の損である」と一高への勧誘をしており、この文章に影響されて一高に流れた母校の秀才も、少なくなかったといいます。

『烏城47号』に寄稿した「母校未見の友に」
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◆その頃の岡山中学


 幕末から明治初期にかけて俊才−能力あるもの−は政治を志すのが当たり前で、政治を断念することは「挫折」を意味するとまで言われたそうですが、明治10年代も終るころには、多元的価値を求める風潮があらわれ、文学や理工学を志す者が出てきました。その変革のスピードは大変なもので、明治20年代には岡山中学でも文学や美術を志す者や理工系に進む者が多くなりました。

 ところで、明治20年代は、母校の歴史のなかでも一番生き生きとした時代でした。その理由は教師の質の向上、新進気鋭の優れた教師が赴任してきたことに尽きるといわれています。英語はもちろん、理科数学等の方面にも「数多の新智識生迎へ、生徒の方も一段の緊張を加へた」とのことで、「学校内には清新溌剌の気が
(みなぎ)り、師弟の関係も頗(すこぶ)る親密で、教場以外で指導の益を受くることも少なくなかった」そうです。
 明治25年、岡山中学は、第三高等中学校(京都)から校長の<保証>があれば本科一年級への入学を許可するという特待を得ます。これは西日本で唯一でした。この特待は明治27年の学制改革でなくなります。明治29年、34名の卒業生(25年に入学した者)のうち17名が第一高等学校を志望し全員が合格。この年の一高の受験生が950名で、378名合格したことを考えれば、想像を絶する成績でした。

 しかしその後岡山中学は、20年代の雰囲気を残しつつも次第に緊張感が薄れ、規律が乱れはじめます。
明治31年4月(祐輔が入学した同年)、服部綾雄校長が着任。学校改革に乗り出します。その方法は規則を増やすというものでした。にもかかわらず生徒達は服部校長を<名校長>として心にとどめました。

『岡山朝日高等学校の生い立ち、戦前篇』より
服部校長の方法によれば、規則は増える。押しなべて生徒の嫌う方法である。にもかかわらず、この校長は生徒のこころにいつまでも残った。その心理は時代を隔てた今では、理解しにくい。理解を試みるために、卒業生の回想から僅かだけ引用してみる。阿野従理の文である。
 服部校長は私たちにとつては先生でも校長でもなく専ら「服部校長」でした。そして二年位しか接していないかと思いますが、私達は一生の内で服部校長程私達に感化を与えられた先生はないと思つて居ります。
 アイロンでピカピカに光つた黒の質素な服装をして些
(すこ)しも気取らず、平々凡々として歩いて居られ、われわれが校長に接する事は全校生徒を講堂に集めて話される僅かの機会しかなかつたのですが、私達は先生を恐れ且つ親んだものでした。講堂に集合した時など、五百名の生徒が講堂に集まると、まるで銭湯の中の様に誰の声とも判らぬ声で満堂湧き返つて居るのですが、其処に服部校長が這入つて来られると、この雑音が、ぴたりと止まる。この勢力と言うか、威力と言うか、このようなマグネチック・パワーとでも称すべき魔力を有した人を、今に到る迄見た事がありません。
 しかし、これは世の常の言葉でいうところの威圧力では決してないのでありまして、六百人の生徒が先生の心の中に飛び込んで、先生と同一になつてしまうためであります。服部校長が若し其処で呵々
(かか)大笑せられたなら、堂が割れる程笑つたでありましょうし、若し服部校長が涙を流して嗚咽されたなら、講堂内は為めに咫尺(しせき)を弁ぜぬ迄に湿(うる)おいしめつたかも知れないのです。その位、生徒は服部校長の心と一になつた、そうして、先生は壇上からダイナモの様に、美しい声で呼号せられた。そしてわれわれ青年は陶然として酔い、時の移るのをしらなかつたものです。
四年という在職期間は長くはなかったが、卒業生に最も多く敬慕の心をもって語られる校長となった。明治二〇年代の、強いていえば、理工系に進む者の多かった岡山中学は、やがて政治家として名をなす者を輩出するようになる。服部校長の影響だとみる卒業生は多い。


◆その後


 東大を卒業した祐輔は、前述のように鉄道院の役人となった後、職を辞して政治家となります。以来アメリカを中心に、ヨーロッパ・オーストラリア・インド各国の大学等に遊説。第二次世界大戦後の昭和21年に公職追放となりますが、28年参議院議員に当選し29年12月厚生大臣に就任。昭和34年の参議院議員選挙で落選したわずか半年後病に伏し、14年間の闘病のあと昭和48年88歳で亡くなりました。


● 参考文献
  上品和馬 『広報外交の先駆者 鶴見祐輔』(藤原書店、2011))

● 主な出典および参考資料
  後神俊文 「鶴見祐輔」 『烏城』134号(1979)
  後神俊文 『岡山朝日高等学校の生い立ち、戦前篇』(岡山県立岡山朝日高等学校、2004))
  『写真で綴る百参拾年』(岡山県立岡山朝日高等学校、2004)
  『烏城』20号(1899)、27号(1900)、47号(1910)

 ※鶴見祐輔氏および「兄弟と共に」の写真は、藤原書店のご協力により、ご子息鶴見俊輔氏の許諾を得て、『広報外交の先駆者 鶴見祐輔』から転載しています。


岡山朝日高校同窓会公式Webサイト