● 同窓会のいろいろな資料や報告書類 ●
先 輩 た ち の 足 跡 を 訪 ね て
竹田 喜之助(本名:岡本隆郎) (昭和16年卒) 

1923年(大12)   6月27日、岡山県邑久郡邑久村尾張(現瀬戸内市邑久町尾張)に生まれる
1937年(昭12)   邑久村尋常小学校(現瀬戸内市立邑久小学校)卒業
            岡山県立第一中学校入学
1941年(昭16)   岡山県立第一中学校4年終了
            第六高等学校入学
1943年(昭18)   第六高等学校理科卒業
            東京帝国大学工学部航空工学科入学
1950年(昭25)   東京大学第二工学部機械工学科中退       
            結城孫太郎一座にはいる (芸名 結城糸城三《しきぞう》)
1955年(昭30)  竹田人形座となり、竹田喜之助と改名
1956年(昭31)   「宝島」ハンズの首が光風会工芸展に入選
1959年(昭34)   「寿竹田三番叟」の首一式が日本伝統工芸展に入選
1961年(昭36)   日本橋白木屋(後東急、現コレド日本橋)で「喜之助人形展」開催
1968年(昭43)   この年以降、3回の海外公演
1979年(昭54)   9月5日、交通事故のため逝去 享年56歳
1991年(平03)  邑久町名誉町民に推挙


 竹田喜之助について(改名までは岡本青年としました。)
 40代以上の皆さんは、幼少期から青年期を思い起こしてみてください。雪ん子、宇宙船シリカ、ドレミファ船長、チビクロサンボ、銀河少年隊、ダット君、空中都市008、浦島太郎、かぐや姫、マッチ売りの少女、太陽の子マタラベ・・・ NHKや民放の人形劇番組や各地での人形劇公演などでこれらの作品見た覚えのある方は多いと思います。これらに登場する人形を作り、操り、人々に感動を呼び起こしてきたのが竹田喜之助です。30余年の間に彫り作り上げた人形は2600体を超えるといわれます。今回はこの名人形師である先輩の足跡をたどります。

百合若大臣雪ん子

雪ん子

◆生い立ち〜戦時下の青春

 竹久夢二と同郷の岡本青年は、呉服屋の長男として生まれ、幼少時より絵や書、クラシックや浄瑠璃にも親しんだそうです。岡山一中から六高、東京帝大工学部航空工学科に進みましたが、当時、日本は中国からアジア太平洋全域に侵略の戦火を広げ、彼の地の人々と日本の国民に取り返しのつかない犠牲を強いて敗戦に至ります。戦時下では花形の航空工学科に進んだ岡本青年ですが、病のために郷里で療養の日々を送ることを余儀なくされます。

 戦後、病は回復し復学しますが、日本の再軍備を許さないGHQの戦後政策によって航空工学科はなくなり、機械工学科へ移行を余儀なくされました。当時の青年のほとんどがそうであったように、「戦争に行って死ぬ」ことが当たり前と信じていたのに、敗戦によって生き延びえた時、死んでいった友人たちへの後ろめたさ、権威・権力への幻滅、無力感・・そしてかすかな希望・・などがいりまじった悶々とした心境に岡本青年もあったのではないでしょうか。


糸操り人形との出会い

 東京大学の卒業が近づいたころ、第二工学部のあった千葉市内の映画館で結城孫太郎一座の糸繰り人形を見て心ひかれた岡本青年は、その写真を撮ろうと楽屋を訪れました。そこで出会った同世代の人形師、孫昌青年(後の竹田扇之助)に勧められ、東大を卒業間際に中退して4人だけのこの一座に入座します。当時の心境が、朝日高校同窓会資料「私たちの先輩」―竹田喜之助―{小山頌晃先生(平2〜平15在籍)執筆}の文中に、NHKドキュメンタリー番組「ある人生」での自身の語りとして紹介されていますので、抜粋します。
 

竹田扇之助()と喜之助

 ・・・そのころ自分自身がある状態の中に飛び込んで自分を投げ込んで見たいという衝動があった。20歳前後の青春時代を戦争の中で過ごし、これから先というのは戦争に行って死ぬんだということしかなく、目の前の死という問題を避けることはできなかった。それが終戦を迎えてすっかり勝手がちがってきて、気持ちが中ぶらりんになっていた・・・

 ・・・師匠が何十年もの間、苦しい中を守り続けてきた操り人形の技術とか舞台などの話を聞いたり、それを受け継いで何とか伸ばしていきたいという熱心な抱負などを聞いて、偉い人だなと感心していたら、「実はこの伝統芸を守り続けていこうにも、なかなか人がいない。あなたのような熱心な人は珍しい、ぜひやってくれないか。」と言われた。突然のことでめんくらい、考えさせてほしいと言って寮に帰った。こういう古くから伝わって来たものをどういう風に受け継いでいくかということは、大変な問題である。こういう問題に取り組むには、自分で身をもってその中に入っていってこそ何か考えられるのではないかというようなことを思い、それに自分のような者でも役に立つ場所があるのなら、ひとつやってみようという気になった。・・・

 こうして岡本青年は、それまでの学歴も知識も約束された将来もすべて捨て、苦難の糸操り人形の世界に飛び込みました。なんともすごい就活です。当然にも彼に期待をかけていた郷里の父親は激怒し、落胆し、勘当に近い形になりますが、母親は内緒で物心両面での援助をしたそうです。


人形師としての歩み

 一座が住む東京・上野稲荷町の九尺四間(およそ2.7m×7.2m)の長屋に同居し,一畳の押入れをベッドにして結城糸城三(ゆうきしきぞう)の芸名で修行は始まりした。戦後そのころの糸操り人形はまだ見世物に近い扱いで、進駐軍(GHQ)回りのショーの前座か、寄席やお座敷の芸程度の評価しかなかったといいます。

 人形師としての糸城三は人形のあやつりを習いますが、やがて人形のかしら(頭部)も彫るようになります。ショーの合間に喜之助が何気なく木片を彫り始めたとき、そのナイフの動きを見た扇之助が瞬間的に「いける」と確信して、彫ってみたらと勧めたのがきっかけといわれます。

 戦争で多くの人形が焼けて残り少なく、かしら専門に彫る人もいなかったためにやむをえず始めたのでしたが、小さな人形の顔で観客に様々な感情表現を理解させるようなものを彫り上げることや、その中をくりぬいて仕掛けを仕込むことは難しく、苦難の道は続きます。
   
 1955年、結城孫太郎一座は竹田人形座となり、糸城三改め竹田喜之助となりました。同年竹田人形座は東京都指定無形文化財となり、兄弟子竹田扇太郎と喜之助の二人三脚で新時代の糸操り人形追求が本格化していきます。

 やがてかしらはもちろん、胴体や手足、それらを糸でコントロールする手板の制作も手掛け、「斬新なプランを練り、アイデアを考える扇之助」と「それを実際に生かして制作する喜之助」のコンビは研究を重ねて独自のものをつぎつぎと生み出していきました。

 喜之助の人形を使った各地での公演では、子どもはもちろん、多くの人々に親しまれ愛され、テレビ放送の勃興期以来、毎年何本もの番組が放映されるようになりました。喜之助の人形について、美術家の飯沢匡氏は後年こう語っています。

 「あの人(喜之助)は東大の工学部出身で、しかもいちばん難しい航空工学でしょ。世が世なら大企業の技師長、うまくゆけば重役でもなろうという人。それが人形作りに入った。まあ稀有のことですよ。日本の人形の伝統は徳川時代のからくりを見ても分かる通り、もともとメカニックなものだったんですね。その伝統が文明開化で否定されたわけですが、西洋の学問の中でも近代的な航空工学といういわばメカニズムの粋を修めた喜之助さんが、人形の世界にそれを持ち込んだのですね。その意味で、からくりを蔑視してきた人形界の中で日本の伝統に新しい展開を与えたといっていいでしょう・・。」

 また、岡山一中時代の岡本青年の同期生で、朝日高校で数学の教鞭をとった太田進先生は「おとなしくて真面目で勉強好きの成績の良い生徒で、まさか人形劇の方へ進むとは思わなかった」と語っています。     
 

 

喜之助人形、世界へ未来へ

 全国での公演やテレビ放映を通じて、確固たる評価を得るようになった竹田人形座は、1968年以降、国際交流基金の援助を受け、人形劇のさかんなヨーロッパをはじめ5大陸に足跡を残す延べ6ヶ月の海外公演を行なっています。

 その評価は「竹田人形座の人形劇の舞台には、強烈な意思の表現が見られる。人形つかいは手に無数の糸を持って構え、オーケストラの演奏家のように人形を操る。その妙技は、驚くほど正確に人から人形へ伝わってゆく」(スウェーデン) 「扇之助・喜之助によって操られる人形たちは、まさに古典の演じ物にふさわしく、精妙で複雑な動きをし、観衆の目はその小さな姿態に釘付けとなった。人形自体にも大変魅了されたが、舞台の目を奪ってしまうのは、その詩的で優雅に操られる動作にほかならない・・・」(イギリス) などの言葉に表されています。

 こうした海外公演を経験した扇之助・喜之助の二人は、将来の方向性を「日本独自の伝統芸能・糸操りをしっかりと受け止め、より良いものに育てること。その良さをこどもたちに伝えること」と定めて、帰国後、撮影スタジオを「母と子のための公演」用に改装し精力的に公演を行なったそうです。そんな竹田人形座のあり方に共感した地元足立区では竹ノ塚ホールに世界一を誇る人形劇場をつくりました。
 

突然の訃報

 ますます精力的に活動を続けてきた喜之助は、1979年8月、竹ノ塚ホールで「橋弁慶」の舞台を扇之助と共演します。その際のことを扇之助は「喜之助の研ぎ澄まされた、身震いのするような弁慶の至高の演技に、隣で牛若を遣っていた私は、ただ見とれるばかりで操るのを忘れるほどだった・・」と語っています。

 その舞台の後、8月31日喜之助は稽古後、バイクで帰宅途中にトラックと衝突。その時は近くの病院で額を縫っただけで元気で帰ったものの、夜、悪化し救急車で病院に運ばれます。治療もむなしく、脳の4分の1が挫傷していて、9月5日、亡くなりました。享年56歳。まだまだこれからの活躍が期待される円熟の最中のことでした。


喜之助という人

 帰らぬ人となってしまった竹田喜之助ですが、その輝かしい功績もさることながら、なによりもその人柄にこそ、後輩として心打たれるものがあります。弟子であった飯室康一さんが綴られた文をご紹介して締めくくりたいと思います。

 私たちがいつまでも喜之助さんにこだわるのは、師がのこされた偉大な業績とその素晴らしい人柄を語り継ぎたいという思いからです。口数が少なく、地位とか名誉とかいった欲に恬淡な人だっただけに、誰かが口にし、文章にしなければ、歴史に正当な評価が残せないのではないかと不安に思います。我々の思い出だけにしまっておくにはあまりにも偉大な存在です。

 『糸あやつり』という一ジャンルに止まらず『人形劇』『人形芸術』『演劇』といった世界において括目すべき業績を遺された歴史的な人でした。しかしながら、その面だけのことであれば、これほど喜之助さんにこだわることもなかったと思います。穏やかで、優しく、お人よしで、いつも貧乏をしていた喜之助さんとそのご家族、大都会の片隅に吹き溜るように集まった若者たちを、そんなに広くない家に呼んではご馳走をしてくださったり、サイクリングにつれて行ってくださいました。

 仕事の帰り、トラックの荷台の荷物に埋もれながら腰掛けていた喜之助さん。北千住の駅で別れて、我々の乗った車が見えなくなるまで手を振っていた喜之助さん。そんな飾らない喜之助さんの姿を思い出すにつけ、その生き方に感銘を覚えます。終戦後、東大を中退し、この世界に飛び込まれた喜之助さんに当時高校生であった私は、憧れていた『挫折』とか『虚無』とかいった言葉の幻想を見いだしていたのでしょうか。が、実際の喜之助さんは、もっと深く、大きな人であった。

 『そんな素晴らしい人がいた』事をより多くの人に知ってもらいたいし、考えてほしい。・・・しかし、私たちがどんな言葉で師の人柄を話すより、師の作られた人形たちが何よりも雄弁にそれを物語るでしょう。喜之助さんの人形を見てください。その人形から温かい師の心が伝わってくるはずです。

 『如何に生くべきか』・・そんな時、私はいつも喜之助さんを思い出します。いくら巧みな言葉や、美しい文章で自分を飾っても、品位の無い人は益々醜く見えるが、何も言わなくても存在するだけで(たとえ亡くなってからでも)光り輝いて、私たちの道を照らしてくれる人もいるのです。

(『喜之助フェスティバル通信』より)


 

 

おもな竹田喜之助作品のご紹介

<公演> 橋弁慶、雪ん子、鶴の笛、泣いた赤鬼、つる(大阪万博)、きつねのよめいり、ばろっく、ヘンゼルとグレーテル・・・
<放送> 西遊記、宝島、宇宙船シリカ、ブレーメンの音楽隊、双子の小熊、一寸法師、ドレミファ船長、おとぎの部屋、チビクロサンボ、銀河少年隊、セロひきのゴーシュ、人魚姫、白雪姫、空中都市008、ブルルくん、百合若、太陽の子マタラベ・・・

 

● 参考・引用させていただいた文献は以下のとおりです。

  〇喜之助人形(竹田喜之助顕彰会1998年発行)
  〇私たちの先輩(朝日高校同窓会資料)


● ご協力いただいた施設のご紹介

喜之助記念室

 邑久郷土資料館
 邑久町の貴重な文化遺産が数多く保存されています。ここには郷土資料室、民俗資料室、門田貝塚資料室、考古資料室の4つの資料室と世界的な人形師竹田喜之助の2つの記念室(喜之助記念室、喜之助フェス記念室)が設けられています。

 郷土資料館では、邑久町出身で画家詩人の竹久夢二、アミノ酸研究の権威・古武弥四郎などやゆかりの知識人の軌跡をたどることができるほか、門田貝塚資料室には門田貝塚から出土し、「門田式」と呼ばれている土器や、貝層断面パネルなどが展示されています。

 営業時間: 午前9時〜午後4時30分
 休場日: 月曜日、祝休日の翌日
 料金: 入館無料
 問い合わせ先: 電話:0869-22-1216
 所在地: 瀬戸内市邑久町尾張465-1
  施設内のご案内
  2F 門田貝塚資料室
  2F 考古資料室
  3F 郷土資料室
  3F 喜之助記念室
  3F 喜之助フェス記念室

喜之助フェス記念室には、人形劇の祭典「喜之助フェスティバル」に関するポスターやワッペン、銀河少年隊、ピエロなどの喜之助人形やフェスティバル出演劇団の人形などを展示しています。

 喜之助フェスティバル
 邑久町公民館周辺を舞台に、1988年以来、全国から集まってくる人形劇人との交流を深めてきたイベント。地元のアマチュア人形劇グループも多く育っています。毎年8月に開催されています。



岡山朝日高校同窓会公式Webサイト