2001年(平成13年)10月10日  同窓会会報 朝日
第8号
発 行
岡中・一中・一高・二女・二女高
岡山朝日高校  同  窓  会

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このコーナーでは、恩師からの寄稿文のみを掲載しています。全体をご覧になるには、毎年お送りする会報「朝日」をご覧ください。

岡山一中最後の卒業式
香西 民雄(昭和23年卒)
(昭和31年〜平成7年在職)

 昭和18年4月に私は岡山城本丸にあった岡山一中に入学した。その年は太平洋戦争において日本軍の緒戦の輝かしい戦果が終わり、米軍の反撃が始まろうとする時であった。  岡山一中の制服は、7つボタンの詰襟に角帽、黒皮の編み上げ靴であった。私はその風貌に憧れを感じていたが、我々に与えられた制服は国防色の折襟の学生服と戦闘帽であった。憧れの7つボタンを着ていたのは4年生と5年生であった。  クラスはナ組であった。お城の天守閣前の広場から5年生(アイウエオ)4年生(カキクケコ)3年生(サシスセソ)2年生(タチツテト)とだんだん下に降りて一番下が1年生(ナニヌネノ)という組分けであった。従ってナ組といえば1年1組ということになる。  入学して廊下に身長の順番に並ばされそれがそのまま出席番号になった。私は36番で最後が55番であった。  1学期の期末考査終了後、宇野線で茶屋町まで行き、下津井軽便に乗り換え、本島に1週間の臨海学校に行った。母に6尺褌を作ってもらい民家に分宿しての水泳訓練である。英語の先生にローマ字を教えてもらい家にローマ字の手紙を書いたり、夜は上級生がやってきて怪談をして怖がらせた。夜中に航空母艦が通る時など飛び起きて感動をもって、眺めたものだ。  一方学校教練は毎日行われた。私は手榴弾が20メートル投げられなくて残された。月に1回くらい行軍があり、弁当、水筒を肩から下げて約30キロを行進するのである。  秋には1万メートルの全校マラソンがあった。お城をスタートして庭瀬方面へ白石橋あたりをおり返すコースである。12歳の私はずいぶん苦しく何回か寝転んで休んだ。私のタイムは55分であった。
 昭和19年秋から学徒動員が始まり2年生が最上級になった。空いた校舎は徴用兵の宿舎になり、運動場は厩舎になった。
 昭和20年3月には5年生と4年生が同時に卒業した。この年から今までのクラス名は廃止になった。  6月29日、この日から1学期中間考査が始まる日であった。未明岡山はB29による大空襲を受けた。岡山一中の校舎はお城とともに灰燼になった。その後片付けもそこそこに8月1日から、倉紡に学徒動員に行った。  そのため原爆投下も終戦も倉紡の動員先で迎えた。終戦後しばらく工場の後片付けをして10月頃には倉紡倉敷工場の作法室で寺子屋のような座り机で授業を受けた。  そのうち3年生と4年生は岡山の伊島小学校の校舎を借りて授業を開始した。
 昭和21年秋には待望のバラック建ての校舎がお城に完成し全生徒が同じ校舎で授業を受けることができるようになった。
 昭和22年卒業式は玄関前広場で行われた。同級生の何人かは4年修了で上級学校に進学した。  12月天皇陛下の岡山一中への行幸があった。
 昭和23年3月岡山一中の最後の卒業式が玄関前の広場で行われた。上級学校に進学しないものは新制の高等学校、岡山一高の3年生に編入した。
 最後に私の岡山一中時代の恩師の思い出は次のとおりである。戦時中、「祖国の為、天皇の為に死ぬことが悠久の大義に生きることである。」と教え込まれた。一転して戦後「民主主義だ。新憲法だ。」と言われ何がなんだか分らず、食物もほとんどなかった時、貧しい校舎で難波先生が北村透谷の文を筆記させたり、岡野先生が和辻哲郎の風土を講じ、土井先生がガリ版ずりの英語で英国の産業革命を教えて下さったこと、藤原先生が、宮沢賢治の「アメニモマケズ」を黒板一杯に書いてくださったことなど、岡山一中の先生方は非常に立派であった。
裏川校長やーい
後神 俊文(昭和27年卒)
(昭和46年〜昭和62年在職)

 本校の校史を綴るには、直接的な史料が絶無という時期が何度かある。創立間もない頃については、かつて資料を纏めるという作業が行なわれなかった結果で、いまさらどうにもならない。戦後の20数年については、資料をすべて破棄するという暴挙がなされていて、これまた手がつけられない。1枚のプリントが失せただけでも、復元するには気の遠くなるほどの時間を必要とする。でも、時間をかければ、史実に近づくことは不可能ではない。だが、今はとにかく時間が惜しいので、同窓の諸氏のご協力をお願いしたい。
 岡中・一中の歴代校長で、履歴が不明なのは裏川寅蔵先生だけである。履歴を知るために四苦八苦している。履歴書は本人の退職後も保存されるから、本校が空襲で焼失しなかったならば、残されていたはずである。本校が焼けても、例えば高梁高校は被害をうけていないから、そちらとも関係のあった教員については、残っていることが期待できる。
 ところが、裏川校長は本校が最後であったから、焼失した履歴書は前任校で探さねばならないのだが、前任校を示す一片の資料も、残されていない。裏川校長は大校長柳井道民先生の後任だったから、交代の時には、『烏城』も校友会の『会報』も、退隠された柳井校長の業績をたたえる記事だけが罷り通り、裏川校長が何県の学校から赴任されてかについては、僅かの言及もない。つまり、どこで履歴書を求めたらよいか、手掛かりさえ得られないのである。
 退職される時には、『烏城』は、大物校長として十二分に敬意を表しているが、死亡記事ではないから、履歴は書かれていない。
 こうなれば、遺族を探すことからはじめねばなるまい。郷里は、和歌山県日高郡南部町気佐藤であったという。戦前は、これで郵便物が届いたので、番地を書かない人も多かった。というわけで、とにかく年内に現地に行ってみようと思っている。娘さんが岡山で結婚されたという話も聞いたが、これは雲をつかむようなたよりない情報である。