● 同窓会のいろいろな資料や報告書類 ●
先 輩 た ち の 足 跡 を 訪 ね て
 岡崎 嘉平太  (大正5年卒

 <略 歴> 
明治30年 吉備郡大和村で生まれる
  44年 岡山県立岡山中学校入学(大正5年卒業)
大正 8年 東京帝国大学法学部入学
  11年 日本銀行入行、本店、小樽支店勤務、ドイツ駐在
昭和27年 日本ヘリコプター輸送叶ン立(32年全日本空輸鰍ノ社名変更)
  36年 同社代表取締役社長

  
42年〜平成元年(没年)まで同社相談役

岡山中学校1年生

 岡山県名誉県民の岡崎嘉平太氏は、明治30年(1897)岡山県吉備郡大和村(現加賀郡吉備中央町)で生まれ、小学校1年の暮れ自宅が焼失、総社町(現総社市)に転居。父は間もなく渡米し1917年客死したので、母に育てられ、明治44年(1911)県立岡山中学に入学後は寄宿舎に入り故郷を離れました。

 岡山中学時代に中国からの留学生と交わり中国に深い関心を寄せ、第一高等学校在学中に日中友好の決意を固め、生涯にわたって両国の友好に尽くしました。戦後、日中の国交が途絶えた時代に貿易の発展を通じてその回復を願い、日中覚書貿易の中心的役割を果たし、国交回復の実現に導いてきたことは特筆すべきことです。そして戦後百回にものぼる訪中を通じて両国の交流と繁栄を願い、周恩来総理とは厚い友情の絆を結びました。

日本銀行本店勤務時代

 また、独自の経営哲学と人生観を持ち、財界人としての活躍のみならず貯蓄増強運動など多方面にわたって多大な業績を遺しました。
 その生涯は、信頼と愛情に支えられたヒューマニズムの精神に立ち、国際的視野のもとに東西思想の融合を図ることにより人の世の平和を希求してやまないものでした。

 第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、日本銀行に入りドイツにも駐在。
 昭和13年(1938)陸軍省事務嘱託として上海に駐在、翌年、華興商業銀行が設立されると理事となり、日銀を退職します。

 第二次世界大戦後、終戦処理を済ませて昭和21年(1946)帰国、公職追放の身となりますが(1950年解除)厳しい労使紛争のなか企業の再建に取り組み、その再建を果たします。また、航空会社の経営にあたり、日本の民間航空事業の発展に貢献しました。

昭和46年 周 恩来総理と歓談( 北京人民大会堂にて)

 平成元年(1989)、92歳で逝去。
 常に、高い志をもち、信頼と愛情に満ちた岡崎氏の人柄は、人々の敬愛の的であり、数々の功績に対し、勳一等瑞宝章、賀陽町名誉町民章、総社市名誉市民章、岡山県名誉県民章が贈られています。







■岡崎嘉平太記念館■


記念館正面入口
 岡崎嘉平太記念館は、岡崎氏の生涯とその思想、多くの功績を次の時代の人々に永く伝えるための顕彰記念事業として、氏の生誕の地、吉備中央町に平成13年(2001年)8月に開館しました。遺族から贈られた遺品を中心に約7500点が収蔵されています。

 展示室と研究室が設置され、展示室には、岡崎氏の書をはじめ、中国の要人から贈られた品、訪中時の記念品や、飛行機の模型など、岡崎氏をしのぶ品が展示してあり、書斎の復元コーナー、ビデオコーナーも設けられています。また研究室には主に岡崎氏の蔵書や、氏が理想としていた東西思想融合の研究のための文献などがあり、希望により閲覧できます。


大正5年3月 岡山中学校卒業式の日
(前列左が岡崎嘉平太氏)


 岡崎嘉平太記念館ホームページ
http://www.okazaki-kaheita.jp/index.html

<主な展示品>

 常設展示室では、岡崎嘉平太氏の生涯を、随時展示替えをしながら年代順に紹介しています。
 まず学生時代、それから日本銀行・ドイツ勤務、華興商業銀行勤務、上海時代〜終戦、会社再建、全日空等の経営、貯蓄増強運動、そして日中友好に尽くした時代と分かれています。また愛用品や書等も展示しています。




引き出しの中の愛用品
「信はたていと 愛はよこ糸 織り成せ人の世を美しく」 は岡崎氏が信条としていた言葉です。

本頁に掲載の文章及び写真は、岡崎嘉平太記念館の協力と許可を得て転載(一部追加)しています。

岡山朝日高校同窓会公式Webサイト