● 同窓会のいろいろな資料や報告書類 ●
先 輩 た ち の 足 跡 を 訪 ね て
森谷 司郎 (昭和26年卒) 

1931年(昭6)   9月28日東京都にまれる
1948年(昭23)   金光中学から 岡山県立岡山第一高等学校に転入
1951年(昭26)   岡山県立岡山朝日高等学校卒業
1955年(昭30)   早稲田大学文学部仏文科卒業
            東宝撮影所演出部入社
1966年(昭41)   「ゼロファイター大空戦」で監督デビュー
1973年(昭48)   「日本沈没」
1977年(昭52)   「八甲田山」
1680年(昭55)   「動乱」
1982年(昭57)   「海峡」
1984年(昭59)  12月2日没

はじめに
 ここ数年、戦後の映画界で人気を博した名優たちが、幾人も惜しまれながらこの世を去っていきました。高倉健、三国連太郎、米倉斉加年、山口淑子、大滝秀治、淡路恵子、原田芳雄、菅原文太・・・。この戦後の映画界で彼らとともに数々の大作・名作を創り出したのが映画監督・脚本家の森谷司郎でした。代表作には「八甲田山」「日本沈没」「動乱」などが挙げられます。
 以下、朝日高同窓会資料「私たちの先輩」に小林宏光先生(昭和60.4〜平成13.3)が寄せられた文章や、岡山朝日高校演劇部史「演劇に燃えた高校生たち」末安哲先生(昭49.4〜昭57.3)著などを参照さていただき、森谷先輩にアプローチしてみたいと思います。(以下敬称略)

入学前
森谷は1931年(昭6)東京に生まれ、やがて家族とともに台湾に渡り、終戦とともに父の郷里である金光町に引き揚げ、後に笠岡に住まいしました。私立の旧制金光中学校に入学しましたが、学制改革の最中、1948年(昭23)岡山一高に転入し、笠岡から列車で通学を始めます。
(岡山一中は学制改革により昭和23年4月岡山第一高等学校と改称、24年8月には高校再編成が行われ、一高は二女高と合併して朝日高校となった)
 
朝日高時代
昭和25年4月 3年C組のクラス写真
 当時は映画の全盛期でもあり、大の映画好きの森谷は、岡山はもちろん笠岡、福山、尾道の映画館にも通いつめたといわれます。部活動では映画部・文学部・演劇部に属しました。

 映画部では映画評論雑誌『シネマディクト』を自ら発行して健筆をふるっています。その創刊号で森谷は「映画のにおい」と題して次のように述べています。
・・・われわれの身辺に動めいているものは、そのもの特有のにおいをもっている。それはわれわれの感覚の対象に他ならないが、われわれはそのにおいの判断によって人間的な生き方をしているわけである。 / 映画の鑑賞法は万人が異なったものであってもかまわないが、僕は映画にもこの種の臭の濃厚なことをみとめざるを得ない。映画も他の部門の芸術と同じように人間の感覚(臭)に根ざすものであるから、当然映像からは、強い感覚的な臭を発散させるわけであろう。 / 映画の中に溶けこみながらも自己を無視して他に頼ることは、創造性のない自己害毒的な芸術の模倣に他ならず、遂に何物をも得ることは出来ないであろう。映画は典型的・代表的な感覚芸術であるから常に一首の歌や一篇の詩の創造性を通じて得られるような人間的(肉感的)臭(感覚)を覚え、尊重することが根本的な態度であると思う。その臭を言葉で割切っていく事が出来るようになれば、その人は立派な映画批評家であるが、僕は僕なりで、犬のように映画が発散する臭を嗅ぎながら楽しむことによって、充分映画を楽しみ自己の知量としていくことが出来るのである。・・・・(1950年1月23日発行) 映画へ強烈な思い、愛情が高校時代からみちあふれています。

文学部では短歌に力を注ぎ、「岡山県学生合同短歌会」に参加、毎月のように各校持ち回りで開かれる歌会に出かけました。そうした学生歌人の短歌集の中に、森谷の作品をみることができます。
  よき時世が必ず来むと自慰しつつこの朝も兄は門を出てゆく
  麦の穂が大きくなったと言ふ伯父の火鉢に出だす手の節太く
  空席を見出し得ざる老人が二人して駅の無秩序を嘆く

 また、次のようなエピソードが小田晋氏(昭27卒 精神科医、精神病理学者、筑波大教授 平25年没)から紹介されています。「私たちの一級上の森谷司郎さんに、三年の時新聞に論文をかいてもらった。ところが、編集、割りつけの段になって行数の計算を間違って誌面が足らなくなり、何食わぬ顔をして文章の(中抜き)をして出したところが、無断で人の文章を弄るとは何事だというので、廊下に呼び出されて殴られた。これは考えてみると、どうも当方が悪いのであるが、後年の大監督は怪力で、一発で吹っ飛ばされたように思う。」繊細な歌人の内に秘めた激しい情熱を感じることができます。
 演劇部では二年生の文化祭で「二十歳」という戯曲をぜひ演じようと申し出ています。この戯曲は、自殺願望の青年が山小屋に来たところ、同世代の脱獄囚と出会い、さらに彼を追う老巡査とも出会い、彼らとの問答や葛藤の末、最後に自殺を断念するというストーリーでした。この「二十歳」に森谷はなにか強い思い入れがあったのかもしれません。後年の彼のシナリオにも影響を与えたかもしれません。それは最後に触れたいと思います。

大学時代(左から2番め)
朝日から早稲田へ、そして東宝入社
 1951年(昭26)朝日高を卒業した森谷は、早稲田大学文学部仏文科に進み、映画研究会でますます映画への思いを募らせ、1955年(昭30)に卒業すると、東宝へ入社します。成瀬巳喜男監督や、すでに世界的に著名であった黒澤明監督の助手として仕事を重ね、彼の意欲と力量はいっそう高められていきました。
 
青春映画の時代
 1966年(昭41)、加山雄三主演「ゼロファイター大空戦」で監督デビューした森谷は、被写体が完全な状態でなければ映さない、という黒澤監督の<完全主義>を堅持してさらに邁進していきます。1967年(昭42)には「育ちざかり(十朱幸代・内藤洋子・黒沢年男)」、「続・何処へ(加山雄三・池内淳子・いしだあゆみ)」を撮り、1968年(昭43)「首(小林桂樹・下川辰平)」では、戦時下、警察で死んだ男の死因に疑問を抱いた弁護士が、墓をあばき、死体の首を再検査して真実を追求していく執念を描き、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞しています。
 森谷が30代半ばから40歳ごろまでのこの時期、若手スターを起用した青春映画も多数制作しています。
 「兄貴の恋人(加山雄三・内藤洋子)1968」 「二人の恋人(加山雄三・酒井和歌子)1969」 「弾痕(加山雄三・太知喜和子)1969」 「赤頭巾ちゃん気をつけて(岡田裕介・森和代・中尾彬)1970」「 されどわれらが日々―別れの詩(小川知子・山口崇)1971」 「蒼ざめた日曜日(浅丘ルリ子・若林豪)1972」・・・これらをヒットさせ、実力派新人監督の評価を確たるものにしました。

大作への挑戦

 1973年(昭48)、森谷は小松左京原作「日本沈没(藤岡弘・いしだあゆみ・小林桂樹)」を完成させます。大スペクタクル作品のこの映画は、配給収入日本記録20億円、観客動員800万人を達成し、エンターテインメント映画の作り手として森谷は新たな段階にいたったのではないでしょうか。

 この後、東宝を離れた森谷が、初めて手掛けたのは、1977(昭52)年の「八甲田山」でした。この映画は新田次郎の『八甲田山死の彷徨』を映画化したもので、厳寒の八甲田山で3年の月日と7億の製作費をかけた空前の大作です。配役は高倉健、北小路欣也を中心に男優は丹波哲郎、大滝秀治、三国連太郎、緒形拳、加山雄三・・女優では栗原小巻、加賀まりこ、秋吉久美子・・と超豪華メンバーでした。この映画について森谷は「映画の思い出」の中で次のように述べています。「・・・『八甲田山』を作るために三年、毎冬津軽の山の中に入った時の体験は、私に新しい目を開かせてくれた。/ それまで私にとって劇映画は、人間と人間の関係を描くことが主で、自然や宇宙は背景にすぎなかった。しかし人間と人間がかかわり合う前に、人と自然と宇宙との大きく深い関係があることを、私は『八甲田』を撮ることで知ることができたように思う。/ 人間がとても生活することができないような自然の状況の中に私自身が身をさらしてみて、映画の登場人物について頭の中で考えていた人物像が次々に崩れ、人間の無駄と虚飾が剥がれ落ちていき、人間にとってほんとうに必要なものは何か?ということから目をそらすことのできない経験を得ることができた。・・」この映画も観客動員600万人の盛況でした。

 この後も、大正期、木曽駒ケ岳への修学旅行登山で教員、生徒が遭難した実話をもとにした「聖職の碑(鶴田浩二・岩下志麻・三浦友和)1978」、五・一五事件、二・二六事件と続く軍内対立と暴走の時代、その最前線の青年将校を描いた「動乱(高倉健・吉永小百合・米倉斉加年・志村喬)1980」、江戸時代、無人島に漂着した漁師が13年ぶりに帰還を果たす「漂流(北大路欣也・高橋長英・渡瀬恒彦)1981」、青函トンネルの事前調査から開通にいたるまでを描いた「海峡(高倉健・吉永小百合・笠智衆・大滝秀治・三浦友和・大谷直子)1982」など2時間半におよぶ大作を生み出し、日本の代表的映画監督としての歩みを確実に進めていました。これらの森谷の映画においては、大きな困難に直面した人間が、真摯にそれに立ち向かって行く姿が描かれている、と評されています。

突然の死
 いっそうの活躍が期待されていた森谷はしかし、1984年(昭59)12月2日に胃がんのため突然帰らぬ人となりました。「八甲田山」の脚本を手がけた橋本忍さんは「残念です。理屈ばかりをいう人が多い映画作家の中で、彼は示す人、言葉より先に行動する人でした。だから作品も生き生きしていた。日本の映画界にとって大きな損失です。」と語っています。また、吉永小百さんは葬儀の際、「ロケでは厳しかったが、本当はやさしい人。厳しい自然の中でしか、いいドラマは作れないと言い、こんどはもっと明るい作品を作ろうね、と言ってくれたのに、ウソツキ。」と別れの言葉を述べ、参列者の涙を誘ったそうです。

最後に
 朝日高演劇部で「二十歳」を演じた森谷は、約20年後の1973(昭48)年に「二十歳の原点」という映画の脚本を担当しています。この「二十歳の原点」は1969年(昭44)、立命館大学文学部日本史学専攻の高野悦子さんが20歳で自殺した後、彼女の日記を原作として出版され、ベストセラーになり、映画化されたものです。筆者も朝日高在校時に、原作を読み、映画も見ました。ベトナム反戦運動はじめ学生運動高揚期にあって、自身の生き方や未来について苦悩し、葛藤し、逡巡する二十歳の言葉は、心に残っています。「・・一人であること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。・・・」「・・旅に出よう、テントとシュラフの入ったザックをしょい、ポケットには一箱の煙草と笛をもち、旅に出よう・・」。筆者も偶然ながら立命館大学文学部に進学しましたが、その当時(1975年)、高野悦子さんの名前を知らない学生はほとんどいなかったし、彼女に共感して立命館に来たという先輩や友人が幾人もいたのを覚えています。
森谷は、誰もが通過する青年期の様々な心模様・・孤独、不安、虚無、自他への怒り、自己犠牲、希望、連帯意識・・・をこよなく愛し、そこで葛藤しながらも考えつづける人間の姿をもまた愛し続けたのではないでしょうか。

 昨年、森谷の作品で何度も主役を務めた高倉健さんが亡くなり、追悼映画がよく放映されています。高倉健さんを偲ぶと同時に、朝日高時代からの情熱やロマンを絶やすことなく、ますます燃え上がらせて共に映画作りに奔走した森谷先輩のことを偲びながら、再度彼らの作品をゆっくりと鑑賞してみませんか。

昭和54年「育英」という広報誌に掲載された寄稿文。前半は映画に出会った高校時代のことが書かれています。
(森谷夫人よりご提供いただきました。画像をクリックすると別ページで開きます)


 今回、森谷先輩の人物伝を作成するに当たり、ご協力くださった方々に心より感謝申しあげます。(株)東宝 様、協同組合日本映画監督協会 様 ありがとうございました。
 森谷先輩夫人からは、ぶしつけなお願いにもかかわらず、貴重なお写真や資料をお借りすることができました。心より御礼申し上げます。


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