■仁科芳雄博士について■
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少年時代の博士 |
岡山中学校を明治43年に卒業した大先輩、「日本の現代物理学の父」といわれる物理学者です。
明治23年、岡山県浅口郡新庄村(現:里庄町)に生まれました。東京帝国大学電気工学科を首席で卒業後、(財)理化学研究所(理研)に入り、その後上記の略歴のとおり、欧州各国へ留学し、デンマークではノーベル賞受賞者で量子論の創始者、ニールス・ボーア博士の指導を受け、「クライン‐仁科の公式」を完成して世界的に有名になりました。
帰国後は、各地で量子力学の講義をし、京都大学では、湯川秀樹先生や朝永振一郎先生が聴講し、やがてこの二人は、ノーベル賞を受賞されました。そういった量子力学を日本に広げた(指導した)ということは、仁科博士の大きな功績の一つです。
昭和6年から理研を拠点に宇宙線研究、原子物理学の研究を進め、サイクロトロン建造に着手しました。
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岡山中学では庭球部で活躍
(朝日高校発行「写真で綴る百三十年」より)
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昭和20年8月6日、広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地へ赴き、爆弾投下による被害を調査した結果、原子爆弾であると断定、政府に報告しました。これが日本敗戦宣言の一因となりました。
戦後、アメリカ兵により、仁科博士の作ったサイクロトンは壊されてしまいましたが、これはアメリカ側の誤解によるものであったようで、原爆を作る装置だと思ったようです。後に科学の研究のためであるということがわかり、アメリカの占領軍が謝ったということです。
戦後は国内の科学研究の振興に尽力し、日本学術会議第1期副会長に就き、昭和21年には文化勲章を受章されました。
(財)理化学研究所は1948年に解散し、(株)科学研究所が設立され、その社長職に就きましたが、資金繰りに奔走することも多々あったようで、仁科先生はそのことに心も、体も痛められたそうです。原爆調査に行ったことも一因であるように言われていますが、1951年1月10日、60歳という、まだまだ研究を続けていくことができる若さで亡くなりました。
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岡山中学校時代の集合写真 (上から二段目の左から5人目) (柴田英一氏提供) |
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昭和24年11月21日 創立75周年記念公演中の仁科芳雄博士。 演題は「我等の行手」。博士の背後には
「原子爆弾のできるまで」と書かれている。博士はどちらも演題と言われているという。 (大元泉氏提供) |
上の記念講演会の写真は、弟子の湯川秀樹博士が、日本人初のノーベル賞をとった昭和24年10月から約1か月後の11月21日、創立75周年記念で講演をされた写真です。本当にタイムリーな講演会だったようです。その2年後の昭和26年に亡くなられました。
■仁科記念財団■
1955年に、仁科芳雄博士の偉大な業績を称えるとともに、原子物理学の基礎とその応用の分野において優れた研究者を育成するという博士の遺志をつぐ事業を行うため、財団法人仁科記念財団が設立されました。
原子物理学の研究者を表彰する仁科記念賞、研究者の海外派遣、発展途上国の研究者の招聘、講演会などいろいろな事業が行われています。
(詳しくは仁科記念財団のホームページへ)
■仁科会館■
仁科会館は「科学振興仁科財団」が設置する顕彰展示施設です。仁科芳雄博士を顕彰し、次代を担う青少年に科学する心を育み、心身ともに健全な青少年の育成を図ることを目的として平成元年に設置されました。
仁科博士に関する資料の展示のほか、科学講演会、理科教室、ロボットコンテストなどの事業を行っているところです。また、仁科博士の生家の管理、公開も行っています。
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開館日 |
火曜日〜日曜日 (但し、第3日曜日は休館) |
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開館時間 |
9:00〜17:00 |
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入館料 |
無料 |
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交通 |
JR里庄駅下車、車で5分、徒歩20分
岡山県浅口郡里庄町浜中892ー1 |
(詳しくは仁科会館のホームページへ)
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さつきの花の頃の生家 |
■仁科博士の生家■
博士は、農業・製塩業を営む仁科存正の第8子4男として生まれました。代々、大庄屋、代官を務めた家柄で、屋敷は江戸中期に建造されたものです。
庭園もみごとで、梅の花の咲く頃は「観梅会」も行われています。
仁科芳雄博士生家は、毎週日曜日に一般公開されています。
本頁に掲載の写真の一部は、仁科会館の協力により撮影させていただきました。
また掲載について許可をいただいています。
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