2002年(平成14年)10月10日発行 同窓会会報 朝日

平成16年には母校創立130年を迎えます。
伝統ある母校の歴史を綴った校史の編纂作業を120周年を期に決定し、
130周年をめどに発行する予定になっています。
今回は関係者にお集まりいただき、お話をいただきました。

 
このコーナーでは、130周年にむけて校史編纂・名簿発行部分のみを掲載しています。全体をご覧になるには、毎年お送りする会報「朝日」をご覧ください。また、都合上、体裁の変更および略字の使用をしております。

高原  校史編纂の経緯についてお伺いしたいと思います。
高祖  創立80周年に大講堂。90周年に同窓会館。100周年に百周年記念館。110周年に同窓資料館と、周年ごとに会員の皆様の寄付金によって箱物を建てて参りました。しかし、120周年にはバブル後でもあり、箱物よりも内容の充実が重要であるとの意見が多数となり、校史の編纂となった訳です。
高祖日出夫
理事長
(昭和28年卒)
後神 100周年の時に、校内理事が担当した回顧展で資料を探したところ、資料がないことがわかり、まず資料を収集することでした。資料の収集には資金が必要でしたので、教育史資料を作って同窓会員に売って、資料購入資金を得るようにしました。百周年記念館の一室で資料収集が始まりました。
高原 平成8年から同窓会活動が同窓生主体に代りましたが、それまでは校内理事の先生方が同窓会運営の中心でした。同窓生は寄付金を出せ出せと反発が強かった印象があります。
高原 勝哉
総務委員長
名簿委員長
(昭和37年卒)
後神 昔は、退職する先生方のために、寄付金を集めたこともありますが、周年事業ごとに寄付金を集めるようになってきました。教育史資料は、10冊まで発行しました。10冊は学校で買い上げてもらい残りは知り合いの同窓生に押し売りのようにして購入いただいた。写真集は11冊目として考えていましたが、110周年の記念式典の来賓のお土産として作られ、現在、「写された120年」として発行されています。
略 歴
京都大学文学部史学科(国史専攻)卒業
以来、高等学校勤務、昭和46年〜昭和62年母校勤務
過去に、岡山東、岡山操山両高校の校史編集にたずさわる。
母校100周年の時から、資料を収集し、現在に至る。
後神 俊文
岡山朝日高校嘱託
(校史編纂)
(昭和27年卒)
高原 県内の他の高校では校史はどのようになっていますか。
後神 自分の学校をピーアールするために周年に記念の校史を発行して配布してきたようです。操山高は、30年・70年・80年・90年そして100周年とそれぞれ記念の校史を発行しています。岡山東商では戦前に40年史、60年、70年、80年、90年、100周年と節目に発行しています。朝日高は、節目に箱物を建てることに力を入れて、印刷物は作らなかったのです。
高祖 120周年で箱物から内容充実へと方向転換した訳ですが、資料収集や種々の事情を考慮して、執筆できるのは後神先生しかいないという結論になり、執筆をお願いしました。
後神 110周年の時に、生徒に伝統を伝えようと、新書版程度の沿革史を出そうという企画が没になったことがあり、その後、沿革史を書いてくれないかとの要望がありました。その時書けるのは一中時代までで、戦後の朝日校・二女も資料が無かったので書けなかった。それでお断りしたら、それでは、岡中・一中・二女・朝日高を含めた全部をまとめて書いて欲しいということになって、結局、引き受けることになりました。その結果、平成5年に校史作成委員会が編成されました。
高原 資料収集で苦労されていることは何でしょうか。
後神 戦後から昭和26年頃の資料がなかなか集まりません。職員会議録さえないのです。城跡から現在の地へ移った頃までです。
津崎 資料収集では、古い先生や知人に声をかけてはいますが、その方々が全部資料を提供していただいたかはわかりません。今後とも資料提供を呼びかけていきたいと思います。
津崎淳夫
副理事長
130周年委員長
(昭和30年卒
)
後神 戦前の資料は空襲で焼けて消失しましたが、戦前に校史が出ていれば活字として残ったのでしょうが。
若林 学校に校史が無いのはおかしいと思います。記録も記憶もどんどん消えていくものです。この期に発行していかないと伝統を伝えていくことはできないでしょう。
若林 久義
名簿編集長
(昭和50年卒)
後神 私は戦後の新制中学・高校の生徒として学んだ中で、教科書は購入したけれど、その当時の先生方は、教科書は使わず、先生自ら作成のプリントで授業を進め、難しい内容でレベルを下げないよう努められた。そのため、学校では、カリキュラムは、二重帳簿であったようですが、朝日高では、裏帳簿も、公式帳簿も残っていない。だから、そこまで切り込んでいかないと校史は書けないことになります。
高原 朝日高の先生方も細かい事にはこだわらない。だから書類も残さないという状態にあった のでしょうか。
後神 感じたことは、朝日出身の先生もそうでない先生も、前からの資料を引き継いでいないから、どうやっていいかわからない。それで自分なりに考え行動し、転任するとその人の個人の資料となり学校には残らない。朝日高の資料が残ってないのは、この他に、城跡から、今の地へ移転した時と、木造の旧校舎から現校舎に移った時の2回紛失の時期もありました。
終戦の昭和20年から26年頃までの資料を探していますが、その手掛かりは、その頃書かれた日記です。プライベートな事項も数多く書かれていてなかなか人には見られたくないとは思いますが、当時の日記がありましたら、是非、同窓会事務局へご連絡下さい。お願いします。
高原 後神先生のご経歴をお伺いして他校にはない、資料的価値のある学術的な校史になると期待します。
高原 来年秋に、同窓会員名簿を発行する準備を進めています。第42号は、従来の名簿の他に部活特集として、運動部・文化部の歴史とかその時代のトピックス等を、OB/OGの方々に依頼して原稿を集めています。横の関係が同期会ならば、縦の関係が部活だと思います。高校3年間ではありますが、青春の原点を思い起こせる内容を期待しています。
後神先生の校史が正史とするならば、部活動特集は、外史的な位置付けになると思います。
若林 毎年の部活動の記録は、『烏城』に掲載してあるので誰が部長なのか、誰がどの部に所属していたのかから調べ始めました。そして常任理事会メンバーの所属していた部活、また知人を調査し、原稿を依頼しています。
高原 125周年の回顧展は部活動特集でした。校内理事の先生方のご尽力により資料を収集してありました。今回はその資料が基礎資料となりました。運動部の中には毎年OB/OG会を開催して縦のラインがしっかり結びついている部が多いようです。文化部では、今まではラインが繋がっていなかったのが今回を期に繋がりつつあります。昭和20年代には戦後の自由な風潮の中で種々な部が誕生しました。時代背景と考えれば進取の精神もあったようです。
後神 明治17年卒業の村木正憲氏は当時の自由民権運動の中で校外の弁論大会まで出かけて行って警察に目を付けられたということもあります。政治家になるためには、 弁論が重要だった時代です。これが弁論史の始まりでしょうか。野球部とボート部は当時の花形でした。どこの中学校にもありました。
後神 明治30年頃、部活の中で運動部をリードした中にスポーツ万能の水谷武氏がいます。彼は早稲田に進みボート部に所属しましたが、その後演劇の世界で、演出家となり女優水谷八重子を育成しました。当時の岡中の在校生は150名で、まともに卒業するのは30〜50名でした。勉強する者は猛烈にし、そうでない者は、勉強以外の運動や文化活動に力を注いだ訳です。部活も生徒の力で盛り上げて行った様です。卒業証書が必要で入学してくるのではなく、この学校で勉強することに意義がありました。優秀な者に刺激されて勉強するようになったり、勉強以外の部活動で活躍   したりと、資質の良い生徒が集まり、あらゆる可能性に挑戦していったのが岡中・一中時代の伝統になったようです。
津崎 親戚も父も一中出身で、私も色々な一中時代の話を子供の頃から聞かされ、一中の伝統を引きついだ朝日高へ当然行くものだと思い、受験しました。
若林 私も、一中の話をまわりの人から聞かされ、当時、朝日・操山・大安寺の三校時代ですが、迷わず朝日を希望しました。
高原 官僚になるには東大卒という肩書きが必要になってからは、東大に何人合格したから朝日はすごいと言われるようになりました。
後神 明治・大正・昭和とそれぞれの時代に活躍した先輩達の足跡を尋ねることが伝統を知ることではないでしょうか。「自主自律」の言葉に象徴されるように、自分自身で決断し行動して来た先輩が、数多く見られます。
高祖 伝統とは一言では申し上げられませんが、「自主自律」が良い方に出れば、「自由な校風」「自重互敬」と表現され、悪い方に出れば、「エリート意識」「俺が俺がの世界」になるのではないでしょうか。
高原 岡中・一中の歴史を知ることは、激動・変革の現代を生きる我々にとって、何か人生のヒントを与えてくれるように思います。
文責 広報委員長 光畑 俊行(昭46年卒)