1998年(平成10年)10月10日  同窓会会報 朝日
第5号
発 行
岡中・一中・一高・二女・二女高
岡山朝日高校  同  窓  会

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このコーナーでは、先輩や恩師からの寄稿文のみを掲載しています。全体をご覧になるには、毎年お送りする会報「朝日」をご覧ください。

朝日高校校歌の出来たころ
次田 圭介(31年卒)

 私は昭和二十八年四月に入学、三十一年三月に卒業しました。今さらのように、歳月の経過の早さを痛感します。
 在学中は、文学に興味をもち、「朝日文学」に係わっただけの平凡な生徒でした。学生短歌などにも応募していました。
 当時、男子高校生は誰も帽子を被っており、私も兄に譲ってもらった角帽を被って通学しました。岡山城址の石段を自転車を押してのぼりました。バラックの校舎も気になりませんでした。石垣の上に出て遠くを見はるかしながら弁当を食べました。
 先生方の中には旧制一中で父が教わった先生方もご健在でした。先生方の渾名が言い継がれ、本名より懐しい気がします。アボ、ネコ、ギイス、ハダカ松、ムツソー、エチ、ホックス、ターラン、ノーテン、センブリ、ポンシュー、ウグイス、チョウセン、タンク、ドンツク、ライオン、カメレオン等々。校長は原田親先生で、禅の話などに感銘したように思います。
 城跡で一学期間学んだあと、机や椅子を担いで相生橋を渡り、六高跡へ移動しました。昭和二十八年の夏だったと思います。「古城で我等の学府なる」を経験した最後の学年であると同時に、現在の校歌を憶えた最初の在校生となりました。
 運動会のあと、ファイアストームが行われていました。しかし昭和二十九年は創立八十周年記念事業として講堂建築中でしたから、火災のおそれがあるとして、ストームを中止するよう学校側の要請がありました。が生徒会は反対、話し合いの結果、決行。ストームで旧制一中の校歌、一中節(数え歌)、六高や三高の寮歌、北進歌など先輩から教わりました。火のまわりで肩を組んで繰り返し歌い、気分は高揚しました。校歌は「歴史は長く八十年、学徒は多し千二百」と数字を変えて歌っていました。
 そのころ現在の校歌が作られました。父、服部忠志(平成九年十二月十一日死去)が歌詞をつくり、中山善弘先生が作曲なさいました。現在の校歌について中山先生に確認したところ、昭和二十九年十一月の創立八十周年記念行事を目途に新しい校歌がつくられたもののようです。
 父は、作詞の過程で「のぼる日の名に負ふ朝日、朝日」が早く出来たらしく、これを各節のおわりに繰り返すつもりであること、男女共学校の校歌は勝手がちがう、旧制中学校の校歌のようなわけにいかない、そこでやまとことばを用いて作詞しようとしていることなど話していたのを断片的に思い出します。
 その後、昭和六十年十一月、昭和二十九、三十、三十一年卒業生有志が、校門近くに校歌碑を建立しました。中山先生の楽譜に父自筆の歌詞が添えられています。第七代校長佃幸男先生は「実に格調の高い校歌だ」とほめていらっしゃいました。
 私たち岡山市内に在住する者が親しんできた市内普通科五校の対校競技大会(五校戦)のはじまりは、朝操戦(操朝戦)です。その第一回は二十九年であったと思います。その時、新しい校歌が歌われたかどうか定かではありません。多分歌われたであろうと思います。三十一年三月には新らしい校歌を憶えて卒業しました。
 そして平成十年、岡山市内普通科の総合選抜最後の年となりました。同時に四十五年間にわたった市内普通科五校の対校戦もおわることになったのであります。

特別寄稿   二人だけの同窓会
 板東久美子(48年卒)

投げられたボール
 「秋田県の副知事が一年近く空席で、あなたに来てほしいということなんだけど、どうですか。」
 勤め先の文部省において、上司から打診されたのが、今年の二月。文字通り青天のへきれきである。
 秋田県では昨年の春、公金不正支出問題からの出直し選挙で非自民の知事が選ばれたが、多数野党の自民党としこりが残り、県庁内部から副知事・出納長を選ぶという案が議会で否決され二役不在のまま。そこで知事が全く方向転換して出てきたのが、「しがらみのない霞ヶ関の女性を」という案である。既に岡山県など数県で女性の副知事が登用され活躍しているが、これらのケースと異なるねじれた経緯で、しかも一人制の副知事。私のような秋田のことを何も知らず、地方自治体も未経験の若輩にはいささか荷が重く思えた。
 何より問題は、高校・中学生の二人の子供を抱えていること。二年後には、ダブル受験もある。よりによってこんな状況の人間に話が来なくてもと最初は正直なところ思った。家族ももちろん、びっくり仰天。「これは困難な事態ですなあ。」とは、生意気盛りの中学生の息子の言である。
 一か月近く悩み抜いた末、しかし、最終的には、投げられたボールを真正面から受け止めることとなった。公金不正支出問題の処理など困難な問題を抱える秋田県の状況を知るほど「義侠心」のようなものも感じ、そのような状況だからこそやりがいがあるとも思われた。何よりも、夫がサポートの姿勢を取ってくれ、私が行くことを前提にしながら、子供達に「秋田に転校するか、東京に残って母親の分も家のことを頑張るか」を選択させるという形でうまく話し合いをしてくれたことが大きい。従来から、子供達には夕食作りをはじめ、相当程度家事を担ってもらっていたことも影響した。
 かくして、中高生の子供を東京に残して秋田に単身赴任することとなったのである。
おばさんアイドル
 秋田に赴任して最初にとまどったのは、とにかく現地のマスコミに取り上げられることが多いこと。当初、新聞・テレビのインタビューが一通りあることは覚悟していたが、それに加え、地方では知事や副知事が出席している会議や行事のシーンが日常的にテレビに映る。あっという間に、県内に顔が知れわたってしまった。
 赴任して最初の週末、秋田市内を散策しようと街に出た途端、「副知事さんでしょう。」と年配の男性に話しかけられ、市場の売り子さんにも「頑張って」と声をかけられる。その後も、街を歩いていてもいつも誰かに声をかけられる。最初は正直とまどったが、これは温かく受け入れてくれている証拠と、未経験の事態を楽しむこととした。ただ、休みに遊びに来た子供達には、「一緒に歩くの恥ずかしい」と敬遠されてしまったが……
 講演の依頼も多い。秋田は、女性の県会議員ゼロ。県庁の課長以上もたまにしかいないという男性優位の県なので、女性が登壇すること自体物珍しい。とにかく、皆に興味をもたれたのが、子供を置いての「単身赴任」。我が家では、夫が掃除したり、高校の娘が夕飯を作ったり、中学の息子が洗濯することを紹介すると、聴衆から驚きの溜め息が漏れる。
同期に巡り合って
 岡山と秋田はまず御縁が無い。気候も県民性も全く違う。しかし、出身は岡山だというと、未知なるがゆえの興味も感じてくれるようだ。秋田の県議会の議員さん達が岡山に視察に行ったときも、「副知事の母校の岡山朝日高校はどこだ。」と見に行きたがった人もいたそうだ。
 接点が無いと思った秋田にも、実は朝日の同期がいた。着任当日、机の上で迎えてくれたのは、秋田県の本荘市で歯科医をやっている同期の武田(旧姓水河)智里さんからの手紙。ご自分の苦労も踏まえ、思いがけぬことに疲れストレスを感じることもあるだろうから、「どうぞ、ゆっくり、ゆっくり慣れていって下さい。そして、できる限り、前向きにとらえて下さい。」と励ましてくれた手紙に、心にぽっと灯がともったようだった。
 七月、本荘の花火の夜、彼女と会った。高校時代は顔を知っていた程度なのに、前から友達だったような親しい気持ち。空に大輪の花が咲くのを見上げながらの、二人だけの同窓会だった。