岡山朝日高校の誕生 |
太田 進(昭和十六年修了)
昭和二十一年〜昭和六十年在職 |
岡山朝日高校の前身は旧制岡山第一中学校である。古い岡山城趾にあり建物は古色蒼然としていたが、県下の秀才が集まり、その旧制高等学校への進学成績は例えば大正十三年の記録によると、東京一中、東京四中、神戸一中、京都一中についで全国第五位であった。昭和に入ってからも名門校としての伝統は続いていた。
しかし、太平洋戦争が苛烈となり敗戦色も次第に濃くなり交通事情その他もろもろの状況から入試の選抜方法が変わった。当事の校長、高畑浅次郎氏は次のように述べておられる。
『昭和十九年三月の入試選抜に文部省よりの命令で一中、二中、一女、二女の総合選抜をやるようになった。即ち、一中、二中の定員五〇〇名を合格させるのに志願者を一中に集め口頭試問による選抜をなし、合格者の考査成績を平等に分け、生徒の出身地を勘案して、一中、二中に分配したのである。発表の日、父兄が「一中に入学させたいのに、二中になっているのは怪しからん」とねじ込んで来たものもいた。この結果、男子師範学校附属小学校の合格者は殆ど二中に配分、一中には僅か一、二名しか入らなかったことを記憶している。昭和二十年三月の選抜も同様であったが、市内地図上に線を引いて両校の配分を行い、又汽車通の分は、何線は一中に、何線は二中にとしたのである(中略)しかしこの総合選抜によって、一中、二中の合格者の学業成績は均分されたのである。尚、昭和二十一年三月の入試選抜(旧制中学最後)は昭和十八年以前に復帰して、一中、二中、別々に行われた』と述べられ、この時点で総合選抜は中止となり、つかの間、一中はもとの姿にかえった。
戦後アメリカの政策により一中は新制高校となり二女と合併して岡山朝日高校が誕生した。
当時の六高校長、黒正嚴氏は新制岡山大学の核を六高に置こうとしたが、その努力は空しく六高校舎は不用となった。そこで、岡山城趾を立ちのく事を条件に朝日高校へ譲られることになった。
昭和二十五年秋からいよいよ旧六高跡地での朝日高校の新生活が始まることになった。その移転にともない夏休みの終わり頃、当該学年は暑いさ中、生徒は各自の机と椅子を手に持ち、相生橋を歩いて運んだ。全生徒が国富校舎に移動を終えるのには、尚、数年かかった。広い校舎へ移ってからは運動部、文化部の部活は大いに活気づいた。野球部は広いグランドで大いに打ちまくり、ラグビー部も活躍した。文化部も、広い講堂や六高の実験室が利用出来るようになり、随分と盛り上った。運動会後のファイヤストームも行われるようになった。戦後の自由な空気と相まって勉強にクラブ活動にと活きいきと励んだ当時の生徒達の姿が目に浮かぶようである。昭和三十年、一中卒業生赤木元藏氏は公選制の教育委員長に就任された。その頃岡山市内の普通高校(朝日、操山)は、その総合選抜方法をめぐっては、角逐を避けることが出来なくなっていたが、赤木氏は全県的な視野から五パーセントの学区外出願制度推進の先頭に立たれた。これは定員の五パーセントを学区外から選抜に寄らないで受け入れる制度であり県下の秀才が本校をめざして出願し、「岡山朝日」の名を高めることになった。その後多くの新設校も生れ選抜方法にも紆余曲折があったが、今春からは総合選抜廃止となり、自由な出願となったようである。
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郷土の誇り |
神野 力(11年卒)
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私は昭和十一年に岡山一中を卒業し、大学(早稲田大学文学部)と軍隊生活以外は生れ故郷の総社市の片田舎に住いして今に至っている。強いていえば喧噪な都会が嫌いだし、人付合いがわずらわしいし、幸いにも岡山で就職もできたから、何回か都会生活の誘いもあったが断ってきた。しかし、考えてみれば岡山の平野部はともかく、中国山地に続くどちらかといえば女性的でおだやかな自然は、決して雄大とは言い難いが、時に世の煩わしさを慰するに充分で、この景観をこよなく愛し、常に心の糧として現在に至っている。「ふるさとの山に向いて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな」これは石川啄木が東京にいて、故郷の山に恋いこがれて作った歌だが、日常故郷の山を眺めて暮している私は、この上なく幸せと思っている。
さて、私の勤務した先は文化財保護の仕事で、約二〇年間はその道一筋に努力してきたが、その過程で思ったことは、先人たちは時として自然を破壊することはあったが、おおむね自然に順応して事を行い、それが現在では故郷の誇り得る歴史的環境となっているのに感心する。たとえば、備中一宮吉備津神社の創建についても、古来霊山とされる吉備の中山の中腹を数pリり開いて、本殿をはじめ附属の諸施設(かつては神佛混合で寺もあった)が設けられている。これは今流にいえば完全に自然破壊で、まさに山を崩し森林を伐採して、それだけ考えれば目を蔽いたくなるような状態であったろう。しかし、そこに木造建造物を主体にした本殿や諸施設が建ってみれば、結果的には一種の美しい歴史的環境が生まれて、まさしく神威にふさわしい雰囲気がつくり出されている。もともと日本人は自然に神が宿ると考えていたから、神域をつくるにしても、山中は勿論平地でも社叢を大切にした。この考え方は庭園でも、大自然を縮小したいわゆる枯山水の姿を造成することにも}がるのだと思う。
ところで吉備津神社といえば、現在の本殿は、応永三十二年(一四二五)に足利三代将軍義満が命じ、二五年の歳月を要して完成した全国最大の神社本殿で、出雲大社本殿の二倍強の大きさである。しかも六〇〇年に近い年月の間屋根替こそ五、六〇年に一度は葦替はするが、一度も大修理(解体修理)をしたことはない。これは木造建造物としては特に稀有に属することで、二つの入母屋造の屋根を並べて一つに構成した俗に吉備津造りといわれこれまた全国に例がない。ところが岡山県民は、先人がこのような日本の誇り得るすばらしい神社本殿を遺してきたことを知っている人は意外と少ない。
岡山の人はこうした美しい自然や歴史環境に恵まれているために、かえってその有難さを感じる心が薄らいでいるのではなかろうか。これは歴史的人物にしてもしかりで、古代において活躍した人に、奈良の都の繁栄に大きく貢献した吉備真備や、平安(京都)遷都を建言し初代の平安京造営長官をつとめた和気清麻呂、あるいは中世初期に佛教や生活に大きな影響を与えた臨済宗をもたらした栄西のように、我が国の歴史に偉大な足跡を残した人々を、郷土の誇りとしてたたえる精神に缺けているのも、考えてみれば、岡山という恵まれ過ぎた環境が、かえって郷土愛を薄くしているようにも思われる。
岡山一中で私より一年先輩の前知事長野士郎さんが「燃えろ岡山」を県政のスローガンにされたのもその辺にあり、私達は今一度誇りある郷土を見直すことが必要ではなかろうか。
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