1999年(平成11年)10月8日  同窓会会報 朝日
第6号
発 行
岡中・一中・一高・二女・二女高
岡山朝日高校  同  窓  会

事務局 〒703‐8278 岡山市古京町2丁目2‐21
         岡山朝日高校内
TEL(086)272‐1495・FAX(086)272‐1498
郵便振替口座  会 費 01390‐3‐48697
          名 簿 01350‐8‐6562
このコーナーでは、先輩や恩師からの寄稿文のみを掲載しています。全体をご覧になるには、毎年お送りする会報「朝日」をご覧ください。

岡山朝日高校の誕生
太田  進(昭和十六年修了)
昭和二十一年〜昭和六十年在職

 岡山朝日高校の前身は旧制岡山第一中学校である。古い岡山城趾にあり建物は古色蒼然としていたが、県下の秀才が集まり、その旧制高等学校への進学成績は例えば大正十三年の記録によると、東京一中、東京四中、神戸一中、京都一中についで全国第五位であった。昭和に入ってからも名門校としての伝統は続いていた。
 しかし、太平洋戦争が苛烈となり敗戦色も次第に濃くなり交通事情その他もろもろの状況から入試の選抜方法が変わった。当事の校長、高畑浅次郎氏は次のように述べておられる。
 『昭和十九年三月の入試選抜に文部省よりの命令で一中、二中、一女、二女の総合選抜をやるようになった。即ち、一中、二中の定員五〇〇名を合格させるのに志願者を一中に集め口頭試問による選抜をなし、合格者の考査成績を平等に分け、生徒の出身地を勘案して、一中、二中に分配したのである。発表の日、父兄が「一中に入学させたいのに、二中になっているのは怪しからん」とねじ込んで来たものもいた。この結果、男子師範学校附属小学校の合格者は殆ど二中に配分、一中には僅か一、二名しか入らなかったことを記憶している。昭和二十年三月の選抜も同様であったが、市内地図上に線を引いて両校の配分を行い、又汽車通の分は、何線は一中に、何線は二中にとしたのである(中略)しかしこの総合選抜によって、一中、二中の合格者の学業成績は均分されたのである。尚、昭和二十一年三月の入試選抜(旧制中学最後)は昭和十八年以前に復帰して、一中、二中、別々に行われた』と述べられ、この時点で総合選抜は中止となり、つかの間、一中はもとの姿にかえった。
 戦後アメリカの政策により一中は新制高校となり二女と合併して岡山朝日高校が誕生した。
 当時の六高校長、黒正嚴氏は新制岡山大学の核を六高に置こうとしたが、その努力は空しく六高校舎は不用となった。そこで、岡山城趾を立ちのく事を条件に朝日高校へ譲られることになった。
 昭和二十五年秋からいよいよ旧六高跡地での朝日高校の新生活が始まることになった。その移転にともない夏休みの終わり頃、当該学年は暑いさ中、生徒は各自の机と椅子を手に持ち、相生橋を歩いて運んだ。全生徒が国富校舎に移動を終えるのには、尚、数年かかった。広い校舎へ移ってからは運動部、文化部の部活は大いに活気づいた。野球部は広いグランドで大いに打ちまくり、ラグビー部も活躍した。文化部も、広い講堂や六高の実験室が利用出来るようになり、随分と盛り上った。運動会後のファイヤストームも行われるようになった。戦後の自由な空気と相まって勉強にクラブ活動にと活きいきと励んだ当時の生徒達の姿が目に浮かぶようである。昭和三十年、一中卒業生赤木元藏氏は公選制の教育委員長に就任された。その頃岡山市内の普通高校(朝日、操山)は、その総合選抜方法をめぐっては、角逐を避けることが出来なくなっていたが、赤木氏は全県的な視野から五パーセントの学区外出願制度推進の先頭に立たれた。これは定員の五パーセントを学区外から選抜に寄らないで受け入れる制度であり県下の秀才が本校をめざして出願し、「岡山朝日」の名を高めることになった。その後多くの新設校も生れ選抜方法にも紆余曲折があったが、今春からは総合選抜廃止となり、自由な出願となったようである。

郷土の誇り
神野  力(11年卒)

 私は昭和十一年に岡山一中を卒業し、大学(早稲田大学文学部)と軍隊生活以外は生れ故郷の総社市の片田舎に住いして今に至っている。強いていえば喧噪な都会が嫌いだし、人付合いがわずらわしいし、幸いにも岡山で就職もできたから、何回か都会生活の誘いもあったが断ってきた。しかし、考えてみれば岡山の平野部はともかく、中国山地に続くどちらかといえば女性的でおだやかな自然は、決して雄大とは言い難いが、時に世の煩わしさを慰するに充分で、この景観をこよなく愛し、常に心の糧として現在に至っている。「ふるさとの山に向いて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな」これは石川啄木が東京にいて、故郷の山に恋いこがれて作った歌だが、日常故郷の山を眺めて暮している私は、この上なく幸せと思っている。
 さて、私の勤務した先は文化財保護の仕事で、約二〇年間はその道一筋に努力してきたが、その過程で思ったことは、先人たちは時として自然を破壊することはあったが、おおむね自然に順応して事を行い、それが現在では故郷の誇り得る歴史的環境となっているのに感心する。たとえば、備中一宮吉備津神社の創建についても、古来霊山とされる吉備の中山の中腹を数pリり開いて、本殿をはじめ附属の諸施設(かつては神佛混合で寺もあった)が設けられている。これは今流にいえば完全に自然破壊で、まさに山を崩し森林を伐採して、それだけ考えれば目を蔽いたくなるような状態であったろう。しかし、そこに木造建造物を主体にした本殿や諸施設が建ってみれば、結果的には一種の美しい歴史的環境が生まれて、まさしく神威にふさわしい雰囲気がつくり出されている。もともと日本人は自然に神が宿ると考えていたから、神域をつくるにしても、山中は勿論平地でも社叢を大切にした。この考え方は庭園でも、大自然を縮小したいわゆる枯山水の姿を造成することにも}がるのだと思う。
 ところで吉備津神社といえば、現在の本殿は、応永三十二年(一四二五)に足利三代将軍義満が命じ、二五年の歳月を要して完成した全国最大の神社本殿で、出雲大社本殿の二倍強の大きさである。しかも六〇〇年に近い年月の間屋根替こそ五、六〇年に一度は葦替はするが、一度も大修理(解体修理)をしたことはない。これは木造建造物としては特に稀有に属することで、二つの入母屋造の屋根を並べて一つに構成した俗に吉備津造りといわれこれまた全国に例がない。ところが岡山県民は、先人がこのような日本の誇り得るすばらしい神社本殿を遺してきたことを知っている人は意外と少ない。
 岡山の人はこうした美しい自然や歴史環境に恵まれているために、かえってその有難さを感じる心が薄らいでいるのではなかろうか。これは歴史的人物にしてもしかりで、古代において活躍した人に、奈良の都の繁栄に大きく貢献した吉備真備や、平安(京都)遷都を建言し初代の平安京造営長官をつとめた和気清麻呂、あるいは中世初期に佛教や生活に大きな影響を与えた臨済宗をもたらした栄西のように、我が国の歴史に偉大な足跡を残した人々を、郷土の誇りとしてたたえる精神に缺けているのも、考えてみれば、岡山という恵まれ過ぎた環境が、かえって郷土愛を薄くしているようにも思われる。
 岡山一中で私より一年先輩の前知事長野士郎さんが「燃えろ岡山」を県政のスローガンにされたのもその辺にあり、私達は今一度誇りある郷土を見直すことが必要ではなかろうか。
終戦前後混乱期の二女
近藤登茂子(16年卒)

 昭和二十一年三月に卒業する予定者は、戦争がはげしくなり、全国的に繰上げ卒業の措置がとられ、二十年三月、四年終了で卒業となった。そしてその年の六月二十九日、岡山大空襲により、市の中心部にあった学校は灰燼に帰した。勿論それまで飛行機工場に動員され、勤労奉仕をしていた生徒の家も多くは戦災にあって焼失した。(うち一名は爆死)八月十五日終戦を迎え、学校も少しずつ焼跡の整理がはじまり、あちこちの学校や先生方のお宅をお借りして授業も始められた。但し罹災して学校に来られない遠方の親類や知人宅に行った人達があり、その人達二〇名は他の学校同様、昭和二十一年三月卒業となった。
岡山シンフォニーホールあれこれ
渡辺 圭介(21年卒)

 私が岡山一中に入学したのは太平洋戦争勃発直前の昭和十六年で、卒業したのも終戦の翌年ですので、まさに中学時代は戦争に明け暮れの日々でした。もともと岡山一中は自由の校風が強い学校と聞いていましたが、私たちの頃は軍事教練、勤労動員等軍事色一色の時代でした。戦争が終わりその後進学して建設省に入り、昭和四十五年に当時の岡崎岡山市長の要請を受けて、岡山市に出向という形で二〜三年のつもりで岡山市役所に来ることになりました。その後私の母が病気になったため、岡山に居着いてしまい、昭和五十八年に退職するまで建設局長、助役のポストにつくことになりました。
 さて私が退職した頃、岡山に音楽ホールを作って欲しいという声が各界各層の方々から高まっていました。事実、大阪には`残響二秒aというキャッチフレーズで、大阪「ザ・シンフォニーホール」という素晴らしいホールが建設され、すぐその後東京に「サントリーホール」が誕生したため、世界の一流のアーティストが良いホールを選んで演奏するようになったのです。岡山には昭和三十八年に、当時としてはいいといわれる岡山市民会館ができたのですが、その後ホールの音響技術が進歩し、良いホールが各地に出来るようになり、一流のオーケストラや演奏家は岡山を素通りするようになったのです。丁度その頃瀬戸大橋が建設されるのを契機に、格調の高いホールを岡山に作って岡山に拠点性を持たせようと、当時の長野岡山県知事、岡崎岡山市長、それに伊原木商工会議所会頭を始めとする経済界、言論界の人々がこぞってその推進に努力されるようになりました。
 このホール推進にあたって、問題は幾つかありました。まず場所をどこにするのか、また誰が建設主体になるのか、そして資金の調達はどうするのか等々多くの難問がありましたが、県、市、経済界、それに地元の地権者の大変なご協力によってやっと着工にこぎつけることが出来ました。そのうち最大の問題の一つは、音楽ホールと演劇や講演会等が行われる多目的ホールとは全然形態が異なるのですが、岡山のような地方都市ではその両方の機能を合わせ持つホールが必要だという点で、設計者の芦原先生とも大激論を交わし、全く新しいタイプのホールを設計して頂きました。これは音響的にも日本のトップクラスで、且つある程度の講演会や演劇も出来るというもので、これ以降多くのホールがこの方式を取り入れて来ています。
 そして平成三年九月二十三日にこのホールはオープンし、約四ヵ月間多彩な催物を開館記念事業として開催しました。その柿落としとしてサヴァリッシュ指揮のNHK交響楽団が演奏されたのですが、最初の音色がどの様なものかでそのホールの評価が決まるということで、関係者一同固唾を飲んで聞き入っていました。やがて演奏が終わり、多くの聴衆から万雷の拍手が沸き上がりました。指揮者のサヴァリッシュさんやN響のメンバーから、素晴らしいホールが岡山に出来たという絶賛の言葉を聞いて、芦原先生とともに手を取り合って喜び合いました。
 その後、岡山シンフォニーホールは文化庁から全国のモデルホールとして指定され、地元にオーケストラを作るような指導を受けまして、当ホールを拠点に、地元の演奏家を中心とした`岡山フィルハーモニック管弦楽団aが結成され、年二回の定期演奏会、県内各地でのスクールコンサート等を行って好評を博しています。
 現在ホールは世界的なオーケストラやソリストも来演して、利用率も八〇〜九〇%と多くの人々に利用されており、また創作オペラ「ワカヒメ」等岡山を発信する多彩なイベントを行っており、それが岡山の文化向上のため多少なりとも役立っているのではないかと思っています。
 少し手前勝手なことばかり書きましたが、今後とも皆様にも是非お立ち寄り頂きたいと思っています。